第百五十三話 巨蝗
〈大流砂〉のうねりは、いつ見ても人間のちっぽけさを実感させてくれる。
人がいかに自分たちを尊きものと吹聴し、命の価値は星より重いと説いたところで、この砂の大蛇が絡み合う場所へ片足を差し入れたただけで潰えるそれを、特別なものと実感することはほぼ不可能だった。
「すごい景色、だね……」
パスティスが目を見張りながら、思わずといった様子で僕の腕を捕まえた。初見のときは僕も圧倒された。ここでの水泳大会は死んでもやりたくない。
「あっちだ」
調査隊の隊長を務めていた戦士が指さす方へ、アルルカはアシャリスを前進させた。
今、僕らはアシャリスの武装コンテナの上部にいる。
戦士団含めて八名が座り込み、まるで象に乗ってのピクニックだった。
〈大流砂〉を海にたとえるなら、その海岸線沿いに歩くことしばし。やがて見えてきた明々白々な異変に、僕らは機上で言葉を失った。
「とんでもないな……」
アシャリスの前部からアルルカの声が聞こえる。
潮の満ち引きによって海にできる道というものがあるが、僕らが目にしたのはそれを想起させる光景だった。
轟音を立てながらうねり続ける砂の海のど真ん中を、一本の黒々とした道が通っている。
近くに行ってみると道幅はかなり広いことがわかった。通路というよりは、しっかりした敷地だと考えた方がよさそうだ。
僕はアシャリスから降りて、地面に手をついた。
黒光りする金属の感触は、ドワーフ旧市街に張り付いていたものと同じだ。
もう一つのイナゴの鉱床。アバドーンが決戦に備えて用意した隠し基地といった趣がある。しかし総司令であるヤツがいなければ、ここは蟲たちの墓標にすぎない。
「敵はいるのか?」
ドルドが案内役にたずねる。
「いや、動いてるヤツはいない。行こう。見せたいものはこの先だ」
みながアシャリスから降り、念のため周囲を軽く警戒しつつ前進。
視界は、砂嵐のときほどではないが、よくない。〈大流砂〉が巻き上げた砂のせいだろう。けれど、前方にはすでに見えている。黒光りする大きな何か。
周囲を見回して気づいたけど、地面は真っ平というわけではなく、あちこちに奇妙な突起があった。
どことなく家の基礎を感じさせ、ドワーフたちも同じ感想を抱いたようだった。
どうやらこれが、かつてあった町の遺構らしい。
いわば砂の海底に沈んでいた古代都市だ。流動する砂の下にあっては、構造物のほとんどが削られ、運び去られてしまっただろう。ここから先史文明の痕跡を見つけるのは無理だ。
それらを尻目にさらに進み――
遠くに見えていた黒い影と対面したとき、僕らは、自分の腰にちゃんと武器があるのかを、指先で確かめずにはいられなかった。
「何だ、こりゃ……」
僕は心の奥底に言わされたように、無自覚にうめいていた。
黒光りする巨大なイナゴ。
胴体は、僕のサイズ感覚で言えば、大型バスと同じくらいのでかさがある。それに六本の脚を加えると、全体的なシルエットはさらに一回り大きく感じられた。
ドワーフたちも、うなったまま立ち尽くしている。
これまで従来の虫と同じ大きさだったことに比べると、この巨大化はシンプルに恐怖を覚える。
だがそれ以上に言葉を奪うのは、そのデザイン。
虫という連中は、その小サイズに対して、神の造形が働いているのかと思うほどに、様々な器官や凹凸を備えている。そのディテールが、巨大化したことによってはっきりと目視できるようになっている――それはまだいい。
問題は頭部。
どう見ても人面です。本当にありがとうございました。
デスマスクを連想させる生気のない真っ黒な人面は、その異形さとは正反対に、目を閉じて穏やかに眠っているようにも見えた。
顔立ちは端正で、それが余計に昆虫の胴体部分とのミスマッチを誘い、まさに悪魔的としか言いようのない嫌悪感を僕の鎧の内側に這いまわせる。
長く見ているだけで、体のどこかが病んできそうだった。
どういう趣味してんだよ、あの野郎……。
胸中でアバドーンの造形感覚に毒づきながら巨大イナゴに近づくと、ドワーフたちも用心しいしいついてきた。
イナゴは一体ではなかった。空母に並べられた飛行機のように、敷地内に二列、ずらりと整列させられている。
聞いた話によると、艦載機がこんなふうに綺麗に配置されるのは式典やイベントのときだけで、戦闘中はもっとばらばらに並べられているらしい。一度の機銃攻撃でまとめてオシャカにされないようにするための措置だとか。
そのウンチクのせいかどうかはわからないけど、僕はこの蟲たちが戦闘配備されているようには思えなかった。まるで誰かに見せつけるように――あるいは、コレクションを持ち主がまじまじと眺めて悦に入るような、そのための並びに見えた。まだ何もかもが準備段階のうちに、ボスであるアバドーンはやられたのだ。
「ヤツが逃げようとしていた先は、ここで間違いないな……」
アバトーンが「本当の戦いはこれからですぞ」とうそぶくには十分な戦力の備蓄だ。どんな力を持っていたのかはわからないが、こいつらが群れで町の上を飛び回る光景は、世界の終わりと名付けられた絵画のモチーフに限りなくふさわしいものになる。
「…………!」
アシャリスでのしのし近づいてきたアルルカが、イナゴの人面に顔を接近させるハメになってしまい、無言で後退していく。
……いつもどうでもいいところでダメージ受けてるな、アルルカは……。
「死んでるのか?」
ドワーフたちが無造作に武器でイナゴの足をガンガン叩いている。恐ろしいほどに怖いもの知らずだ。いや……。調査隊の僕らが怖がってちゃ始まらない。
「調べてみよう」
僕はイナゴの脚に手をかけ、よじ登った。
その横を、パスティスが、崖に住む鹿のような俊敏なジャンプを繰り返して通り過ぎていく。
「騎士様……」
上から彼女がおずおずと差し出した手を掴み返すと、満足げな気配が伝わってきた。まさか、これがやりたくて先に上ったんじゃあるまいな。
けなげな!
