night cathedral-3”テンプテーション”
[Fab-26.Sun/01:04]
「――へぇ。すごいね、君たち」
突然と聞こえた声に、二人は空を見上げた。その声は確かに頭上から聞こえたのだ。
丘にある広い霊園を有する教会。付近には、その礼拝堂しか建物はない。しかし、声の在り処はそれよりも上だった。
そこにあるのは都会の空。まして街は未だ眠りに就いてはいない。
数えるほど。そこには僅かにしか星は見えず、広がるのは人間に初めて恐怖という感情を教えたであろう闇だった。
その闇を仰ぎ見た、黒衣の滝口と陰陽師の目に映ったのは少年。美しい顔立ちの童。
それが夜闇にぽつりと浮いていたのだ。
ゆっくりと見えない階段を降りてくるかのように。そして、聖堂の屋根を飾る十字架を横ぎり、その美童は宙を歩み来る。真っ直ぐと、妖婦の最後に居た場所へと舞い降りて来ていた。
灰へと還ったルチアが、その地面に残こしていたのは、纏っていた赤のレザーボンテージと聖マルタンの虚構革鞭。そして、かつて彼女の信仰した象徴、その名残のみだった。
この世ならざる存在の末路は、ただ塵と消えるのみである。それは吸血鬼とて例外ではないのだ。
頭にバンダナを巻いた少年は、優雅な身のこなしで着地した。
水面に舞い降りる白鳥のように。演出された場面さながらに。それは絵になる光景だった。
見た目は小学校高学年の児童程度の身体。その一見、華奢で脆弱な身体から放たれる、凍て付くような冷たい恐怖が感じられなかったのだとしたら。
その様はあたかも、闇に堕ちた者にさえも、等しく救済の手を差し伸べる天の御使いである。
「――爵級を葬ることの敵う、滝口と陰陽師……居たんだね。まだ、そういう力を有する下等生物も……」
くすりと屈託なく微笑い、足元の遺物をぼんやりと眺めながら少年は呟く。
「……アンタが雨月、ね?」
見た目、滝口の少年と陰陽師の少女よりも幼い彼に。瑞穂は身構えながら訊ねた。
雨月。
長き眠りから目覚めた『魔』。
力を秘めた聖布を、とある寺院から奪いし魔性。
詩緒と瑞穂の追っていた標的である。
「如何にも、そうだけど? 僕に何か用かな?」
少年は。雨月は、あっさりとその質問を肯定してみせた。
己の敵。己の存在を排除しようとする者。滝口という退魔武士と、陰陽師という退魔術師。
そういう知識を間違いなく持つであろう雨月は、しかし、惚けた様子もなくそう言い放っていた。
それは雨月という存在にとって、彼ら二人は、所詮、障害にもならないという認識の現われなのだ。
そして、その理由の一端を、二人は無意識の内に感じていた。刷り込まれていた。
その魔物の双眸は――。
「へぇ――」
その瞳が瑞穂に留まる。その表情に色気がつく。
ぱっちりとした魅惑的な大きな目を細め、その乙女を値踏みするかのように雨月は乙女を見る。
無垢な子どものような外見に、その様は酷く不釣合いだった。
「な、何――!?」
ぞくり。
嫌悪を感じさせる視線に抗議を訴えようとするも、瑞穂は寒気に駆られ、背後を振り返る。
「――え?」
そこには目の前に居たはずの、美し過ぎるほど整った美童の顔が在った。
か細い子どもの指が、驚きを浮かべた少女の顎を淫らになぞる。
そこまで近い距離に、不意に、気付かずに、雨月は現れていた。
「君、とても綺麗だね。人間にしておくのがもったいないくらいだ」
整った顔にある二つの黒い宝玉に、見初めた美しい乙女を映し雨月は笑う。
「僕とおいでよ――」
その凄艶な少年から少女に贈られたのは、甘美な世界への誘い。
その存在に、瑞穂は強く魅せられてしまっていた。否、正確には最初に視られた瞬間から、そうだったのかも知れない。
何も警戒できず、何も考えられず、何も思えず。今はただ、彼の全てに惹きつけられていた。
「――あ」
頬を染め、少女は身を焦がす。
「――君は僕と久遠を生きるんだ――」
