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beginning”ピアジーア”

[Fab-26.Sun/00:13]


 男は逃げていた。見るからに高級そうな上質のスーツに身を包んだ、長身、金髪、青眼の明らかに異国の地を故郷とする青年である。

 その端正なマスクの青年――否、彼は決して、その外見通りの年齢ではなかった。人間の時間的な感覚で推し量るのだとすれば、決して『青年』と呼ばれる年齢ではないのである。彼は夜魔の血族の一員だった。


 夜魔(ミディアン)。文字通り、夜に生きる魔である。見た目は何一つ人間と変わらない青年である男は、しかし、人ならざるの存在なのだ。

 人の精を喰らう夢魔などが、そこには分類される。そして彼は、その夜魔の中でも特に力を持った種の者だった。

 スラブではヴァンピール、ロシアではウピール、マレーシアではラングスイル、ギリシャではヴリュコラカス、ルーマニアではストリゴイ、ドイツではナハツェール、スロベニアではピジャヴィカ、ブルガリアではウポウルと呼ばれる存在もの

 それは英語ではヴァンパイア。

 そして、日本では吸血鬼と呼ばれるあやかしである。


「ねぇ。もう追い駆けっこには飽きたよ……」

 前方で聞こえた声。夜魔の男は我が目を疑う。路地裏。しかし、彼の足元には、月を背にした声の主の細い影が伸びていた。そこには確かに追跡者が存在していたのだ。

「馬鹿な!? 私が撒き切れぬと言うのか!?」

 彼の身体能力は人間のそれを遥かに凌駕する。

 ましてや、今は夜。彼らの支配する時間。

 その力を縛る要素は何もないのだ。この時間の彼らは、生態系の頂点に君臨する絶対者なのである。

 それなのに。

 彼は踵を返す。逃走を継続しようと試みる。


 ――何故に、私ともあろう者が逃げようとする? 一瞥した追跡者の目に警鐘に似た感覚を覚えたからか?


 男は自らの取った行動に疑念を抱いていた。

 それは不可解で、在りえない行動であるはずなのに。

 それなのに思考よりも早く、身体は動いていたのだ。

 それは本能がそうさせたのか?

 それとも――


 故郷を捨て、流れ着いた異国の地。

 ここは宗教色の極めて薄い国だった。それは彼にとって非常に重要な要素ファクターだったのである。

 故郷を捨てた原因も、それに在るのだから。こと、宗教色の強い国では、彼らに安息は存在しないのだ。彼らを裁き、滅ぼすことを目的とした、狩人や異端審問官インクィショナーと呼ばれる退魔の人間の手が絶えず伸びるのだから。

