第百五十九話 忘れられた大地
「ちっ、違いますう。わ、わたし、そんなこと言いません~」
リーンフィリア様は周囲の視線に小突かれるように、身を右往左往させながら否定した。
「天界よ」
そんな彼女を救うように、すぐ隣で言い放ったのはアンシェルだった。
「ナグルファルを永遠に上陸できないようにしたのは、天界の神々。思い出したわ」
「どうしてそんなことを?」
僕がたずねると、アンシェルはただ一言。
「怒りを買った。それだけよ」
言ったきり腕を組んで目を閉じた天使に、これ以上の問いかけは無用と言外に宣告され、僕は船上のセルバンテスたちを見た。
「ぐおお……」
土下座したまま頭を上げないセルバンテスと、彼に後頭部を押さえつけられ、うつ伏せのままもがくアーネスト。彼らは一体何をしたんだ?
「伝説の始まりは――」
マルネリアが小声で言う。
「途方もなく昔のものだ。千年はくだらないとされている。つまり彼らは、それくらい長い間、あの船で海をさまよっていることになる」
「千年……!?」
人の寿命じゃない。けれど、彼らが船の上で世代交代をし続けた人たちの末裔ということも考えにくい。陸に上がるなという命令と共に、彼らが神々から受けた何かがあるのか。
「とにかく、今のままじゃ話もできない。リーンフィリア様、あの二人を落ち着かせてください」
「は、はい」
僕はリーンフィリア様をエスコートしつつ、セルバンテスたちに近づく。付き人のアンシェルも一緒。そうなると、他のメンバーもついてくる。
恐る恐る渡し板からナグルファル号に乗り移ると、リーンフィリア様は二人に呼びかけた。
「二人とも、顔を上げてください。わたしは地上に住まう人々を救うために来ました。天界が課した戒めがあるとしても、今はそれを問いません」
「ああ、女神様……。何と慈悲深い」
セルバンテスが感極まった様子で顔を上げる。
「ぺっ、ぺっ、ちくしょう、なんか変なもの口に入った!」
アーネストも解放され、貝類か何かの破片を吐き出している。
「大丈夫ですか?」
「ああ、悪ぃ――」
リーンフィリア様がそっと差し出した手を、アーネストが無造作に取ろうとした瞬間。
「バカァ!」
極大の握りこぶしに側頭部を殴り抜かれ、彼は船首の方へ水平にぶっ飛んでいき、謎の海産物の山に激突した。
「慈悲深い聖母のような女神様に対してワリィとは何よワリィとは! 死ねアーネスト! んもうッ! いつまでたっても礼儀知らずなんだからッ!」
今のでホントに死んだんじゃないですかね……。
完全にノビたのは確かなようで、自称世界一可愛いオレ様は、少年らしい堂々とした大の字に倒れたまま起き上がってこなかった。
今の暴力を見て、リーンフィリア様がすっかり青くなっているけど、セルバンテスは何事もなかったかのように、恭しく女神様の手を取った。
「失礼いたしました、お優しい女神様。その寛大な処置に心よりの感謝を述べさせてください。では、我々は再び海へ戻ります」
「えっ、待ってください。こんな状態の船で海に出るのですか?」
思わず目をやる甲板上は、船を自称するギリギリのラインをぶっちぎりで逸脱し、海に浮かぶ木くずの塊の様相を呈している。
しかしセルバンテスは器用にウインクすると、
「心配ご無用ですミ☆ナグルファルは、神様方のお力によって、決して沈まないようにできていますから。掃除はまあ……最近サボリ気味ですけど」
それは、永遠に海をさまよわさせられているという意味にも取れた。
「それでも、少しはここで休んでいくとよいでしょう。事情はどうあれ、人間には陸での休息が必要です」
「よろしいのですか?」
「ええ」
「俺たちも賛成だ」
後ろからドルドが声を差し込んだ。
「昔から、ドワーフは客人に異国の話をたくさん聞いてきた。しかし伝説のフラインググレッサから話を聞いたヤツはいねえだろう。歓迎するぜ」
「何て素晴らしい! わたしったら、涙がちょちょきれちゃったわ!」
セルバンテスがみちみちと筋肉を鳴らしながら身をよじった。
どうにか場が安穏な方向に収まろうとしていた。
と。
キー……クルクルクル……。
騒ぎに興味を抱いたのか、海にいたアディンたちが埠頭に上がってきた。大勢集まったドワーフたちに、遊んでもらえるのかと問うように、さかんに首を振っている。
「……!? サベージブラック……!!」
セルバンテスがぎょっとした顔つきになる。ワニくらいの大きさではあるけれど、本物の黒竜だ。リーンフィリア様がすぐに事情の説明に回った。
「大丈夫。危険はありません。あの竜たちは、わたしたちの仲間です」
「えっ……!? 女神様が、黒竜たちを……!?」
彼はのけぞるように大きな反応を見せる。無理もないだろう。天界とサベージブラックの関係性を知っていると、この驚きはさらに一段階増す。
「ええ。見た目は少し怖いかもしれませんが、とても優しい子たちなのですよ。アディン、ディバ、トリア」
リーンフィリア様が呼びかけると、竜たちは嬉々として集まってきた。彼女のたおやかな手で撫でられるたび、クルクルと甘えた声を上げ、さらに体をこすりつけようとする。
くっはー! このリーンフィリア様の包容力と、凶悪な外見を持ちながら懐ききったサベージブラックという構図、最高だぜ! やはり凶暴な猛獣が甘える姿こそ至高なのだ!