愛を囁くような、恍惚とさせる響きが瑞穂を襲う。深く魅入られた彼女に抗う様子はなかった。ただ、受け入れるべく、美童を迎える。
重なる二つの影。
雨月の唇端に鋭い牙が露わになる。
歪な永遠を約束する婚約が、乙女の白く細い首筋に刻まれようとする。
「――フフフッ」
あどけなく笑う声を残し、少年の姿をした夜の支配者は、直後、背後に身を躍らせていた。
入れ替わるように、抜き身の刀を持った黒衣の滝口が雨月の居た場所に現れる。
糸の切れたマリオネットのように、力無く崩れる乙女をその少年は支えた。
「――っ!?」
詩緒の胸の中、呪縛から逃れた瑞穂の顔に玉のような汗が浮かぶ。
「大丈夫だな?」
空間を裂いた鬼切を引き戻し、詩緒は訊ねる。そうでありながら、疑問を残し、答えを待たず、直後には跳躍する。『魔』との距離を一足に詰める。
「無粋だよ? 童」
向かい来る滝口を、先と同じ妖しい色を浮かべた瞳で雨月は迎えていた。
「――だけど、君も十分に僕と生きる資格を持っているようだね――」
「詩緒! ダメ! 魅了される!」
陰陽師の少女が、滝口の少年の背中に叫ぶ。
魅了。夜魔と呼ばれる魔物たちの多くが持つ、人を意のままに惹き付ける魔性の力。理性を破壊し、誘惑のままに人を操る魔力。
雨月の持つその呪縛は、桁違いに強力であった。
賀茂瑞穂という陰陽師は、そういう対呪的能力に、圧倒的に長けた術者だったはずなのである。
だが、不意を突いたとはいえ、その美童は、その陰陽師の魔術防御能力を容易く突破して見せたのだ。
「おや?」
しかし、雨月は異変に気付く。迫る滝口に、それ以上の、変化は見られない。
剣光が閃く。
「――残念。僕は君でも構わないのに……余程、鬼切の滝口は我が強いと見える」
斬撃をかわした雨月の姿は宙に止まっていた。
詩緒は雨月の強力な呪詛を、己で在り続けることで一応は抵抗して見せたのである。
意志のもたらす力。
神氣。
それは、そう呼ばれる力であった。
「それほどでもない」
鋭く『魔』を睨みながら、剣士は呟く。
――あくまで一応は、なのである。異変は、在るのだ――。
そうでなければ――。
そして、発動させた神氣を持続させる。
それは迷いなく、切り札を発動させる決意だった。
その危険性を踏まえた上でも。吸血鬼などという、多くの犠牲を産む存在を、一刻も野放しにするつもりはないのである。
そして、何よりも。
この状況下では、そうするよりなく、雨月の能力はそれほどに危険なのだ。
神氣という絶対的な抵抗手段を用いながらも、詩緒は今、詩緒でありながら、詩緒ではないのだから。
魅了の魔力の支配下に詩緒とて在るのだ。
それを無理矢理に神氣によって『己である』と上書きし続けている状態なのである。
「あれ? 気にならないの? 僕がその刀を知る理由を? 僕は過去に当時の四天王と戦ったこともあるんだよ?」
しかし、そんな精神的なせめぎあいに苦心する滝口を気に止める素振りもなく、音も無く地面に降り立つと、意外そうに美童は口を開いた。
「……知っている。酒呑童子討伐同様、お前の時には四天王が揃って討伐の任に着いたんだったな」
四天王。滝口の実戦任務に就く者の頂点に位置する武人。滝口たちが受け継いで来た、退魔の宝具を担う者たち。
しかし、その江戸時代の四天王全員と同時に相対しながらも、彼は存命しているのだ。
加え、詩緒は四天王ではない。先代の四天王、その一角を担った兄の形見を使用しているだけである。
だが、詩緒にとってそんな過去の事実など関係はない。
この場に立つのは他の誰でもなく、自分なのだ。
「可笑しいね。君は歴史を知ってるくせして、僕と敵対する道を選ぶんだ? ――鬼切、蜘蛛切、雷鳴、鵺貫。滝口の誇る四天王の宝具を以ってしても、僕を弱らせるに過ぎなかったのに――」
しかし、身構えた滝口を前に、美童は無防備に、唯、彼を嘲笑する。
「……その傷を癒すのに、いつまでかかったんだ?」
滝口の吐き突けた問いの答え。それの答えは現代。
