第百三十八話 継承
おはようニーソとは一体……!
ニーソをどう使うものなんだ?
疑問に思って見ていると、ディタは獣の手で器用にニーソをはいた。
意外にも普通。いや、これは僕がおかしいか。ニーソは足にはくものだ。そのために発明された。
ディタは若干緊張した面持ちでアルフレッドが眠るベッドに上がると、彼の頭のすぐ横に膝を抱えるような姿勢で座る。
スカートが少し短めなので、まわりから中が見えないよう手で押さえているところが何とも可愛らしい。
彼女が何をするつもりなのか見当もつかない人々が、真剣な面持ちで見守る中、彼女はちょっと顔を赤くしながら両足を持ち上げ――
おもむろにアルフレッドの寝顔の上に乗せた。
!?
「フガッ」
これはッ!?
ディタの位置からだと、彼女の足はちょうどアルフレッドの目と口をふさぐ形になる。強く押し付けているわけではないにしろ、さすがの彼からもくぐもった声がもれた。
これがおはようニーソなのか?
その時、アルフレッドに異変が起きた!
それまで規則正しい謙虚な寝息を立てていた彼が、突然、「すううううううううううううううう」と唯一フリーになっている呼吸器――鼻から大きく息を吸い始めたのだ!
それは、普段の生活からはとても考えられない吸引量だった。
酸素とは……人間が食事によって蓄えたエネルギーを使用するために必要な燃料である。酸素が細胞内のミトコンドリアを活性化させ、摂取した栄養素からアデノシン三リン酸――ATPを生成。これを分解することで、筋肉を躍動させる力へと変換する。一方で、圧力が高い環境下に人を置くことで酸素の吸収率を高め、治癒力を増大させる高気圧酸素療法なるものも存在する。すなわち! 体が吸収する酸素が多ければ多いほど、人間は体内の栄養分をより純度の高いエネルギーに変換することができるのだ!(すごい早口)
このアルフレッドの異常な酸素の吸引量は、まさかッ!!
来る!
ドンッ! とベッドから突き上げられるようにして、アルフレッドが直立の姿勢のまま立ち上がった。
寝台分、普段より目線が高くなった彼は、寝起きとは思えない、そして別人のように冴え冴えとした眼差しで僕らを見下ろした。
「これが」
その声は、あたかも天上から見下ろす神の傲然さ。
「これがぼくの考案したおはようニーソだ」
やはりおはようニーソ……!!
しかし、この変貌ぶりは……!?
「はきたてのニーソの清涼感と、繊維の隙間から漂うショートケーキのような幼女スメルを同時に吸引することにより、快適な目覚めを演出する……」
「なにィ!」
「単に最悪なものに目覚めてるだけだと思うけど」
アンシェルちょっと静かにして! 今重大な局面だから!
恐らく、アルフレッドのこの異様な気配は……ミトコンドリアが影響している!
現在のほとんどの真核生物が細胞内に持つミトコンドリアは、元々は単独の生き物だった。それがいつからか他の生物の細胞内で共生するようになり、その生物は酸素という強大なコンテンツを利用できるようになったのだ。
しかし、生物はミトコンドリアのすべての力を引き出していると言えるのか?
ミトコンドリアが欲しているのが酸素だけではないとしたら?
それがニーソ……いや、新素!!
新素を獲得することにより、ミトコンドリアはかつてない力を発揮し始めたに違いない!
そしてアルフレッドは、強大な力を得ると同時に……六十兆あるという細胞内すべてに存在するミトコンドリアによって意識を乗っ取られたんだよ!!!
「乗せられた足の裏は、お湯で温めたタオルを目に当てるようなリラクゼーションを引き出し、ニーソと酸素を同時に吸引したことによるエネルギーの爆発的生産の反動を即座に中和する。これによりノーリスクでの充填が可能。つまり、完全なる起――」
「アルフレッド!」
「ほぎい!?」
背後から容赦のないタックルを食らって、アルフレッドはみっともない悲鳴を上げた。
それから、憑き物が落ちたように目をぱちくりさせ、
「あ、あれ? みんなどうして……え!? ディタ!? どうしてここに!?」
腰のあたりにしがみついている小さな少女に気づき、驚きをあらわにした。
これは……衝撃によって、アルフレッドの意識が再覚醒したのか!? よかった、ミトコンドリアの支配は完璧ではなかったんや!
