singularity-1”交錯”
それは運命であると雨月は思う。
何から、何故に逃亡しているのか。
そんなことは定かではないし、彼にとってはどうでも良いことである。しかし少なくとも、その聖堂騎士は、さしあたっての敵対者を撒くことに成功していたようだった。
その事実は当の本人ではなく、雨月が一番に理解している。
現状、実際に彼を尾行している者は、自身唯一人なのだから。
だが、一見すると少年でしかない彼からだけは、イスカリオテという極めて選りすぐりの部隊に属するその男であれ、絶対に逃げ果せることはできないのである。
彼の所持する霊装が、彼の傍らに在り続ける限り、それが彼の位置を克明に雨月に教えるのだから。
そして、好機も確実に近づいているのだ。
第三者だけを遠ざけ、標的を運ぶ騎士は、自ら人気のない場所を探し移動している。加え、彼は満身創痍の状態なのである。
雨月にとっての聖堂騎士の逃走劇は、墓穴を掘るという形容を地でいく行為でしかないのだ。
彼の背中を、雨月は目視圏内に捉えたわけではない。
だが、負傷した褐色の美女を担いで運ぶ、疲労困憊の逃亡者と魔性の少年の移動速度は明らかに違う。その距離は着実に詰まっていた。
真祖の吸血鬼が求めた召喚術は、その存在に言わせれば、手に入れたも同然なのであった。
だから、運命であると雨月は思うのだ。
極彩色という魔術師の身は、この日の為に故郷から遠く離れた、異国の地に在るのだ。
魔性の従者を喚ぶ術を伝えるために、何れは世界を統べる者の、僕と成るべくして成るためにここに在るのだ。
そう。世界を統べる者。
それは雨月の中で確信に変わっていた。
だから、こうも総ての事象は自身に味方するのだと思う。
雨月は、ほくそ笑む。
美しい幼い顔を醜く醜く歪めて、ほくそ笑む。
そして。
止めようにも、止められず笑い続けていた少年の足は、不意に止まっていた。
都心部から延ばされた私鉄の開設により、ここ十数年で急激な発展を見せている、この街。
ここは、その抜け殻。旧繁華街である。
十数年前は、この街で一番に人のいた場所だった。しかし、駅前に一等地という冠を奪われ、徐々に徐々にかつての賑わいを失い、再開発による土地買い上げで現状、ほぼ無人となっている区画なのである。
その片隅。雨月の目の前にある巨大な廃ビル。それはこの区画の象徴。有為無常を、哀れさを示す建造物。
建設途中にその煽りを受け、放棄された無様な不要物件なのである。
雨月は何となしに配下にした、この街に住む壮年の男からそれを聞いていた。
「……ふふ。分相応のみすぼらしい場所を選ぶもんだね」
その内部へと足を踏み入れると、外装が剥がれ無機質な灰色を見せる壁面を一瞥し、雨月は嘲笑を浮かべる。
「――負け犬は、負け犬らしく……そういうことなのかな?」
階上に感じる、僅かながらも絶えることのない大気中の魔力の消失。それを起こす物体の主を虚仮にしながら、少年の形をした『魔』は、薄暗いコンクリート製の棺を思わせる建物の奥へとその姿を消した。
◇
薄暗いフロア。
「貴、様ぁ……!!」
そこにアンデルの搾り出すような声が響いた。彼女を蝕む苦痛の根源は拒否、拒絶という事象である。
「ケケッ、吼えるなよ負け犬。いやぁ、よく考えりゃ俺も負け犬だったな。って事は、その俺に一瞬で負けたお前は何の役にも立たねぇ単細胞かぁ? クケハッ、みっともねぇなぁ!」
アントニオは女のその様を満足げに嗤っていた。霊装に刺し貫かれた腹部、つまりは現状を作り出した原因を蹴り上げられ、憤激と敵意に満ちた眼を自身に向ける女。その瞳に口を裂かんばかりに捩くれさせた顔を映して。
「しかしまぁ、その単細胞より役に立たないんじゃ、君は負け犬以下のクズって事かな?」
その様を、せせら笑いながら。雨月は知らず、そう口を開いていた。
