第百四話 したたり落ちる
何度見ても、現実かどうか疑うような光景だ。
砂漠の彼方から津波のように押し寄せる黒雲。
これが、戦いの神ボルフォーレが科したドワーフ族への罰だというなら、あまりにも限度というものを忘れすぎている。
洞窟の外に飛び出た僕らを、砂粒に混じって飛び交う鉄片が迎えた。
「いたたっ。ちょっと、これ、前のやつより強いんじゃないの?」
裸Yシャツじみた格好のマルネリアが、早速洞窟内に避難する。僕の鎧にもカンカン当たって不気味な音階を作っていた。確かに、砂嵐本体はまだ遠いのに、この風圧は異常だ。
「親方、近年まれに見る強さのシムーンです!」
「ああ、わかってるぜエリック! おめえは外に出るんじゃねえぞ!」
細い風切り音は、あっという間に野太いうなり声になった。
空も暗くなり、まともに動けるのは、僕とドワーフのオッサン衆だけだ。
「これじゃ、リーンフィリア様だってメディタチオどころじゃないよ!」
「そうだな騎士殿! もしくは、もう吹っ飛ばされて海岸あたりに突き刺さってるかもしれねえ。無理矢理にでも連れ戻すぜ!」
夜のように薄暗い海岸から、砂漠へ続く道へと入る。
縦横無尽に飛び交う砂埃が視界を遮り、数メートル先くらいしか見えない。
クソッ、何だこれは。この世の終わりか!?
かろうじて輪郭をとどめる岩の裏側に、誰かがしがみついていた。
あれは……。
「アンシェル、無事か!」
僕は駆け寄って確認した。
彼女の体の表面を、薄い光の膜のようなものが覆っている。防御の魔法なのかもしれない。ケガはないようだった。
ただ、風に対する防護はないらしく、しがみつくので精一杯のようだった。
「よく来たわね盾! リーンフィリア様のところに行くわよ!」
そう言うと、彼女は僕の背中にかじりつくようにして、砂漠へと押し出した。
あくまで人任せにしないアンシェルの根性に感心しつつ、僕らは進んだ。
「リーンフィリア様はまだこの先にいるの!?」
暴風にかき消され、返事があったかどうかすらわからなかった。
ただ、彼女の小さな手のひらが押し出す力は変わらない。
そして。
「うそ……だろ……!」
リーンフィリア様はいた。
長い髪と、腋見せ衣の裾を、荒れ狂う風の中に広げながら。
直立不動。
アンシェルのように魔法でガードしている様子もない。
幸い、神様の体はそれほどヤワではないようだ。鉄の破片に切られて、傷だらけということもない。痛いだろうけど……。
「リーンフィリア様!」
どうにかリーンフィリア様の隣までたどり着くと、アンシェルが飛びついた。
何かを叫びながら、懸命に腕を引っ張ろうとしているけど、女神様は足に根が生えたみたいに動かない。
まさか、まだメディタチオが続いているのか? こんな状況で!?
僕は鉄板に守られた目で、女神様の様子を確かめる。
目を閉じた彼女は、小さく唇を動かし、何かを話しているふうにも見えた。
その内容はまったく聞き取れない。しかしその表情は平静そのもので、砂嵐の兆候を感じ取っている様子はない。
放っておいても大丈夫なのか……?
いや、女神様をよく知るはずのアンシェルが心配している。
彼女はつれ帰るしかない!
こうなったら強硬手段。リーンフィリア様を担ぎ上げようと、僕が腕を伸ばしたとき。
それを遮るように、何かが兜の鉄板の上に当たった。
金属ではなく。砂ではなく。
それは、ここにあり得ないものだった。
しずく。水の滴。
「…………!?」
続けて数滴が兜に当たって小さな飛沫となり、砂嵐にさらわれていった。
何だ……?
雨……!?
僕は思わず周囲を見回す。
確かに雨天のように暗いけど……違う。雨なんか降ってない。
視線をリーンフィリア様に戻し、
「…………!!」
僕は硬直した。
いつの間にか、リーンフィリア様の右手に〈偉大なるタイラニー〉が握られている。
その刀身から、滴がしたたっているのだ。
何だ、これ? リーンフィリア様の汗が伝わって……?
思わず、目線が、細い手首へと移る。
違う。
リーンフィリア様は汗をかいていない……!
じゃあこの水はどこから?
考えられるのは。
剣自体が、滴を落としている……!
――よ。おまえの仔牛を捨てよ。我が憤怒は彼らに向かい燃える。いつまで清くなりえないのか……
「なっ……」
何だ!? 何か聞こえる!? リーンフィリア様の声が……!? 風に邪魔されることなく、はっきりと体の底まで響くみたいに聞こえてくる!
