A World BorderLine-1”世界の誤謬”
[Fab-28.Tue/18:55]
駅前にあった大きな公園。
豊かに緑を湛えたその公園の出入り口の一つである鉄製のアーチ状の門を潜ると、そこを境に景色はがらりと姿を変え、目の前には無機質な灰色の高層ビルが建ち並ぶ。
原生林さえも残した公園と隣接する高層のオフィス街。いや。この街ではオフィス街のみならず、その公園を中心に繁華街や住宅地は広がっているのだ。
自然と都市の融合。
都心に在りながら、その中央に配された広大なその公園は、この街の都市開発のスローガンを正に具現化した場所であると、この計画を推進してきた政治家たちは声高らかに謳う。
さも自分たちの手柄のように彼らは誇らしげにそれを語るが、それは何も彼らの権威のみがそうさせたのでは決してない。ヒートアイランド、地球温暖化、増加する二酸化炭素。エコ。自然環境に対する民衆の関心の高まり。むしろ彼らは世論に対し従順に活動し、有権者に媚を売るべく方策を決定したのであり、直接的な利権のみを求めたのだったとすれば、この街の風景は全く違うものになっていたのだろう。
尤もそんな政治的な話や、それにまつわるこの街の発展の背景など、今そのゲートを通過した異国の男には何の関係もなければ、興味もない話である。
男にとって重要だったのは、この公園がその身を隠し、疲労を回復するのに非常に適していたということだけなのだ。
そして、その異国の騎士アントニオ・ゲルリンツォーニは、今日訪れたばかりの慣れないこの街を、しかし、迷うことなく目的地へと向かい歩き出す。
試みていた戦略的撤退行動は、既に中止されていた。いや、その行為はその意味を消失させられていた、そう表現するべきか。
追跡者は彼を追う理由を失い、彼もまた帰還すべき場所を失ってしまったのだ。そういう行為の成り立つ条件は、もはや、どこにも存在しなくなってしまっていたのである。
しかし、通常は異常事態といえるその現状に在って、アントニオは全く異常を感じてなどいなかった。
元々、アントニオはイスカリオテ――と言うよりは、その統括役であるユダから、隙を見ては切り捨てられようとしていたのである。
そしてついに、それが実行に移されたというだけのことなのだ。
『ロンギヌスの槍』の発動決定。それはつまりはそういうこと。
ユダが以前から自身を快くは思ってはいないことを、アントニオ本人も認識していた。
それは恐らくは彼の振るう『封殺法剣』のためであることは、想像に難くない。その強力過ぎる霊装は味方といえども、魔術師という人種にとっては脅威でしかないのである。
ましてやユダという人物は、猜疑心が異常なまでに強い。自分以外の何者をも、聖職に就く身でありながら、決して信じるようなことはないのだ。そのような脅威だとしか認識できない兵器の存在を、そういう非常に危険な魔剣の担い手を、彼が黙殺するはずなどないのである。
担い手が存在することなく、我が元で封印・保管されるべき霊装。
それが封殺法剣の真に在るべき姿であると、ユダは考えているはずなのである。
だからこそ、辺境にいた真祖という存在を笠に、彼は己の持つ権限を利用して適合者こそを抹殺しようとしたのだろう。
順調に進んでいた今回のミッションの進行を完全に無視し、アントニオからの経過報告さえ待たずに、広範囲無差別爆撃儀式魔術を行使するという暴挙に出たということ。その現状を考察するに当たり、そう考えれば何の矛盾もなく合点がいくのである。
加えアントニオは、その殺戮魔術実行の大義名分をも与えてしまったのだ。彼自身さえも対象目標と認識させる口実を、彼自身が許してしまったのだ。
唯一完了していた任務を白紙に戻されたのである。しかも、それは雨月の手に因ってであった。
この事実を少し誇大化して吹聴してしまえば、雨月はイスカリオテをもってしても対応できなかった魔物として、それこそ十二真祖級の扱いを行うことができる。そして、その雨月は世界征服などと愚かな夢を見ただけでなく、事実として活動を開始しているのだ。
こうして世界規模で早急に廃除すべき脅威は捏造されるわけである。
東方の島国に若干の被害と政的犠牲が発生したのだとしても、ロンギヌスは発射すべくして発射されたと喧伝もできよう。科学兵器とは違い証拠も残らず、一般には分析もできないのだ。寧ろ、それを歓迎、支持する勢力すら現れそうなものである。
しかし、当然、責任問題は発生する。
生じた犠牲に対する謝罪を行わねば、納得できない勢力があるもの事実であるのだから。
