HoundPressure-1”エンカウント”
[Fab-28.Tue/15:05]
詩緒は単車から下り、一人歩いていた。
しかし、それは相方である陰陽師と合流を果たすための行動ではない。
滝口は、一つの目的を達成しようとしていたのである。
即ち詩緒は、おそらく今回の異変に絡んでいるであろう存在を発見していたのだった。
しかし。あくまで、おそらくは、の話である。
その人物と今回の異変の関連性は、まだ推測の域を出てはいないのだから。
詩緒が尾行をしている人物は、雨月自身ではなく、そして、彼が知る少ない情報から判断しても、その真祖の吸血鬼が狙っている魔術師『極彩色』とは別人であることが明白なのである。
だが、滝口の少年は、その人物に確かに感じていたのだ。
『魔』の、それも紛うことなき吸血鬼の気配を、である。
そして、それが極めて強力な吸血鬼の気配であることは想像に難くはないのだ。吸血鬼ではない人間。そうであるはずのその追跡対象に残された気配が、ここまで色濃いのだから。
それは真祖級の吸血鬼の気配ということに他ならない。
雨月という、その存在そのものに直に遭遇したことで、『魔』を排除することに命を賭した者が覚えた感覚である。それは確実な事実として、詩緒には認識されていた。
つまり、その人物は、どのような経緯であれ、間違いなく『真祖の吸血鬼』と接していたということだ。
加え、それそういう可能性の問題だけではないのである。
その人物単体で判断したとしても、彼は明らかに異質だったのだ。
漂わせる波長は、その真祖の残滓に因るものだけでなく、本人自身も何か特質なものを放ち、滝口の第六感を刺激している。
さらには、決して只者ではないことが、その佇まいで詩緒には解っていた。
ポケットに両手を突っ込んだまま、ただ肩で風を切りながら飄々と歩いているようで。しかし、その少年には一分の隙もないのである。
仮に、今。ここで対象に滝口が斬りかかったところで、それは失敗に終わるだろう。
無防備のようでありながら、彼は決して小柄ではない詩緒よりも更に一回り、二回りは大柄の体躯の隅々に、何時如何なる瞬間にでも戦闘態勢に移行できるように気を巡らせているのである。
その不確定要素の多い、しかし、決して油断の許されない年下であろう少年に、詩緒は細心の注意を払いながら追行する。
長身。無駄なく絞られた肉質の良い筋肉に覆われているであろう、がっちりとした身体。落ち着き払った冷静な態度。凄みを持った、大人びた顔立ち。
そう。一見、詩緒よりも年上に見えるその人物は、しかし、彼よりも年下の少年なのであった。
少年の着ている制服が、高校生に、それを教えていたのだ。
この界隈では見かけないその制服は、バイクで彼の横を過ぎるという極短い時間であっても、詩緒に鮮明にそれを認識をさせたのである。
その紺のブレザーの胸ポケットに描かれた校章。それは幾駅か離れた街にある、国内有数の有名私立進学中学校のものだったのだ。
数年前。滝口の役割のために。
数ヶ月間という短期間ではあるが、詩緒自身、その学園に在籍していた経験があるのである。それは誤認しようもなかった。
しかし。詩緒が思うのは、そんな年不相応な姿形に関することではない。
「……派手なものだな」
無表情にではあるが、滝口は少年をそう評する。
彼は外見的な要因に於いても、完全に異質だったのである。
少なくとも詩緒は、自身が在籍していた期間に、自由奔放が服を着て歩いているような少年と似たような格好をした学生を見た覚えはない。
顔つき、自然な色合から、金髪であることは血筋であると判別できる。しかし、短く整えられた全体に反して、不自然に伸ばされた襟足は、いかにも反骨風である。さらには、左右の耳に所狭しと並べただけでは飽き足らず、下唇にも飾けられたピアス。それもまた、彼の不羈さを演出していた。
他校区に在っても。屯する近隣の高校の不良たちを意にも介さず、独り、悠々堂々とこの街を闊歩する後ろ姿も、彼を是見よがしに表現している。
と。一区画先の角をふらりと曲がると、件の金髪少年は詩緒の視界から、その姿を消した。
「……なるほど、な」
だが、それを追う黒髪の少年に慌てた様子はない。詩緒は唯そう呟くと、歩速を上げることなく少年の後を追っていた。
雑居ビルと雑居ビルの間。