何かに敗北し、惨めな自分を誤魔化す無様な男の様。それがあまりに滑稽すぎて、誘う失笑に堪え兼ねることができなかったのかも知れない。
だから、もったいぶって、暫しその喜劇の観客になることを忘れ、雨月はその光景を目の当たりにするや、声を出して舞台に上がっていたのだ。
その雨月の発言にアントニオは凍りつく。それが雨月を愉快にさせる。
今少し、彼女の香りを愉しもうとも思っていたが、早々に舞台に上がってしまったこと。それはそれで悦楽に浸れるものだと雨月は思考を改めていた。
「ん? あぁ、僕に構わずに話を続けていいよ。僕の用事は……そうだね、彼女が生きてさえいればいいからさ」
例えどのような凄惨な状態に身体が在ろうと、生きてさえいれば再生は利く。それが雨月等、永遠を生きることを約束された夜魔。
そういう脅威を暗に含み、しかし、屈託のない子供の声で雨月は続ける。
その魔性の声を受け続けたのは背面だった。酷くを無防備な部位を敵対者に見せたまま、アントニオは動かない。
否、動けない。
その緊迫感を持った聖堂騎士の背中が、雨月をさらに喜ばせる。
人の見せる恐怖や驚愕という感情は、彼にとって実に心地が良いものなのだ。
しかし、一転。その背中が、ぴくりと動いたのを雨月は見逃さなかった。
「吸血鬼、」
直後、アントニオは振り返る。
魔剣を抜き放ち、身構え、雨月と対峙するべく。
「――雨月!」
イスカリオテの騎士は、現れたモノが何であるのかを看破していたのだ。
それは、イタリア語で雨という意味の言葉。そして、WIK等の海外の魔術組織が、雨月につけた異名である。
アントニオの口から何気に出たのであろう、その洋名。
しかし。
雨月は、その言葉に、瞬間、気を損ねていた。
恐怖に震え、立ち尽くすのなら好し。慌てふためき、逃走を試みるのもまた好し。
だが、男は雨月と知って置きながら、自身を呼び捨てにし、満足な状態にないにも関わらず、敵意を剥き出しにすると、戦闘意欲を見せたのだ。
だから、雨月は家畜に身の程を知らしめるために、その手に在った得物を振るっていた。
得物、それはルチアの遺品。聖マルタンの虚構革鞭である。
そして、それが雨月の持っていた自信の一つでもあった。別に鞭という武器の扱いに長けているわけではない。しかし、その鞭の持つ特性が重要なのである。
それはルチアが滅びた夜に語っていたことと、同じ理由である。
だが、雨月はより完全にその鞭がもたらすであろう個対個の戦況に、絶対の自負を持っているのだ。
その魔術武具に触れた瞬間、完全な戦闘態勢を取る前のアントニオは弾けていた。
矢鱈と派手な衝撃音を辺りに響かせ、その体は次の瞬間には柱へと叩き付けられている。
「初対面で呼び捨て? 不躾だなぁ、ここは『慎む国』だよ? まず君は礼節を知るべきだね、僕が教育してあげようか? 童」
笑う雨月。気は少し、晴れていた。下等生物にはやはり、そういう立場がお似合いである。
「聖マルタンの虚構革鞭……なるほど、それをテメェが持ってるって事は、ルチアは死んだかぁ?」
イスカリオテ――なるほど。
雨月は男に、少しの感心していた。
硬い柱に叩きつけられておきながら、アントニオはさしてダメージを受けた様子はないのだ。
「うん、殺された。この国にも独特の騎士と魔術師はいるからね。抑止力は何も、君らだけの特権じゃないんだよ」
そう言いながら、ある滝口の顔を雨月は浮かべる。あの滝口が己の無力さに歯軋りする様は、どれほど滑稽だろう。
その時は、間違いなく間近なのである。
「知ってるよ。ブシとオンミョウシって奴だろ? まぁ、ルチアに関しちゃ感謝してやろうじゃねぇか。俺の受けた命令は雨月の排除、障害があればそれら全てを滅殺……行方不明者が従者になっていようが人質になっていようがな」
