HoundPressure-2”クロスファイト”
[Fab-28.Tue/15:45]
その空間を囲うビル。そこは恰も、二人の死闘のために設けられた闘技場のようであった。
二人の闘士には、これまで互いに有効打はない。
ただ、虚空を激しく裂く刃音と拳音が途絶えることなく、辺りに聞こえていた。
一見、攻撃失敗の多い退屈な試合とも映りかねないそれは、しかし、超高水準な攻防であり、さらには一撃を以て勝負が決する予断の許さない死闘だった。
滝口と殺戮狩人。
この二人に、本来ならば戦う理由などはない。
しかし、何れ、互いにとってこの戦闘は何物のも変えられない経験となるだろうことは間違いないだろう。
「ちっ!」
詩緒にとって秋良は、これまで戦ったことのないタイプの相手だった。
無手。常識的に考慮すれば圧倒的に不利であるはずの男が、しかし、恐れなく、自身に肉迫するのである。
ルチアと戦闘した時に自身のように。秋良は刀という武器の持つ間合いの内側へと、太刀行きを読みつつ躊躇することなく入り込んでは、大柄な体躯を器用に動かし、恐るべき破壊力を秘めた一撃を急所に向けて的確に放つのだ。
加え、その拳技の流派は一つに縛られることなく、拳を振るう本人を表すかのように奔放なのだった。詩緒が一つの形の動作を読み切り、対応し反撃に転じようとする時には、また新たな形へと移行する。そして、そのどれもが驚くべき完成度を誇りながら、手の内を全く読ませずに、殺戮狩人は常に攻撃主導権を奪っていくのである。
剣士にとって、その戦いは防戦一方といって良かった。詩緒は見事に押し込まれていたのである。刹那に、辛うじて見出した隙に、刀を振るうのが一杯だったのだ。
故に詩緒が吐き捨てたのは劣勢だったのである。
「――ンなろッ!」
相対する秋良にとっての詩緒もまた、初見のタイプの相手と言って差し支えはなかった。
確かに秋良は剣士という人種と幾度となく戦い、勝利してきていた。それこそ世界中の様々な剣士と、様々な剣の流派と交戦した経験がある。かつてはチュートン騎士であり、イスカリオテに抜擢された聖堂騎士アントニオ・ゲルリンツォーニも、その一人なのだ。つまり。秋良は剣士という分類の敵との戦闘には、極めて慣れているはずだったのである。
しかし、この剣士の刃は、その誰よりも数段は速かった。その上、その刃に氣を乗せている。それはこれまで対戦してきたものと、別次元の剣技と言って差し支えはなかったのである。大概の剣士に対しては、攻撃を察知してからでも十分に反応できる自信が秋良にはあった。生半可な相手ならば、その段階からでもカウンターブロウで瞬殺に切って落とすことさえ、楽に実行できる実力を有していると自負している。だが、この剣士には、その余裕はないのだ。カウンターどころか、通常の回避運動でさえも嫌な汗を全身に感じながら行っているのである。それでも一瞬でも気を抜けば、そこに驚愕する瞬間も与えられずに必殺の刃が閃くのだ。
攻勢を続けているのは、秋良が圧倒的に有利だったからではない。
武器の重さの無い素手での攻撃は、最も手数を生み出せる攻撃でもある。その特性を最大限に活かしていただけである。攻めは最大の防御。それを拳士は実践しているに過ぎなかったのだ。
しかし、それとて、ゆとりのある現状ではない。
相手の適応能力が異常だったからだ。
手を読ませずに攻撃を続けるために、様々な流派の拳技を振るえど、剣士はすぐに対応して見せる。
故に知り得る技を、体に記憶させていた業を、動くがままに秋良は振るっていたのだ。
それには自分自身でも、これほどの業を覚えていたのかと、驚いたほどである。
故に秋良が吐き捨てたものも劣勢だった。
互いが抱いていた劣勢と劣勢。互角にあった二人の戦い。
しかし、やがて、その均衡に狂いが生じ始める。
滝口の剣撃は、じわりじわりと刺激していたからだ。
秋良の中に眠る獣を、である。
極限の業の応酬は、感覚を揺さぶり続けていたのだ。
極限の緊張は、快楽へと変換されていくのである。
彼の思考を急激に塗り変えていく心。
一日に。いや、僅か数時間の間に二度も同じ状態に陥るなど、過去に在っただろうか。
――在ったなァッ……! 同属不浄んトキ以来かァ!?