危機は去った。彼を想ういたいけな少女によって……。
「わたし、いい子にしてたよ」
アルフレッドの背中に顔をうずめながら、ディタは声を震わせた。
その切ない響きに、僕もはっとなる。
そうだ。ミトコンドリアとかどうでもよかった。本当にどうでもよかった。
アルフレッドは潜睡病から目覚めた。
しかし……ディタにとっての本当の問題はここからなんだ。
「いいお嫁さんになるために、毎日ご飯の準備を手伝って、お掃除して、洗濯して、おじさんの靴も磨いて、アルフレッドが元気でいますようにって、毎晩月にお願いしてたんだよ」
「ディタ……」
少女の涙で湿る声に、室内はしんみりとした空気に包まれた。
そして彼女は一番問わなければいけないことを問う。
「アルフレッドは帰りたくないの?」
アルフレッドはディタの腕を優しくほどくと、振り返り、ひざまずくように彼女と目線の高さを合わせた。
「そんなことはない。ごめんよ。ぼくは、ディタとあまりにも長く離れすぎていて、君の大切さを、ほんの少しだけ忘れてしまっていたみたいだ。でも、こうしてまた会えてわかった。ディタとまた暮らしたい。君のいるところに帰りたい。今すぐに」
「ほんとう……?」
「ああ。本当だ。今のこの気持ちを、永遠に心に刻む」
遠慮がちに前に進み出たディタを、アルフレッドは大きな体で包み込んだ。
キメラ少女の、嬉しいような、安堵したようなすすり泣きを聞きながら、僕らは、すべてが正しい形で解決したことを悟った。
※
「うわあ、すごーい! 大きーい! これをアルフレッドが作ったの!?」
オールドシナリーの整備用通路を改造した展望台から戦闘街を一望し、ディタがはしゃいでいる。
「ぼくが作ったわけじゃないよ。おじさんたちと一緒に考えて、ドワーフたちと力を合わせて作ったんだ」
隣にいるアルフレッドが笑顔で説明した。
荒れ地にあるとは思えない巨大で整然とした都市は、高所から眺めても、砂煙でかすむ遠方まで町並みが途切れることがない。
容赦ない環境が生み出す、広大すぎる砂漠が自然の驚異であれば、戦闘街はそれに負けない人々が創造した、人力の驚異と言えた。
「どうして壁がお星さまみたいになってるの?」
「その方が町を守りやすいからだよ。あの出っ張ったところから、敵を狙い撃つんだ」
「そっか。アルフレッド、悪いヤツと戦ってたんだね」
「いや、ぼくは戦ってないよ。戦っていたのはドワーフの戦士たちさ。彼らはすごいんだ。一日中戦い続けても疲れない、強靭な肉体と精神を――」
二人の話は尽きない。
半年という時間は、恋する乙女の中に無限とも思える言葉を作ったようだ。アルフレッドが目覚めて(朝起きたという意味)から、ディタは片時も休むことなく彼に話しかけていた。
あれからすぐ、出立は明後日と決まった。
一日猶予を設けたのは、ディタにドワーフの町を案内するためだ。
ディタは初めてアルフレッドたちが作り上げたものを見て、心から感動しているようだった。
あ、我々ですか? まあ……デバガメですね、一般論的に考えて。
二人の行く末を見守りたいパスティスと、さらにひと悶着期待している不謹慎なマルネリアに引っ張られて、結局フルメンバーで二人を追いかけているのです。
「こんなにすごいもの作ったら、離れたくなくなっちゃうよね……」
ほうっと感嘆のため息を吐きながらディタが言った。
「それも……少しあったかな。こんなに大きなものづくりをしたのは初めてだったし」
確かに、ニーソだけではなかったのかもしれない。
僕もこれまで二つのエリアで町を作ったけど、離れるときは自分の体の一部を置いていくような気持ちになった。
「本当かしら……」
天使さん。
「わたし、アルのいるところならどこで暮らしてもいいよ」
ディタが健気なことを言う。が、アルフレッドは首を横に振った。
「いいや、〈ヴァン平原〉に帰ろう。あそこにみんないる。ディタにとっての友達も、家族も」
自分を気遣ってくれる青年に対し、少女は微笑んだ。
「帰ったら、みんなにたくさん自慢できるね」
「当分は話題に困らないな。じいさんたちが、あっちでもでかい塔を建てるとか言い出さないといいけど。ああ、そうだ――」
「なに?」
「ディタに渡したいものがあるんだ。これ、詫び石っていうらしいんだけど……」
「あっ……」
おっと……。
これ以上は本当に僕らは存在するだけで悪者ですね。
大人しく下で待つことにしよう。
ほら行きますよ、女神様方!
※
アルフレッドとディタ、そして築城五人衆の見送りは壮大なものになった。
ドワーフの町を再建した偉大な建築家として、やがて立派なモニュメントが作られる予定だとか。
フルニーソの女性陣に手を振られ、それに応えるアルフレッドは、シャツをずっとディタに引っ張られたままだった。まあニーソを抜きにしても、美形ぞろいの女性ドワーフたちから見送られれば、男として多少はね?
「達者でなあ!」
「またいつでも来いよお!」
名残惜し気に響くドワーフたちの言葉を抜け、僕らは空へと浮上していく。
「アルフレッド」
そのさなか、僕は彼に呼びかけた。
「何ですか?」
「おはようニーソ、すごかったよ。あんな方法があるなんてね」
酸素と新素が合わさり無限大に見える。
逆にカバーソックスでやると頭がおかしくなって死ぬ。
「……ニーソマンのおかげですよ。あの銅像に通っている途中で思いついたんです」
「ただ、あれはおいそれと手を出していいものじゃないと思う」
アルフレッドは一瞬目を見開き、しかし落ち着いた口調で、
「やはりわかりましたか。あれがまだ未完成だと……」
「どうすれば危険性を除去できるのか僕にはわからないけど、それはアルフレッドとディタが何とかしてくれると信じてる」
「もちろんです。必ず完成させてみせますよ」
僕らはふっと微笑を向け合った。
「僕の銅像にニーソマンの名はもうもったいないな。アルフレッドに預けたい。いや……その上を行く、マスターニーソの名を受け取ってもらいたい」
「この上ない誉め言葉です。騎士様」
僕らはガガシシッ! と固い握手を交わした。
熱い友情があった。
趣向の一致があった。
もたらされる答えは、果てしない敬意だ。
「何でこんなのを天に運ばないといけないの……」
そんな僕らを見る天使の目が、北国の山の頂のように冷ややかなのは、まあ、空の上は寒いからなのだろう、きっと……。
ヴァン平原のヤツらはほんま…
作者は全細胞にはやく謝っテ!