 加え、ここは所謂、大都市と称される場所。この土地に暮らすこの国の人間たちは、他人に酷く無関心で彼の本性を詮索しようとする者さえ皆無だった。

 隣人が血を吸う魔物であれ、気付く者はなく。隣人が血を吸い尽くされ変死しようとも、気付きもしない。

 正に楽園。

 この国には邪魔な者はなく、捕食活動に支障もない。

 しかし、漸く手にしたはずの安らぎを破壊するかのように、追跡者それは現れた。


 ――そうだ。この楽園に居続けるためにも、面倒な争いは避けねばならぬのだ。


 男は自らに、そう言い聞かせる。

 いや。ならばこそ、自身の力に絶対の自信を持つこの男が、単体でしかない敵対者を排除しようと思考しない矛盾には気付きもしない。

「何!?」

 そして、彼は驚愕の声を再び発していた。

「……まだ遊び足りないのかな?」

 振り向いた、そこにも。追跡者は立ち塞がるように存在していたのだ。

 前方に注意を払いつつも、男は後方を――追跡者が居たはずの方向を振り返る。

 果たして、そこに追跡者はいない。

 間違いなく、追跡者は一つ、なのだ。

「何か面白いものでもあるのかな? わっぱ……」

 それは平均的な小学校高学年程度のなりにも関わらず、見た目、青年の彼を童と蔑む。

「調子に乗るな!」

 吼え、夜魔の男は渾身の力をその腕に籠めると、それを振るった。否定。認めたくはない、何かを振り払うべくの行動。男の挙は、正にそれだったのかも知れない。

 細腕。彼のその腕は、そう呼ばれる部類でありながら。しかし、少年に回避された勢いに、路地裏を形成する雑居ビルのコンクリートの壁面に、轟音と共にめり込んでいた。

「あはは! らしいよ! 童! そうでなきゃ! それくらいの『抵抗』をしてもらわなきゃ、興が殺がれるよ!」

 しかし、その恐るべき光景を目の当たりにしながら、少年は笑う。ただ、無邪気に嗤う。

「……貴様……狩人か? 異端審問官インクィショナーか? それとも、魔術師の類か? 事を荒立てずに済まそうと思っていたのだが……」

 彼は冷徹に少年を見据えると呟いた。

 その呟きと共に、彼の拳の自由を奪っていたはずの壁は強い刺激臭と共に煙を発生させ、融解させられる。

 それは強烈な毒素のもたらした反応だった。

「それは異国の人間げせんの役職の名前かな? ……違うよ……僕はお前のあるじさ」

 そう言い放ち、くすりと少年は笑う。

 それは頭に青いバンダナを巻いた少年だった。

 少女とさえ見紛う可憐な顔立ち。その道の色を好む者ならば、どれほどの財を投げ打っても手に入れたい。そう思わせるに十分な程、愛くるしく、美しい少年だった。

「何、だ、と……――?」

 眩暈を覚えたように。その美貌に惹かれ、驚愕しながらも、眉間に皺を寄せ彼は訝しげにどうにか呟く。

 夜魔の者は美形が多い。それは元来、人を惑わす存在だからだ。彼とてその例外ではないのだ。

 しかし。しかし、それらに見慣れたはずの彼にも、その少年の美貌は眩しいものだった。何よりも、その妖しいまでに澄んだ冷たく深い光を湛えた宝玉のような瞳は――。それは既視感――? それともつい数分前に覚えた感覚――?

「この日本くにを安住の地、とでも勘違いしていないかな? ……この国にも、邪魔な人間はいるんだよ? 法師だの、陰陽師だの――滝口たきぐちだのさ……」

 少年の形の良い唇が動き、そこから耳によく通る声が紡ぎ出される。

「――滝口?」

 一瞬だったのか? 永遠だったのか?

 魅入り、囚われた男を開放させたのは、他でもないその凄艶な牢獄ひとみを持った少年の言葉だった。

 その口からもたらされた法師や陰陽師という言葉。それは確かに聞き覚えがあるものだった。男はそれを、この国の魔道師の類だと認識している。

 しかし、反芻したその言葉は初めて聞く語彙だった。

「滝口というのは、この国の狩人。退魔の武士だよ……捕食を行う以上、間違いなく、お前も狙われる。いや。案外、もう狙われているかもね。ここも安住の地ではないんだよ……だから、さ。――だから、僕がお前の庇護者になってあげようと言っているんだ」

「……その見返りは何だと言うつもりだ? 服従しろ、とでも言うつもりか?」

 少年の申し出に返されたのは、殺気の篭った言葉。

 自尊心プライドに触る。

 吸血鬼という存在はそれの強い者が多い。絶対者。その意識が極めて高いためだ。

 彼とて然り。

 他人に付き従える意志など、持ち合わせていないのだ。

 しかし、その殺気に当てられながらも、少年は声を出して笑った。遊び場でじゃれ合う子ども達が発する、それと同じ笑声。夜闇に、薄汚れたビルとビルの狭間に、酷く不釣り合いな明るい声が響く。

 憮然とそれを見る夜魔の男。それ気にも止めず一頻り笑い終えると、少年はようやく会話を再開させた。

「……何か勘違いしてるよ。童――」

 その瞳により強く灯る冷酷。

 無邪気に昆虫を破壊ばらす子どものような。

 そして、美しい顔に浮かぶ、純粋で、残虐な微笑み。

「――服従? 隷属の間違いでしょ? 下賎の者が何、戯言をほざいているんだい?」

「くくくっ……下賎、と来たか……」

 少年の台詞に、彼は嗤った。それは怒りを通り越した冷笑だった。

「貴様こそ……異国の俗物風情が何をほざく……何のトリックを用いたのかは知らんが、単に私に追いついただけのこと。それしきの事で、自身が絶対的な優位に立つ者、とでも思い上がったか?」

 耳を打つような音が走る。

 それは先ほど壁面を溶かした手から聞かれた音。

 その表面が異質に硬化していくのが見て取れる。

「我は爵級の者ぞ……魔装毒手ヴィクドラック。二つ名さえ持つ我を本気で怒らせたこと、償わせねばならんようだな――」

 その目が赤く、妖しく輝く。隠していた妖気を開放する。

 禍々しい邪気が辺りには立ち込める。例え、その気配に疎い者でさえも、今の彼は絶対的な恐怖の権現として映るはずだ。

 爵級。

 その階級クラスは、現存する吸血鬼に於いて、絶対的な頂点に限りなく近い存在なのだ。

「この国の者には知る由もなかろうが……」

 日本。この国はその化け物とは縁遠い。

 吸血鬼。その人外の存在がこの国に伝わったのは、つい近世の事なのだから。

 吸血鬼という言葉にしても大正、昭和期以前の日本に存在したのか? それさえが不明とされている程度なのだ。

「辺境の島国風情の虫けらが、その我を従えさせようなぞと……無知も罪。冥府で己の無知を呪え」

 少年に立ち塞がった恐怖。それを彼は演出するかのように、ゆっくりと、威圧的にその歩みを進める。

 縮まる二つの存在の距離。

「――無知も罪、か……良い事を言うね。同感だよ……」

 だが、少年は動じない。それどころか、先の言葉を反芻し、彼をせせら笑う。

「決めた……」

 続けて呟く。

 本性を現した夜魔の男は、その呟きの先を待たず、突如と駆けた。不敵に笑みを浮かべたままに、死を宣告した獲物を狙い、文字通り、牙を剥く。人を死へと、または、彼らの下僕へと誘うその象徴が口元に覗く。