僕はイナゴの背中に立った。
ざっと見回しても、不穏なところはない。
下でドワーフたちが色々やってるようだけど、イナゴが動く気配はなかった。やはりアバドーンの指示なしにはこいつらは動かないのだ。
「騎士様、あれ……」
足元を調べつつ、頭から尻の方へ歩いていると、パスティスが何か見つけた。
「これは……アノイグナイトか!」
目下、悪魔の兵器の動力源とみなされている赤い鉱石が、背中に埋め込まれている。
しかしその輝きは、アシャリスに埋め込まれているものに比べて、ずいぶん落ち着いていた。……何か理由でもあるのだろうか?
「おーい、アルルカ」
僕はイナゴの上から地面へ呼びかけた。
「どうした、騎士殿」
「ちょっとアシャリスから降りて、こっちに来てくれるか? イナゴの背中にアノイグナイトがあるんだ。調べてほしい」
「わかった――」
アルルカが返事をしたときだった。
がらん、という金属音が、不気味なほどはっきりと響き渡った。
僕とパスティスも、ドワーフたちも、アルルカも、一斉にそちらに振り向く。
整然と並んだ巨大イナゴたちのどこかから、音は聞こえたように思えた。
まさか、動いているのか……?
が。
「違うな。いつものヤツだ」
ドルドが言った。
イナゴの陰から、旧式を思わせる不格好なガーゴイルたちが数体、わらわらと湧き出ていた。
アバドーンの軍勢ではないだろう。〈大流砂〉はそもそも悪魔の兵器の遺棄所だ。この基地が出現してから入り込んだものと思われる。
「調査の邪魔だな。とっとと片づけるか」
ドワーフたちがどこか楽しそうに武器を構えた。
同瞬。
こちらに接近しようとするガーゴイルたちの立像の前を、五線譜のような光が駆け抜けた。
ん……? 何だ、今の。
僕がそう思っ――ギィン! という鼓膜を突き抜けるような音が響き渡ったのは、六分割の輪切りにされたガーゴイルたちが本来の形状を保てずに、その体をぱっと弾けさせるのとほぼ同じタイミングだった。
「あれ……? バラバラになったぞ。何がどうなったんだ!?」
何が起きたのかわからず、僕がイナゴから身を乗り出していると、何かが……時間の流れが違う生き物のような何かが、ガーゴイルたちがいた方向から、飛び跳ねるようにして高速で近づいてくる。
それは、唖然とするドワーフたちの前をすり抜け、くるりと身軽に一回転して、僕の前に着地した。
えっ……。
パスティス。だった。
「倒し、てきた……」
彼女は、少しはにかむように――僕にはそれがひどく妖艶に見えた――笑って報告する。
「え……今の、パスティスがやったのか!?」
「うん……」
ここからガーゴイルたちまでけっこう距離があったのに、一気に間合いを詰めて、それで……。う、ウソだろ……。前から強かったけど、え? 何その動き……。
「あのさ、騎士」
僕が呆気にとられていると、少し気疲れしたようなアンシェルの声が羽飾りからした。
「その子、だいぶフラストレーション溜まってるっぽいから、ちょっと尋常じゃない動きとかしても気にするんじゃないわよ」
ヒエッ……。
クールダウンさせるようにゆっくりと開閉させられる彼女の右手の鉤爪は、さっき聞こえた凶悪な切断音を、まだ少し鳴らし続けているような気がした。
ドワーフよ、これがパスティスだ(震え声)。
どうやら今日の彼女は極めて絶好調らしい。戦慄と同時に頼もしさに身を震わせた、そのときだった。
僕は視界の端に横たわる隣の巨大イナゴの上で、何かが動くのを見た。
「――!?」
直感が神経の指示系統を上回り、僕の顔を半ば強引にそちらに正対させる。
あ、あの野郎……! なんでいるんだ……!?
目の震えを抑えながら、そいつを凝視する。
帝国騎士が、陽炎のようにそこに立っていた。
十分な戦力を整えておきながら、ちょっとした顔見せパートでうっかりやられるボスのクズ




