23話 願望 8月5日
先日のお食事会以来就労に従事し、家と現場の往復に勤しむ日々が続いていた。
いまいち慣れない生活に苦心しつつも、着実に増えていく蓄えに充足感を貰う事で悪くない日々を過ごすことができている。
時たま東さんに現場で会うということも、少なからず彩を加えてくれていると言ってもいいかもしれない。
ちょっぴりだよ?
そして今日も1日仕事を終え、こうして帰路についている。
流石に疲れが溜まってきたので明日は休みにしておいた。
週休2日でフルタイムなんて今の俺には到底できそうにない。
まいにちはたらいているひとはえらいなぁ。
頭のてっぺんまでへろへろになりながら電車に揺られていると、どうにも眠気が引っ付いてきて仕方がない。
つり革に捕まりながら立ち寝する勢いだ。
しかし、俺にとってこれは進歩と言えないこともないのである。
10年程前の2007年9月17日午前8時58分。都内で起きた地下鉄3路線同時爆破テロ。
あれに巻き込まれて以来数年間、電車で寝るどころか乗ることすら出来なくなっていたからだ。
初めのうちは電車を目の前にするだけでフラッシュバックを起こしたように喚いていたという。
リハビリ中やその後の記憶は段々と朧気になってきている。
その頃に比べれば今やなんてことは無い。
たまに思い出してしまうこともあるが、そんな時でも落ち着いて対処できるまでになった。
あれからもうすぐ10年。
毎年この時期になると、あの事件を振り返る特番やニュースが放送されるが、節目となるこの年もきっと御多分に漏れずだろう。
あの事件でたくさんの人が亡くなった。
たくさんの人が傷ついた。
後の時代に与えた影響も大きかったらしい。
にも関わらず未だ容疑者の特定には至っておらず犯行動機なども不明のまま。
もっとも自爆テロとの見方が強く、容疑者は既に死亡していると考えられているが。
このように謎の多いこの事件は陰謀論や都市伝説等と関連付けられ、その手の本が出版されているのも見かけるほど。
そういうのを見ると一刻も早く真相を解明してほしいのだが、正直あまり期待はしていない。
それに今は10年前の事件より、解決したい問題がある。
世界の改変が起こってから、もうどれ位の時間が経過したのだろう。
実時間と体感時間に差があるということもあり、そろそろ曖昧になりつつある。
最近はバイトに勤しむことで考えずにいられたのだが、こうして時間が空いた時にはどうしても思い至ってしまう。
この問題は解決できるのだろうかと。
あれから特に進展はない。
何もしていないのだから当然である。
金を稼いで、愛美に会いに行って、それからどうする?
単に連れ戻せばいいという問題ではない。
黛さんの御両親の件もある。
こちらは連れ戻すことすら叶わないのだ。
なんとか力になりたい。
そう思う気持ちはある。
さらに加わるのは椎名さんの件。
この間話した事で彼女の自殺への疑念は強まった。
万が一誰かに狙われていたとしたら。
もう、見殺しになんてしたくない。してはいけない。
でも、一体俺に何ができる?
俺が余計なことをしない方が上手くいく事だってあった。
いたずらに時間の流れを乱していたに過ぎなかった。
時を超える力を手に入れて浮かれていただけなんじゃないか?
俺ならできるって過信していただけなんじゃないか?
何かに立ち向かっている自分に陶酔していただけなんじゃないか?
こんな考えばかりが頭を駆け回る。
…いかんな。
どうにも最近、悲観的になりやすいみたいだ。
何事も無かったかのような今の日常に、少し焦っているのかもしれない。
このまま、この日常が続いてしまうのではないかと。
非日常と日常が、いつの間にか入れ替わってしまうのではないかと。
いや。
それ以上に、きっと怖いのだ。
このまま、何もできない自分になることが。
変わってしまった世界を受け入れかねない自分が。
どうすることもできなかった。
抗うだけ無駄だった。
だから、仕方ない。
余計なことをしない方がいいと思った。
いたずらに過去を乱さない方がいいと思った。
だから、仕方ない。
面白いくらい、言い訳は溢れてくる。
少し前の、あの意気込みはどうしたのだろう。
なんとしてもやり遂げると、そう誓った時の自分はどこに行ったのだろう。
壁にぶち当たるとすぐに逃げ道を用意して、あたかも既定路線だったかのように進んでいく。
思えば、昔からそうだったのかもしれない。
漫画家になろうと思った時。
絵が描けない。
描いてくれる人もいない。
だから、仕方ない。
「ふっ」
思わず笑い声が漏れた。
なんだ。
やっぱり、変わらないんだな。
こんな俺にできることなんて――
「何を笑っているのかしら?」
「え?」
急に声を掛けられ少し驚く。
横を見てみると、いつの間にか黛さんが隣に立っていた。
「な…なんで?」
「用事があって出掛けていたの。その帰りよ。電車に乗ろうとしたらあなたを見かけたから」
「なら、声掛けてくれりゃいいのに」
「掛けたわよ。心ここに在らずって感じかと思えば、急に笑いだしたから驚いたわ」
「そう…だったか」
「どうしたの? 過去が改変されてないということは、バイトは問題なかったようだけれど」
「あ、ああ…」
なんというタイミングだろうか。
挫けかけている時に、よりにもよって黛さんと出くわすとは。
こんな時どんな顔をすればいいか分からないの。