少年の消えた角にあったのは、通行路では決してなかった。唯、そういう場所だったのである。
せいぜい、その左右に存在する雑居ビルに入っているテナントに勤務する従業員、そこに商品を卸す納品業者辺りが利用するのが関の山の裏道だった。
そして、無人の、その薄汚れた路地裏の先。
多少の粗大ごみが転がるものの、そこはお誂え向きにぽかりと開けた空地だった。
この周囲。そのそれぞれの土地主が、各々の都合で、勝手気ままに建設した物件のために生じた『利用価値のなくなった土地』(デッドスペース)なのだろう。
その中央で。
金髪の少年は背中を向けたまま、静かに詩緒を待ち受けていた。
「オイ。人様の後ろをチョロチョロと尾行け回る、テメェは何者だ?」
ぽつりと零した言葉と共に、凍てつくような殺気が少年からは放たれる。
少年は詩緒の尾行を看破していたのである。
「……たいした自信だな」
そして敢えて、この袋小路へと足を運んだのだ。
しかし、その殺気を浴びながら、詩緒は動じない。
少年は只者ではない。それは解っていたことなのだ。
つまり、眼前の少年が自分の尾行に感付いていたことも、それを踏まえた上でここへと移動したことも、それを知った上で詩緒も誘いに乗っていたのである。
だから、動じない。いつもと変わりはしない。表情を変えず、冷静に、滝口は佇む。
「――あァッ!?」
だが、その無感情な態度は、金髪少年の癪に障ったらしい。
振り返った少年のこめかみに浮かぶ血管。眉の薄い眉間に深い縦皺を刻み、ただでさえ鋭い目には強い怒りの色を灯していた。
熱い感情を宿した眼と、冷たい無感情を作る眼とが交わる。
詩緒は知る由もないが、彼とて様々な事情を抱えていた。そして、一種の焦りが確かに在った。小一時間前に行った戦闘の疲労の影響も然り、である。
いつもの彼ならば、違った対応も在ったのかも知れない。
しかし、大切な人間を極めて危険な世界に巻き込まぬようにするには、この不慣れな土地にあって、精神的な余裕はなかったのも確かである。
宿した怒りが産んだのは、恐怖を伴った殺気。先に少年が纏っていた殺気とは明らかに質が異なる。
威嚇ではなく。確実な殺意を帯びていたのだ。
辺りを支配するように、張り詰めた重い空気が拡がる。
「一応、一つ聞く。お前はコレに関係していないか?」
それでも涼しげに詩緒は自分の都合を相手に押し付けていた。そう言い、懐から取り出したのは大珠と小珠、そして十字架を鎖で繋いだ輪。
ロザリオだった。
詩緒はローマ十字教の信者には明るくない。吸血鬼などという『魔』と異なり、気配で判別できない彼らとの接触には、それなりの判別方法が必要だったのである。
その方法が、そのロザリオを見せるという行為だった。
それはルチア・ダレッツオという修道女が生前に使っていたものである。灰と化して消滅した彼女が、衣服と共に現世に残した遺品だった。
それにより、彼女を知る者からならば、何かしらのリアクションを得れるはずであると詩緒は踏んでいたのだ。
だがそれは、この相手に限って言えば、返って誤解を招く結果となっていた。
いや。その態度や物言いは、滝口にとっては自然体であるとはいえ、受け手によれば、十分に敵対意思とも取れるものだ。
誤解されるべくして、誤解されたというべきか。
彼にとって、現状、そのロザリオを信仰する者は、最も警戒すべき、最も忌むべき敵なのだ。
「なるほどなァ……テメェは奴の手下か……」
少年の言う奴とは、アントニオ・ゲルリンツォーニという騎士だった。それは古い知人でありながら、命を遣り取りする相手でもある。
この国に在住する十字教の親強硬派信者派。アントニオの回復の時間を稼ぐための派遣された急場しのぎの尖兵。
相対する黒髪の純国産風無表情男をそう認識したか、少年は――秋良・ヒルベルドは唸る。
「十字教らの方から来てくれるとは手間が省けたぜ! 雑兵風情が殺戮狩人にケンカを売ったことをあの世で後悔するんだなァ!」
続けて吼えると、瞬間、一足にして秋良は詩緒との距離を詰めていた。
殺戮狩人。
その二つ名は魔術界で言えば、世界的に通った名前である。
もしも。
この場所に陰陽律法の異名を持つ少女がいたのだとしたら、そこで一応は事態の収拾を見ていたはずだった。
その魔術界に明るい陰陽師の少女は、彼がローマ十字教の信者ではないことを知っているのだから。