「それはまた、想像以上に性根が破綻してるんだね、君達は」
アントニオの言葉に、雨月は嗤う。
それは滑稽だと心底、思うからだ。
言葉通りに、性根を侮蔑したのではない。
男は自分を排除すると言ったのだ。
それが雨月には可笑しくて堪らなかった。
「悪いな真祖。あんまり長く遊んでる時間はねぇんだ、手短に済ませるぞ。なぁに、心配すんな、俺の封殺法剣ならスグ終わる」
改めて、身構えるイスカリオテの聖堂騎士、アントニオ。
「そう言うなよ。まだ空は高いんだ、ゆっくり遊ぼうじゃないか。童はそのくらい元気な方が、見ていて楽しい。それに……その規格破りの剣は流石の僕も恐ろしい」
変わらず笑みを浮かべたまま、雨月は応える。
しかし、その感情は怒りの変換されたものだ。
遊ぶ。
そこには時間をかけて、自分を軽視した男を壊そうとする意味が込められていた。
かくして、身動きの取れない極彩色の眼前で、『異端殺しの騎士』と『極東の島国の異質な真祖』の戦闘は開始された。
二人の労した時間は、そう長いものではない。
しかし、それぞれの動きに、廃墟には戦いの痕が無数に刻まれていた。
「ちっ、イ……!」
だが、それでもアントニオは本調子ではない。その舌打ちは己に向けられたもの。
殺戮狩人との戦闘で消耗した身体では、満足に戦闘を行うことが叶わないのである。
「ははっ……全く、不愉快だね!」
対する吸血鬼も、陽の在る時間では、その能力を制限されている。
加え、その手に在る唯一の武器は、殺傷能力を持たないのだ。
触れたものを弾き飛ばす特性は確かに雨月にとっては有効であれ、現状の、この聖マルタンの虚構革鞭という武器は、自身の肉体能力も制限されてるが故に対した得物ではないのである。
さらには雨月には、もう一つの制限があった。
それはアントニオの持つ霊装、アトリビュートに因るものである。
この霊装の能力が非常に厄介なのだ。
この魔剣に触れた瞬間に、手にした聖マルタンの虚構革鞭の魔力は絶たれてしまう。
そして、雨月自身に触れようものならば、その特性に彼は瞬時に消滅させられてしまうだろう。
不愉快だ。
「……それに、さっきから攻撃の合間に本命を織り交ぜているんだが、君はちっとも効かないんだね。元から耐魔力の素質があるのかな?」
実に不愉快だと、雨月は思う。
そう。何よりも昼間に於いて最大の切り札ともいえる能力も、この男には効かなかったのである。
「……魅了の魔眼か。ケケッ、残念だったなぁ。いくらテメェの十八番でも、魔眼じゃ、夜だって効きゃしねぇよ」
アントニオは嗤う。互い決め手に欠けながらも、どちらが有利であるかと判定すれば、自身に分があることを確信したのだ。
この時間に限定してしまえば。雨月の底は見えたのだ。
しかし、雨月もまた嗤う。
自身に現状を打破する手はなくとも、自分以外に、それは在るのだと知っているからだ。
「そうかい。なら君を魅了するのは諦めるけど」
その魔眼が妖しい鈍い光を湛える。それに映されたのはアントニオではない。
「――これならどうだい?」
真祖が捉えたのは、深手を負わせられながらも拘束されていた褐色の肌の美女。戦闘を繰り広げていた、二人の共通の目的。極彩色の異名を持つ魔術師。
「……チッ」
それが痛覚という人間の持つ枷に囚われていた彼女を解放させる。ゆらりと極彩色が動いたことを、イスカリオテの騎士は察した。
「さぁて……決着でもつけようか、魔術師泣かせの騎士」
雨月は余裕を見せて宣言する。
細められた吸血鬼の憎々しい目にアントニオは吼えていた。
「ドイツも、コイツも……寄ってたかって俺を怒らせたいみたいだなぁ!
上等だ! 雨月! 来い! 何もかも、血みどろに全てを喰い潰してやるよ!」
廃墟に在るべき静寂が訪れるのは、もう暫く先のことであった。