人間を家畜として認識し、その絶対的な力の差を冷笑で示していた存在を、詩緒は無表情ながら虚仮にして返す。
雨月の表情が凍りついていた。陰陽師の少女を誘惑するために抑えていた強烈な恐怖が、再び聖堂の持つ神聖なる気配を侵すかのように拡がる。
「早死にしたいらしいね? 童」
音を奏でるような愛くるしいはずの美声に籠められた、死。
「童じゃない。渡辺だ」
それでも。詩緒は怯むことはない。
「――渡辺詩緒。お前を殺す人間だ」
迷いなく兄の遺志を宿した愛刀を振るう。
鈴の音が微かに聞こえた。
それは滝口の左手首に飾り気なく吊られた、小さな銀色の鈴が奏でた音色。
「武士道とは死ぬことと見つけたり――違うね。君は人の持つ可能性に希望を見出している。そんなところかな?」
虚空を斬るに過ぎなかった鬼切。
その上空に雨月は居た。
吸血鬼と呼ばれる夜魔。
その分類は大きく分けて四つ。
真祖、爵級、従者、異端。
一般に人間が思い描く、太陽を浴びると滅びる、流れる水に沈むという大きな弱点を持つのは従者。真祖、爵級に噛まれ変じた吸血鬼である。
それでは目の前で飛行能力を有することを教える、雨月という吸血鬼の位とは――。
「……信じ難いけど、ここまで事実を突きつけられたのなら、認識を改めないといけないわね……本当に日本にも純正の吸血鬼……それも真祖がいたってワケね……」
飛行能力を有するのは真祖と爵級。
しかし雨月は、そう零した瑞穂の目の前で、その身体を霧散させて、詩緒の斬撃を無効化させたのである。
霧散化。身体を霧に変える能力。それは真祖と呼ばれる最強種にのみ確認された能力なのだ。
「下衆。確か、渡辺……とか言ったよね? 決めたよ。僕は君を簡単に殺しはしない」
滝口を見下ろし、雨月は宣告する。
「人の無力さを……絶望を贈った後で、君を八つ裂きにしてあげるよ」
美童の身体は再び霧と化す。
詩緒と瑞穂の視線は、彼が降り立った場所へと向けられた。
そこで実体を再構築した雨月は、ルチア・ダレッツォ――彼の呪詛を受けて堕ちた修道女の遺品の一つを拾う。
「知ってる? 彼女はローマ十字教っていうキリシタンの一派の修道女だったそうだよ」
その事実を聞いた瑞穂の顔に、あからさまな嫌気が窺えた。
ローマ十字教。強い反異端思想を持つ宗派。その思想は、凶行とも言えるような宗教活動を実行させることも少なくない。
「元々は僕ではない別の男を追って来たらしいけど……――ああ。安心してよ。そいつを仲間にしようかとも思ったけど、会ってみたら気に入らなくてね。すでに僕が抹殺しちゃったから」
同属の命を奪ったという事実を告白しながら、それは屈託のない笑顔を見せる。
「ああ、御免。話が脱線しちゃったね。でね、ルチアが言うには『極彩色』っていう魔術師――召喚術師が近くにいるらしくてね」
「極彩色ですって!?」
その異名が瑞穂の顔に在った嫌気の色を飛ばす。
「誰だ? 知り合いか?」
「世界でも十指に入るって言われてる魔術師よ。確か、彼女もローマ十字教の信者だったから、情報の信憑性は高いわね――」
訊ねる声に、魔術界の世界情勢に明るい陰陽師は答えた。
ルチアという修道女は、雨月が今、手にしている魔術武器を有していた。
つまりは、それ相応の地位に教団内で就いていた可能性が高いということである。そしてそれは、その人物が生前に持っていた情報なのだ。
「それで、僕は彼女を迎えに行くつもりなんだ」
美童はさらりと奸計を吐露してみせる。
「――強力な力を、新世界の神になるべき力を手に入れるためにね」
続け、歪んだ欲望に嗤う。高笑いを上げる。
「知ったところで、君には止められないよ? 救えないよ? 否定したいのなら、僕を止めてごらん。数日の猶予は与えてあげるからさ。その上で最悪の瞬間を見せ付けてあげるよ。さぞ楽しい余興になるだろうねぇ――」
二人を置き去りにして、嘲笑だけを残しながら。それは三度霧になると、消え失せていた。