わかってもらえるか? フラインググレッサ!
思わず彼の反応をうかがってしまう。
が。
セルバンテスは僕の予想のどれでもない、奇妙な態度を見せた。
「……まさか……こんな……」
彼は分厚い唇を震わせ、そこだけは確かに乙女のような、澄んだ瞳を潤ませたのだ。
「どうしました?」
リーンフィリア様が不思議そうに問いかけた。
「あっ、ごめんなさい。女神様が竜たちを愛でる姿が、あまりにも尊かったものだから」
がしがしと目元を拭う。
しかし、それが彼の中で、何かの姿勢の転換を引き起こしたらしかった。セルバンテスはこれまでの陽気な態度を一変させ、改まった口調で言う。
「女神様、アタシたちの故郷に来てくれませんか」
「あなたたちの、故郷……?」
騒然とする空気が僕の背中越しに伝わり、ふと見てみれば、口をあんぐり開けて固まるドルドとマルネリアが仲良く並んでいた。
完全正体不明の伝説、フラインググレッサ。その彼らの故郷となれば、普通の土地でないことは確定的に明らか。
「ここよりはるか北の、雪と氷に閉ざされた大陸に、アタシたちの故郷はあります」
セルバンテスの説明に、ドルドとマルネリアから声が上がる。
「〈ダークグラウンド〉だと……!?」
「まさか……!? あそこは有史以来、無人の大陸だって話だよ……?」
大きな反応を見せる二人に、セルバンテスは一瞥さえ向けなかった。ただ真摯な眼差しをリーンフィリア様に注いでいる。
「神々がアタシらに与えた罰は、正しくは、陸に上がれないというものではありません。今は〈ダークグラウンド〉と呼ばれるあの大陸から、決して出てはいけないというものです。アタシたちはたまたま船で沖に出ていたためにその禁を犯したとみなされ、他の大陸はおろか〈ダークグラウンド〉に戻ることさえ許されなくなりました」
僕らは愕然とそれを聞いた。それがフラインググレッサの真実。
リーンフィリア様も痛ましそうに顔をしかめ、
「そんな……。一体なぜ……」
「……海にいたアタシらにはわからないことです。けれどそのため、グレッサの民は世界から取り残され、歴史から忘れ去られました。今、彼らは滅亡の危機に瀕しています。どうか、女神様のお力で、救ってあげることはできないでしょうか」
これはっ……!!
新エリアだ、間違いない! 第四のエリア、やはりあった!
「リーンフィリア様、行きましょう」
僕は嬉々として呼びかけた。リーンフィリア様も意を決したようにうなずき――
「待ってください。天界から連絡が来ました」
アンシェルが〈オルター・ボード〉を片手に、神妙な面持ちで流れを断ち切ったのは、まさにそのタイミングだった。彼女はボードの画面を確認するように今一度ちらりと見て、いつになく鋭い視線を周囲に向けてきた。
「“現時点において、地上文明の救済を完遂とする。直ちに天界に戻れ”――以上です。女神様」
「……!!」
リーンフィリア様の顔が静かに強張った。
なんだと……!