しかし、彼女はここには居らず、それどころか、その少女とて、どこぞで要らぬ騒動を起こしているのだから世話はない。
「――っ!?」
突如と間合いを侵した相手に、詩緒は息を呑む。
殺戮狩人、秋良・ヒルベルト。その動きは俊敏にして鋭利。且つ、柔にして剛。
柔軟性に富んだ身体を。それを驚愕するほど見事に作動させ、思いもよらぬ角度、人間という生物の持つ絶対的な死角から攻撃を繰り出す。そこから急襲するのは捨て技でも、置き技でもない。練られた内氣の乗せられた、とてつもなく重い一撃。
晦まし、惑わし、本命を繰り出す。唯、相手を殴り倒すだけの単純な行動。それを成すだけの為に、世界中には数多くの武術があり、その多くの武術にも多くの型、技がある。
一撃必倒。
それが如何に至難の技であるのか。先の事実をそれが物語っているのである。
しかし、秋良のそれは、その至難である理想を実現したもののようであった。
それこそ。つまりは、武道の極意が凝縮されたような攻撃だったのである。
渡辺詩緒という滝口でなければ、そこで総ては終わっていたのかも知れない。
極めの域。そこに到達していると言っても過言ではない『後の先』を取るという彼の戦法が、同水準の領域にある攻撃から彼を救っていたのだ。
初見であれ、練られていた内氣の動きが、その一撃を辛うじて詩緒に予測させたのである。
それは人間が物質を殴ったような音ではなかった。
響いたのは、あたかも爆音である。
鼓膜を震わす振動が止まぬ最中。
「――無手、か」
詩緒は呟く。剣士は、その手に在った愛刀を収めた鞘で秋良の打撃を受け止めていた。
正確には。さらにそれを収めた竹刀袋で受け止めていたのだが、彼の一撃に、その袋は原型を留めずに裂かれていたのである。
急激に膨張させた物体が内部破裂を起こしたように、襤褸と化していた竹刀袋。練られた内氣による異常な破壊力を、それは言葉なく語っていた。
「日本刀、だと?」
確実に極まった。それはそう思わせるに十分な手ごたえだった。会心の一撃、だったのである。
しかし、防がれていた。
そこ在る、己が掌打を防いだ物体を、秋良は忌々しげに一瞥する。
十字教のせいぜい中堅戦闘要員級。イスカリオテどころか、特務部隊隊長にも名を連ねてはいない者。雑魚。
「クッ――!」
剣士をそう過小評価していたことに、歯軋りすると同時に、秋良の身体は後方へと跳んでいた。
銀光が閃く。
それは鞘に置かれた秋良の掌底を払う動作と一連の動作により放たれた、刃の軌跡に生じた残光だった。
高速の抜刀術を、その剣士は見せたのだ。
だが、腕の筋肉の動き、剣士の刹那に放った剣氣を読んで秋良は回避していたのである。
何も相手の殺気、氣、筋肉の動き、魔力の流れ等を読んで戦う態勢は、その剣士の専売特許ではないのだ。
それは、無手という、本来ならば極めて不利な状況で戦う秋良こそがより優れて然るべき技能なのだから。
「チッ! 胸クソ悪ぃ!」
着地と同時に感情を吐き捨て、殺戮狩人は剣士を、否、侍を睨み付ける。
それは似た戦闘特性を持つ相手に対する、近親憎悪だったのかも知れない。
しかし。感情とは別問題として、認識を改める必要があると秋良は思う。
目の前の優男が、かなりの使い手であるという事実は認めねばならない。
ともすれば、彼の耳に入ったことの在る日本刀を使う近代の高名な剣士――剣聖の異名を持つ二人の侍とは、こういう使い手なのかも知れないとも思う。
しかし、どうやら、その詳細を思い出す暇はないようである。
「――悪いが急がせてもらう」
零すように呟くと、詩緒は動いていた。
「クソッタレが!」
聞くとか言っておきながら、聞く様子を皆目見せない剣士の状態に悪態をつきながらも、秋良も動く。要らぬ思考を捨て、戦闘に専念して動かねば、やられることは目に見えているのだ。
『魔』の排除。
それを目的として詩緒が動いていたとすれば。誰かのように、人間である人物を『魔』だと、吸血鬼であると、誤認しての戦闘を行ったのだったとしたら。
秋良は、ここでその侍が十字教ではないことを悟っていたのだろう。
間違いなく。それに際して、名乗ったであろう剣士に、瞬間、先の剣聖の一人、渡辺柾希の名を、滝口というこの国に存在する退魔武士を思い出したであろうからだ。
だが、現状、戦う理由なき二人の戦闘は終わる気配はなく。
寧ろ、僅かな掛け違いにより始まった、その干戈は熾烈さを増していた。