――それは神ではない。造られたものだ。仔牛は必ず粉々に打ち砕かれる。風をまく者は嵐を刈り取らねばならない。嵐の中で……嵐の中で……。
「ヒイッ!?」
こ、これはまさか旧約聖書!?
なんかとんでもないものを暗唱してる……!?
僕が怯んだとき、リーンフィリア様の右手が動いた。
ゆっくりと〈偉大なるタイラニー〉を掲げ、刀身を水平に寝かせる。
かすかに、彼女の目が開いた。どこを見ているとも知れない、茫洋な眼差し。
あるいはそれは、砂嵐の奥にいる闘神を見据えていたのかもしれない。
「アンシェル、離れろ!」
僕は彼女に飛びつくようにして、リーンフィリア様から引き離した。
「何するのよボケ!」
途切れ途切れの罵声を繋ぎ合わせると、そんなセリフに解読できたと思う。
が、そんな彼女も気づいた。これまで三日間、微動だにしなかったリーンフィリア様が動いていることに。
横に構えられた〈偉大なるタイラニー〉から滴が雨のようにしたたり、リーンフィリア様を濡らす。
異変が起きた。
剣型だったスコップの一部分がスライドし、その刀身をさらに伸ばしたのだ。
それは一カ所だけではなく、あらゆる箇所で起こった。
スライド、スライド、スライド、スライド!
その変形は、ある形状を象ることで停止した。
片刃の細い剣。まるで鏡のように美しく輝いて……これは、刀!?
リーンフィリア様は両腕を交差させ、自らの体を包み込むような奇妙な構えを取った。
カツッ、と一際大きな衝撃が兜を打つ。
「痛っ」
思わず声が出てしまう。
暴風の中を飛び交う鉄片の勢いがさらに増している。
いつの間にか、砂嵐本体が目の前に迫っていた。
こんな近くまでっ!
やばい、呑まれる!
そんな極限状態で、僕は――いや、きっと僕らは聞いた。
「時、満ち足りて」
リーンフィリア様の、刀を握る指がわずかに締まる。
「森羅平列」
かすかに腰を落とす。
「天地無角」
そして、全身の回転と共に解き放たれた刃の切っ先が。
「世界よ、歪みなき一本の線であれ!」
ドツッ!!
天地の狭間に一本の水平線を引いた。
「…………!!!!」
刮目して見よ。
黒雲のような砂塵の壁を上下にぶった切る左右無尽の一閃!
それは一瞬にして砂嵐の勢いを削ぎ落とし、春風のような柔風へと生まれ変わらせると同時に、豁然と開けた砂漠の風景をも上下に両断してみせた。
波頭のようだった砂丘の頂上は、根元からばっさりと切り落とされ、膨大な数の砂のブロックとなって平らな砂地に降り注ぐ。
それはあたかも……飛沫が飛び散る嵐の海を、一撫でで凪へと変えたような、すさまじい光景だった。
僕も、アンシェルも、ただ呆然とそれを見つめるしかない。
地平線の彼方まで、砂漠は平らになっている。
もはや人間業ではなく……神の奇跡すら超えている。
「ふーっ」
きっと砂漠に潜む獰猛な意志さえも、驚愕に声も出せないでいるこの状況に、場違いな女神様の声が響いた。
「あれっ? 騎士様、アンシェルも。いつからそこに?」
きょとんとして、たった今目が覚めたみたいな顔のリーンフィリア様が、倒れ込んでいる僕らを見下ろす。
「ど、どうしたんですか。びっくりした顔をして」
あなたが、どうした。
しかし、それ以上に衝撃を受けた人々が、僕らの後ろにいた。
「砂漠を……この大地の試練を、女神が終わらせた……!」
ドルド以下、ドワーフの戦士たちだ。
先頭で血走った目を見開くドルドが、体をわなわなと震わせながら、声を広げた。
「みなに伝えろ。闘神は去り、ドワーフ族の修練は終わった。我らがその集大成だ。すべての研鑽はこの世代のためにあった。決戦の女神は来た! ……ボルフォーレ、オフロッテ……! リーンフィリア……タイラーニー、オブソーケ!」
「タイラーニ……!」
その言葉は、砂漠の風のようにドワーフたちを駆け抜ける。
波打つ砂漠を文字通り平らにしてみせた女神に対し、疑うものなど何一つない。
「タイラーニ、タイラーニア!」
『タイラーニ!! タイラーニアーレ!』
新たな祈りが、快晴の砂漠へと響き渡った。
なしとげたぜ。