なんなら先に笑っちゃったし。
「……もしかして、また何かあったの…?」
「え…?」
「いつかみたいに園部君に何かあったとか?」
「いや…ちょっと疲れただけだ」
「そう…。ならいいのだけれど」
そう。
きっと疲れただけ。
慣れないバイト生活で思考回路まで疲弊しているんだろう。
そのせいで考えなくていい事まで考えるようになってしまったのだ。
環境の変わり目、というには大げさかもしれないが、そういう時人は思考がネガティブになりがちだと聞いたことがある。
つまりはそういうことだ。
「私、色々と考えたのだけれど」
「何を?」
「まず、あなたと私の過去改変に対する耐性…みたいなものかしら。それの認識についてよ」
「認識?」
「えぇ。大崎君、あなたはこれをどう捉えているかしら?」
「どうって…」
改めて考えてみると、どういう理屈なんだろうか。
過去改変が起こった時、記憶の改変を防いで、その記憶を新しい世界に引き継ぐ能力。
端的に言ってしまえばリーディングなんたらみたいなものだ。
某映画の主人公みたいに改変後の世界の記憶が詰め込まれるということは無い。
故に、改変がなされた時点から、改変を行った時刻までの新しい世界の記憶は持っていない。
「私は、抗うための力を与えられたのだと思う」
「え…?」
「世界は、誰かの歪んだ意思によって捻じ曲げられている。だからそれを正すための力」
「世界を正す…」
「そう。世界を捻じ曲げるだなんて許されるはずのない行いよ。だから、あるべき姿へ正すための力を与えられたのだと思う」
「……」
「それが私とあなたなのには、きっと理由がある。そんな気がするの」
「そう…かもな」
どこまでも真っ直ぐな瞳を宿す黛さんに、やっと吐き出せたのは、そんな言葉。
捻じ曲げられた世界を正すには同じように捻じ曲げ返すしかない。
それは “正しくない行い” と何が違うのだろう。
結局は同じことをしているのに他ならないのではないだろうか。
誰かにとっての正義は誰かにとっての悪。
正義の反対はまた別の正義だなんて、今更そんな使い古された議論をするつもりは無いけど、思わずにはいられない。
何が正しいことなのか。
正しいこととは何なのか。
俺は、正しくありたい。
「何か言いたげね」
「いや、別に…」
「目を見れば分かるわよ。その目は何か言いたいことがある時の目」
「何を根拠にそんな…」
「分からないけれど、分かるのよ」
「何その意味ありげっぽい台詞」
「いいから。話してごらんなさい」
- - -
「そう。あなたなりに思う所があると言うことね」
「ざっくりした感想だな…」
仄暗い胸のうちを吐露すると、幾分心が軽くなった気がした。
この間の食事会を含め、諸々椎名さんの件は伏せたが。
もっとも黛さんから椎名さんの件に関して深く言及されたことはなかった。
もしかしたら“啓祐にタイムリープの話をしなかった事にした理由”を黛さんはなんとなく察しているのかもしれない。
悩み事を抱えた時、誰でもいいから話を聞いてもらう事が大事なんだと言うが、つくづくその通りだと思う。
その悩みが解決するかはまた別問題で、心の負荷を軽減するという役割をきっちり果たしてくれる。
しかし、悩み事を分かち合い、共に解決を図るといえば聞こえはいいが、一方でそれは相手に負荷を肩代わりさせているだけということにならないだろうか。
「あなたの言い分は、分からないでもないわ」
「あぁ」
「では聞くけれど、あなたは何のために正しくあろうとしているの?」
「それは…」
「何が正しいのか… “分かる” ことはきっと難しい」
「……」
「でも “思う” ことはもっとずっと簡単だと思うの」
「思う…」
「えぇ。ものさしなんて、思想や意思で簡単に目盛りが変わってしまう不確かなものよ。だったら、最初から不確かであることを受け入れてしまえばいい。そうすればものの見方を変えることは難しくなくなるはず」
「そんなのは、ただ逃げてるだけと変わらないじゃないか」
「正しさと正義はイコールではないわ」
「……。それは…」
「あなたは正義の味方になりたいのかしら。私は、私の日常を、家族を取り戻したい。それだけ」
「……」
返す言葉が見つからない。
黛さんは正しくあろうとしているのではなく、自分が正しいと信じたことを為そうとしているだけなのだ。
それが本当の意味で正しい行いなのかは、彼女にも “分からない” のだろう。
でも、正しくない行いに抗うことは、きっと正しい事なのだと彼女は “思う” ことにしたのだ。
彼女の意思は、家族を取り戻すことに向けられている。
家族を。
家族と過ごした時間を。
家族と作るはずだった未来を。
根こそぎ奪われた彼女が、どれほどの思いで今を生きているのか。
俺は分かっていなかった。
彼女の弱さに気付いていなかったから。
いつでも凛として、己の信念に従った生き方をしようとしていた。
それはきっと、強くありたいと願う気持ちの現れ。
弱さの証だ。
それを “強さ” だと思っていた俺は、どうしようもなく愚かで、滑稽で、そして…。
「黛さんは、もっと器用だと思ってた」
「奇遇ね。私もそう思ってたわ。世界がこうなるまでは」
「でも…だからこそ、立ち向かえるのかもな」
「褒め言葉と受け取っておくわ」
そう言って微笑む黛さんは、とてもかっこよく、そして美しかった。
結局しばらくぶりになりました…m(_ _)m