秋良は異常戦意高揚に陥り始めていた。だからこそ、驚愕などという瞬間も与えられず、などと過去の状態、意識で反応できていなかった攻撃を回避できているのではないか。だからこそ、今、過去を顧みて嗤える暇が在るのではないか。
戦闘意欲。闘争本能。破壊衝動。殺戮願望。
秋良を駆り立てる心理は最早、快感、快楽と同義となっていた。
それは少年を強く速く、凶暴に凶悪に変えていく。
吼えもしない。唸りもしない。唯、嗤う金髪蒼眼の獣へと少年を変貌させていく。
それは唯飽くなき闘争に興じ、命を弄ぶことこそが存在意義である殺戮を好む狩人だった。
「――ぐっ!?」
詩緒の口から痛みが吐かれる。
腹部に穴を穿かれたような強烈な激痛が、その身体を走る。続け、それは体内で連鎖しながら暴発を繰り返し、剣士を一撃にして破壊そうとする。
人ならざる秋良の動きは、剣士の反応速度を終には凌駕し、破壊の内氣を乗せ、その体を捉えていたのだ。
その衝撃に耐えきれず、詩緒の身体は面白いほど大きく弾かれていた。
ゆらり。
殺気の塊は動く。不敵に身構える。
しかし、弾いた獲物に追い討ちをかけるべく、躍動することは選択しない。
秋良は嗤ったまま、ただ獲物の次の動作を待つ。
解っているのだ。
これしきで壊れる相手ではない、と。
そして、本能は教えていたのだ。
相手もまた、まだその潜在能力を隠し持っている、と。
欲望は、それを蹂躙することこそを求めているに過ぎない。
だから、唯、待つ。
その狂気を宿した瞳の見守る中、壁際、叩き付けられる間際に、剣士は空中で姿勢を整えると、見事に着地して見せた。
続け損傷など感じさせずに、静かに、相手を見据えながら刀を構え直す。
「――いいだろう」
口に在った血を吐き捨てると詩緒は呟いた。
そして、射抜くように、秋良をその眼に捉える。
「……死んでも後悔するな」
その言葉と共に、剣士の放ったものは剣氣。
手にした愛刀に乗せたのは、相手の命を絶つという意思。
ただ、それだけで終わりではない。
急がせてもらう。
剣士はそう言ったのだ。彼にもそう時間はないのである。
だから、躊躇することなく、詩緒は禁断の扉を開く。
どれほどの危険性が在ろうとも、その拳士の実力を前に、そうすることが最善であると判断した以上、彼には一抹の迷いもない。
奇跡。
どんな魔術師でさえも、決して発生させることのできない事象。
それさえも可能にする内なる領域に、詩緒は足を踏み入れようとする。
神氣。
彼が彼で在り続けるという、単純のようでありながら極めて至難である存在の力を解放して――。
「渡辺詩緒。お前を殺す人間の名だ」
そして。滝口は自らを名乗る。
自分に自分を教えるが如く。
或いは。己が刃に死に逝く者への手向けとして。
秋良は――。
「ヘッ。どうして、刀を――鬼切を止めたんだ? 渡辺?」
自分の喉元のある日本刀――鬼切。その見事で古雅な刃紋を視線でなぞる。
それが思った通りに模造刀などではないことが、一目で秋良には解っていた。
刀身に込められている『鬼を切る』『人ならざる存在を切る』という言霊の持つ魔力が、初めて実物を前にしたにも関わらず、その刀が退魔の聖刀であることを殺戮狩人に教えているのだ。
鬼切。それはかつて一条戻橋にて、茨木童子という強大な鬼の片腕をも一刀の元に斬り落とした名刀。そして、近世、剣聖の異名を持った剣士の振るった遺刀でもある。同じ境遇に在りながら天下五剣にも数えられた童子切安綱とは違い、常に歴史の闇に在り、そこで退魔のために振るわれ続けた、一般には伝説の中にだけ名を残す逸刀。
秋良は、その滝口に伝わる宝具を知っていたのである。
「……お前から戦闘意思が消えた。ただ、それだけだ」
芸術品として見ても秀逸な鬼切に見入る秋良に、無表情に滝口は端的に返した。
「ふん。寿命が縮まったぜ? どうしてくれんだ? 滝口?」
つい先刻まで。本気で命を奪い合おうとしていた相手に視線を遣り、秋良は口端を緩める。
「悪く思うな。一発は一発だ――そうとでも言って、首を刎ねて欲しかったのか?」
しかし、あくまで真顔で詩緒は返すと、秋良に穿たれた腹部を一度擦り、鬼切を納刀した。
「おっそろしい奴だなぁ、お前」
ぼやいた言葉。それは皮肉などではなく、秋良の本心である。
あの一瞬。秋良は間違いなく、奇跡を見ていたのだ。
その時。『斬る』意思の力だけで、その剣士は有形無形、森羅万象の全てを、否、事象ですらを、間合いという存在するはずの物理的な制限すら超越して、断つことを許可されていたのだ。だから、秋良は動けなかった。行動範囲の総てに、視界内の空間総てに、次元ごと斬り裂くような剣閃を幾筋も幾筋も直感的に感じていたのである。
そして、その存在は秋良の知る、最も凶悪で強大なモノと同質の存在だった。それは純粋なる狂気とも、混沌とも、破壊とも、絶対死とも感じられるモノである。人間の見せるそれでは決してないのだ。しかし、間違いなく、彼は一人のちっぽけな人間として、この世界のその中心に存在していたのだ。
それらを奇跡と言わずして、何と表現しようか。
「テメェ、アレを――」
先の能力が、この剣士の本気なのだとしたら。その状態で常に戦闘が可能だというのならば。
鬼切という刀の特効も考慮すれば、この男に勝てる存在など何も在りはしないだろう。
常識という範疇に囚われ続けている限りは、同じく奇跡を自在に使いこなせない限りは、この男には太刀打ちしようもないのだ。
その事実を訊ねようとして、秋良は言葉を呑んでいた。
「まぁ……そんな都合よくはねぇわな」
派手に咳き込む詩緒は、喀血とも吐血とも知れぬ朱を、何度も何度も地面に向けて溢していたからだ。
それが秋良の一撃に因るものでないことは、本人が最も良く理解している。
それが奇跡の代償なのだと、秋良は解したのだ。
「……完全に行使しなくても、そんだけの反動って……もし完全に行使して俺を始末したトコで、テメェも死んでんだろ?」
秋良は呆れて笑う。無謀で後先考えないところは、彼の知る誰ぞに似ている気がして、気がつけば妙に親近感を持っている自分を認識していた。
「お前には関係ない」
しかし、吐く血を吐き終えた詩緒は、お決まりの言葉を送る。
「ああ、そうかい……」
やれやれと首を振る秋良。
血を吐きながらも、ここまで冷淡な感じのする人格は、家主というよりも、同級生である黒髪優等生少女似だな、と脱力していた。