その人身御供。一件の全責任をユダは間違いなくアントニオに荷す算段なのだ。
爆撃により発生する被害の責を、案件実行の最高責任者の命で償ってみせるつもりなのである。
だからアントニオは『帰還すべき場所を失ってしまっていた』のだ。
本国に帰還したところで彼は罪人にしたてあげられ、処罰されるだけなのである。
「ケケッ――何が隣人を愛せよ、だ……」
アントニオはユダを思い、顔を歪ませる。
「――いや。だから、か?」
自身よりも明らかに全てに於いて強者であろう男を見下して、それでも嗤う。
イエス・キリスト。世界で最も有名なその聖人の発した究極愛を体現する件の言葉は、しかし、二律背反な所思を内包する。この言葉の先に来る言葉は「汝を愛するように」なのだ。
つまりは、彼の言葉は自分を愛し、自分を守ることも当然、真なのであり、アントニオの蔑んだようにユダはこの言葉を正に遵守しているとも解釈できてしまうのだ。
「まあ……今更、ヤツの事など知ったことじゃねぇがな」
その疲弊した身体は、満足に戦闘を行うまでには回復していた。
故に、騎士は憂いなく赴く。決意を胸に逝くのである。
心から尊敬し親愛なる友を、己の運命の付添人とするために。
唯、それだけのために。
アントニオが向かう場所は雨月の城。
その吸血鬼が人間界に作り上げた王国。
しかし、騎士の立ち会うべき者は雨月ではない。だが、そこにこそ彼の追い求める人物は居るはずなのである。
空に月は在った。
冷たく鋭い光を放つ冬の月が。
凍てつく大気、黒を纏いながらも光源であるモノ。
あれは親愛なる友、その象徴であったはずだ。
闇に気高く君臨する唯一無二の存在。
夜の主とされる超越者、吸血鬼でさえも見下げ、己を悠然と誇示する者。
「くだらねぇなァ……今のお前は本当にくだらねぇぜ? 本来のお前が翳んじまってる……」
流れる雲は月を陰らせる。アントニオにとって、現在の彼は正にそれなのだ。
「ケケケ――そうだな、振り払ってやんよ、雲をさァ! アキラ、お前をお前に戻してやんよ!」
だから。
だからアントニオは秋良を現状、唯一の標的として歩いていた。
残された時間を、信奉し、敬愛した彼を孤高の冷たく強い『殺戮狩人』に戻す為に。自分の向かうべき標として、超えられなかった壁として存在した、その『殺戮狩人』を凌駕する為に。
「……そしたらアンタは、安心して逝けるとでもいうのかしら? 覚悟した死地にも道連れが必要だなんて、なんとも情けない男ね」
はた迷惑な悟り。抱いた想いに笑みを浮かべながら歩く男に、冷ややかな声がかけられる。
それは少女の声。
「……何者だ?」
アントニオの進路を阻むべく、立ち塞がったのは二つの人影。
その一方。声の主である腰に手をやった少女を騎士は睨み付ける。
「……とりあえずアンタは、まだ一応はローマ十字教『イスカリオテ』の人間ってことになるんだろうから、身柄を拘束させてもらう――っていう線で動かせてもらうわよ」
その問い掛けには答えず、少女はアントニオの鋭い視線に臆することなく告げた。
「……ああ。なるほど。オンミョウリョウの魔術師ってワケか……ケケケっ――魔術師風情がオレを拘束するたぁ、つまらなすぎてジョークにもならねぇな」
拘束する、その言葉からアントニオが最初に予測したのは魔術世界に於ける調停者の存在である。敵性勢力の者であるなら、害有る存在だとこちらを認識した時点で廃除ば良いだけなのだ。何もわざわざ殺すよりも難度の高くなる身柄を拘束するという行為を、回りくどく実行する必要はないのである。
だから、彼女らが少なくともローマ十字教の完全なる敵対勢力の者ではないと予測できる。
ならば国際的な魔術に因る紛争、問題の仲裁組織たる『WIK』こそが最も可能性の高い組織となるのだが、しかし。
その少女は、明らかに事情を知り過ぎている口調だった。
そして、何よりも、この場所でアントニオを待ち受けていたということ。即ちは、全てから逃走する行動を選択するわけではなく、彼が殺戮狩人に執着した行動を採るであろうことを予測していたということ。
それがその二人が個人的に秋良と関連があることを裏付けているのだ。
アントニオの行動を決定付けているのは、酷く個人的な感情である。そのドロドロとした感情が導く行為は、その自身に向けられている劣情を知る秋良でなければ、決して予測できようはずもないのだ。
果たして世界規模で活動するWIKが、辺境の島国にどれだけの人員を割けようか?
そして、その極一握りであるはずの人員が秋良と知り合い、秋良からこの場所を任せるだけの信頼を得る可能性がどれだけあるだろう?