「天界は、彼らを地上の民に含まないってことか?」
彼らは神々の怒りを買った。だからか。僕が憤懣を声と一緒に吐き出すと、アンシェルはこちらを見もせずに答えてきた。
「騎士、これまで好き勝手やってきたつもりだろうけど、それもおおむね天界の許可の内だったのよ。最終的な結論は一緒、枝葉末節で反抗してただけ、だから軽い罰則でどうにかなってた。でも今回は違う。もっと強い命令よ。ここから先は、本当に天界の機嫌を損ねることになる」
念を押すように彼女は冷たく続ける。
「あんたはいいわ。今一時、この戦いの間だけいる兵隊よ。でもリーンフィリア様は違う。これからもずっと天界で生きなければいけない。ずっとね……」
「さらに立場が悪くなるって言いたいのか?」
「…………」
答えは沈黙。是だ。
リーンフィリア様はもともと天界で仲間外れにされていた。
今は神格まで落とされて、立場はさらに悪くなっている。主な原因は僕。ここでリーンフィリア様の身を案じないのは、無責任を通り越して不忠ですらある。
しかし――心配するだけじゃ意味ない。そういう戦いを、僕と女神様は始めたんだ。
「僕はいる。女神様のそばに、ずっと」
アンシェルの目がわずかに揺れた。このとき初めて、彼女の目線は僕を無視しているのではなく、逃げているのかもしれないと思った。
なぜなら、僕とアンシェルは、対立するに決まってるからだ。
アンシェルはリーンフィリア様の身の安全を最優先に考える。僕もリーンフィリア様の意思を尊重する。ただし安全、てめーは二番目だ。
傷つくことがあっても。彼女がそれに挑むのなら。
僕はその盾になるだけで、やめろとは言わない。
リーンフィリア様が望むのはどっちだ?
「君はどうする」
「……わたしは……」
彼女が言い淀んだ。
アンシェルが間違っているわけじゃない。僕が正しいわけでもない。
どちらを選ぶのか。
正解を選ぶのではない。
選ぶ行為自体が正解になる。
迷いの沈黙が時を流す。
と。
「騎士様、覚えていますか?」
不意に、リーンフィリア様が口を開いた。
押し黙ったままのアンシェルを尻目に、僕は、女神様の穏やかな眼差しを見た。
「偽物の勇気でも、掲げ続ければいつか本物になる」
「! もちろんです」
本当に、最初の最初。僕が、女神様にかけた言葉。
心が体を動かすように、体が心を動かすこともある。
僕が知って、信じている、たった一つの信念。
「わたしはさっき、彼らに、地上の人々を救いに来たと言いました。もしわたしがここで彼らを見捨て、天界に戻ったのなら、地上の民を想うわたしの心もそこで止まるでしょう。わたしは……地上で生きる者たちすべてが、平らな世界に立ち、正しく生き、正しく死んでいけることを望みます。どんな種族であろうと、天から戒めを受けた者であろうと、違いはありません」
きらりと、清涼な光が、彼女の瞳を過った。
「行きましょう。グレッサの民の町へ」
『リーンフィリア様!!』
僕の賛同の声と、アンシェルの悲嘆の声が重なって不協和音を奏でる。
「グレッサの民を救うことが、天界に弓引くことだとはどうしても思えません。せめて、どのような状態なのか確かめるだけでもさせてください」
「でも、それじゃリーンフィリア様が……」
食い下がるアンシェルに、女神様は逆に突きつける。
「アンシェル。わたしと騎士様は行きます。あなたはどうしますか?」
「わ、わたしは……」
また口ごもり、彼女は下を向いてしまった。アンシェルの立場は微妙だ。先の戦いでは女神様と行動を共にしておらず、今、この戦いにおいて初めて同行した。繋がりとしては細い。それよりも天界の方が、アンシェルと強く結びついている。叱責を受けるのは彼女なのかもしれない。
突然、リーンフィリア様がアンシェルの手を取った。
驚いて顔を上げる天使の目を、ふれあうほどの近さでのぞき込み、
「アンシェル。わたしと来なさい」
「ひゃ、ひゃあい! いきましゅう!」
即オチだった。アンシェルはガチ。
「準備ができ次第、〈ダークグラウンド〉へ向かいます! グレッサの民を救うために!」
凛としたリーンフィリア様の声が風に鳴り、僕は全身から発した返事でそれに応えたのだった。
はじめての はんぎゃく!