「――お前はもういらないや」

 硬質化され刃物となった五指が夜闇を切り裂く。それを跳躍し避けた先、中空から男を見下しながら、少年は言い放った。

 声の在り家を見上げ睨むと魔装毒手ヴィクドラックも、躊躇することなく地面を蹴る。

「……命乞いをしようとも、もう聞かぬぞ! 八つ裂きにしてくれる――!」

 吸血鬼は宣告する。闇を流れる弾丸。男の体は目にも止まらぬ程の速度で、少年へと迫っていた。その勢いを、己の力の総てを乗せた、重い一撃を放つ。

 低く衝撃音が響いた。その衝撃に大気は震え、路地裏に面する無数の硝子窓が瞬間、砕ける。

「……そうだね……命乞いは聞かないよ」

 しかし、その一撃を易々と少年は受け止めていた。ガラス片の雨の中、満面の笑みを湛えながらに。

「なっ……!?」

 全身の力を籠め、少年のか細い片腕に囚われた腕を夜魔の男は引き離そうとするも、その部位は微動だにしない。

 コンクリートを融解させたように。自らの異名を欧州に轟かせたように。そこから毒素を放ち、少年を犯そうとするも、能力は発動しない。

 不可解。驚愕。混乱。

「ほら……気を付けなよ?」

 思考がまとまらない魔装毒手ヴィクドラック。嘲笑い、少年はその男の全身を軽々と振り回した。そして、着地際に舗装された地面に、躊躇することなく叩き衝ける。

「――ぐはっ!」

 男の口から吐き出される鮮血。破砕されたアスファルト片が砂埃と舞う。

「駄目じゃないか……気を付けろって教えたでしょ?」

 灰色のベールの向こう。苦痛に歪んだその顔を、少年は心底、愉快に見下していた。

 そして、掴んでいた手を開放すると、その手を頭に巻いていたバンダナへと遣る。

「破壊された内臓の再生に、どれくらいの時間がかかるのかな? ……爵級だなんて強がるくらいだから、そんなにかからないんでしょ?」

 言いながらに、少年はバンダナを解いた。

 バンダナ。そう言うよりそれは、酷く年季の入った布切れだった。

 その布切れを、ふさりと男の顔にかける。

「――江月照らし松風吹く」

 そして、呟いたのは歌。

「――永夜清宵何の所為ぞ」

 意味深に、その句を詠み上げる。

 濛々とした灰色は地面に戻る。

 戦音に代わり聞こえだしたのは、遠く感じられる街の喧騒と、それに混ざる絶え絶えとした呼吸音。

 そして、少年は男の顔を隠していた布を再び手に取った。

 その下から現れたのは、異様な汗を浮かべた苦痛に満ちた男の顔。

「……どう? 苦しいでしょ? 再生が利かなくなったんじゃない?」

 少年は笑顔ながらに、その苦しげな吸血鬼の顔を興味深く見詰める。

「き、貴様……な、何をし、た……?」

「これはね、頭巾、なんだ。尤も、単なる布切れじゃないことは身を以って解したかな?」

 狂った呂律で訊ねた異国の魔物に、少年はその頭巾をバンダナとして再び、その小さな頭に巻き付けながら返した。

「聖布。君らの国にもあるんじゃないの? 聖人なんて呼ばれる輩が残したさ……」

 男を見下ろし、教える。

「実験は成功だね。これでもう、本当にお前は用済みだよ」

 続けて、そう呟くと少年は微笑んだ。

 それは無垢な天使の様な笑み。

 しかし、恐怖という感情を真に悟らせる笑み。

「ま、待て、――」

「馬鹿はいらないんだ。自分の状態と、現状。相手との力量の差も量れないような馬鹿はね」

 恐らくは魔装毒手ヴィクドラックの口をついたであろう命ごいを制止し、笑顔のままで少年は言い放つ。

「――なっ!? どう――」

「バイバイ」

 男が発しようとした言葉を待たず、少年はさっさと別れを告げる。説明することが無駄だと言わんばかりに、その表情のままに、右足を男の顔へと踏み下ろす。

 ぐしゃり。

 肉と体液の飛び散る厭な音。辺りを斑に彩る赤。

 血の臭いの立ち込める路地に背を向けて、少年はそこを後にする。

「残念だね――祭りの始まりに立ち会えなくて、さ」

 声に反して、その表情かおに、決して遺憾な色はなく。

 通りに出ると小さな少年の姿はすぐに人込みに紛れ、消えた。






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