確率の問題である。
だとすれば、目の前にいるのは、それよりもこの国の魔術世界の住人である公算の方が絶対的に高い。
そして、この国にWIK、魔術的側面のローマ十字教と同質の組織といえば一つしかないのだ。
「あら? じゃあ、おもいっきり張り倒して意識ぶっ飛ばしてから、スマキにして強制連行してあげる、って本音を言ってたら笑ってくれたのかしら?」
だが、少女は変わらず怯みはしない。それどころか、口元だけに笑みを浮かべて挑発に挑発で返礼する。
「テメェ――!」
「青筋立てて凄んだトコロで、ビビりはしないわよ――ローマ十字教に見限られたからって、あっさりと死を覚悟しちゃってるヘタレ如きには」
かちゃり。そう乾いた殺気が音を立てる。鞘から解き放たれる霊装。
騎士は臨戦態勢に移行していた。その手に封殺法剣の柄を握り締め直す。
魔剣を構え、殺意を孕んだ怒りを露わにした騎士を前に、しかし、少女は嘲笑した。
例えば。
彼女の隣に立つ人影が、先ほど知り合ったばかりの狙撃手の少年だったのだとしたら。
おそらく、何故にそこまで強気に挑発を行うのかをツッコんだのだろうか。
だとしたら、少女はさも当然な感じで、さらにはその少年さえも馬鹿にしたように、こう答えるはずである。
「決まってるでしょ? 戦闘が開始して私の秘術が役に立たなくなったら、鬱憤が溜まる一方じゃない! だから、先に憂さを晴らしておくのよ!」
そこにあった張り詰めた空気は、冷たい大気に因るものだけではない。
西洋騎士と和製魔術師は対峙していた。
何時、何を合図として、命の遣り取りが開始されてもおかしくはないのだ――。
それは少女の紅い唇が微かに緩んだ瞬間だった。
見下して微笑んだままの瑞穂にアントニオは刹那、距離を詰める。
西洋剣の攻撃は斬撃というよりも寧ろ、打撃に近い。肉を斬り裂くのではなく、叩きつけ、潰し断つ。
その重圧を感じさせる剣閃が夜闇を駆ける。
少女は、微動だにしない。
動けないのではない。信じているだけだ。
耳を打つ激しい音。金属同士の衝突に震える大気。
重量に勝る西洋剣を弾いたのは日本刀。その鞘の鐺。
瑞穂と共にいた少年が封殺法剣の刀身の側面に、それを的確にを打ち付けたのである。
軌道を変えられた斬撃は目標である少女の真横を流れる。
「寝てなさい!」
自身を掠めるように過ぎった凶刃に強張ることなく瑞穂は動いていた。その隙を逃しておくような術者ではない。
西洋剣を振り下ろした騎士との距離を僅か詰める。伸ばした細い両腕。すぐそこにはアントニオの胸部が在った。
その差し出した手の先、標的との間に存在する空間に少女は命じる。
五行秘術を行使させる。詠唱は省略されていた。元々、詠唱は意識を集中させ、より効果範囲や威力等を制御させるべく行っているものなのである。
ある程度の事象ならば、陰陽五行を用いて直接世界に働きかけ、瞬間に変異を起こさせることなど瑞穂にとっては容易いことなのだ。
だからこそ『陰陽律法』などという異名を持ち得るのである。
陰陽師の少女は意識だけで木行に働きかけ、そこに高電圧を生じさせる。
直後に発生する閃光と放電音。
瑞穂はスタンガンという護身具を、五行秘術でそこに再現したのである。
「ちっ!」
しかし、舌打ち一つ。
それがその魔術を行使した、その結果を物語っていた。
アントニオの身体は、既にそこにはない。
「……忘れてたな……そういや、二人いたんだっけか? オマエら……」
封殺法剣を防がれたアントニオは、冷静さを取り戻していたようだった。振るったのは霊装だけではなかったようである。
「詩緒。アンタ最近、影が薄くなったんじゃない? 従者だの、無視されるだの」
「黙れ」
距離を取り、臨戦体制で構えたイスカリオテの騎士。そして、おとぼける陰陽寮の陰陽師と、あくまで表情を崩さない滝口。
「……しかし、女。オメェはオレを殺す気か? アレは十分に感電死できるだけの威力があったようだったぜ?」
眼前の二人のやり取りに、さも自分にこそ余裕はあるのだと伝えんばかりにアントニオは口を開いた。
「あら? アンタ、あの程度でくたばるタマだったかしら? だったら、認識を改めなくちゃならないわね――イスカリオテは、その程度のレベルだって、ね」
「――これだから辺境の無知な魔術師は困る……オレのコトをいまひとつ認識できちゃいねぇみてぇだな……ケケケ。魔術師が戦い方云々なんてモンで、オレに敵うとでも勘違いしてやがる」
それは強がりなどではない。紛うことないアントニオの本心である。
イスカリオテの構成員は間違いなく、世界レベルで見ても最高クラスの魔術師、戦士だけである。
そして、その中でもアントニオは対魔術師に特化した騎士。
その任務の中で、幾度も幾度も、様々な系統の魔術の行使者と彼は戦闘を繰り広げてきた。
しかし、少なくとも封殺法剣を手にした日から、唯の一度も魔術師と名のつく者に敗戦したことはない。
「――後悔させてやるぜ! 陰陽師!」
だから、絶対的な自信にアントニオは勝ち誇るように吼える。
対する瑞穂は、その無敗という事実を知りはしない。
「はん! 返り討ちにしてやるわよ! 行きなさい! 詩緒!」
だが、冷静に、まるで馬鹿にすることだけで自分の役割は終了したと断言せんばかりに、滝口の少年に後を託した。