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秋桜館の夏春冬秋

1号室――三島 哲


「それでは、三島さん。ご縁がなかったということで」

 駅前の雑踏の中、待ち合わせの相手は三十分以上遅れた上にこともなげにそう言って向こうから電話を切った。携帯を持つ手に思わず力が入る。

 何が「ご縁がない」だ。俺は携帯に向かって毒づいた。五円玉みたいな顔しやがって。言われなくても、こちらから願い下げだ。

 それでもやはり心にはどっかりと負荷がのしかかる。お袋の友達の知り合いの……、誰の紹介だったのか。それすらもうあやふやで思い出せないのに。

 誰でもいいんだ、誰でも。この子の母親になってさえくれれば。だから断られようと、馬鹿にされようと辟易されようと俺は構わないんだ。構わないんだが。

 俺はいらいらと携帯を閉じた。

 俺の様子を不安に思ったのか、夏月(なつき)が俺の上着の裾を引っ張ってきた。

 ああ、俺はまた夏月の小さな胸を痛めさせている。俺は携帯をポケットにしまうと夏月の手を取った。そして何かを振り払うように夏月の顔を覗き込んで明るく言った。

「夏月、ご飯を食べて帰ろうか。何が食べたい?」

「……エビフライ」

 夏月はそう言うと俺の手をぎゅぅっと握り返してきた。その手の小ささが俺の心にさざなみを立てる。

「じゃあ、おっきなエビフライにしような! 夏月!」

「うん……」

 夏の太陽がきらきらとハレーションを起こして眩しい日曜日の夕方だった。

 夏月の手を引いて俺は西日の中を歩き出す。

 俺と夏月の、ひょろ長い影とその半分くらいの影が舗道に伸びている。俺の影は行く先を見失った磁石の針みたいにフラフラと頼りなげに見えた。


 俺は二十一で、夏月は俺の娘だ。保育園に通う三歳児だ。夏月は母親を写真でしか見たことがない。

 母親は、美穂は夏月を生んで死んでしまったから。まるで命を取り換えっこするみたいに。

 三年前の夏の日。ちょうど弁当を食おうとしていた昼休みだった。

 俺は美穂の母親から連絡をもらって仕事先の現場から作業着のまま、流れる汗をタオルで拭きながら産院に駆け付けたんだ。

 美穂はまだ病室にいて長い髪を一つに編んでいるところだった。そして『哲っちゃん、遅いよ』と口を尖らせたから俺は拍子抜けして『まだ生まれてないんなら弁当を食ってから来ればよかった。腹ペコなんだ』と応戦した。

 美穂は大きな目で俺を睨んで何か言おうとしたけれど、すぐに『いたたた』とでっかい腹を押さえたんだ。

 分娩室に入る時、ストレッチャーの上から俺に手を振って笑顔で『じゃあね、哲っちゃん』と言ったのに。

 俺は二組の親と五人で待っていた。幸せな時間だった。

 誰もが晴れがましくそして気恥ずかしい瞬間を待ちわびていた。

 赤ん坊の泣き声がして俺たちは顔を見合せて喜んだ。だがいつまでたっても赤ん坊は顔を見せてくれない。おめかしをしているのよ、と美穂の母親は俺にそう言った。

 長い永い時間が流れて不安になるころ俺たちは医者に呼ばれた。

 分娩室に入ると、生まれたばかりの夏月を看護師が抱っこしていて、紙みたいに真っ白な顔をした美穂が横たわったまま俺を見て弱々しく笑ったんだ。

 美穂が死んだ日の俺の記憶は不思議と曖昧だ。覚えているのは美穂のベッドのそばに木偶の坊のように突っ立っていたってことだけだ。

 誰も何も言わなかった。

 窓から病室へ差し込む初夏の夕日に浮かび上がった俺たちは、夢の中で読む絵本みたいに美しかった。


 美穂は高校の同級生だった。妊娠がわかってお腹が目立つ前に退学したから卒業式にも出席できなかった。俺は卒業して建設会社に就職した。美穂とお腹の子供を養うために。

 卒業式の次の日に入籍して一緒に暮らし始めた。ままごとみたいな生活の中で美穂は幸せだったのだろうか。

『子供が生まれてから結婚式にしようね、哲っちゃん。ジューンブライドにしたいなあ』

『えー、何でさ。今しとけばいいじゃん』

『絶対、いや。だってこんな大きなお腹に合うウエディングドレスはないでしょ。それにあっても着たくないよ』

 ウエディングドレス。

 でかい腹でも着せてやればよかった。嫌だと言っても着せてやればよかった。そして呆れるくらい写真を撮ってやればよかった。美穂は卒業式の写真さえ持っていなかったから。美穂が持っていたのは俺が初めての給料で買った安物の指輪だけだ。

 コーポに赤ん坊の夏月と美穂の遺骨の三人で帰ってきて、俺はしばらくの間そんなことばかりをぼんやりと考えていた。そして美穂を幸せに出来なかった分、夏月を幸せにしてやらなければと思った。十八の俺はそう思い込まなければ生きていけなかったのだ。

 俺と出会ってしまったから美穂は不幸になった。俺が美穂の人生を横切ったから、美穂はいろんなことをあきらめる破目になった。

 もう誰かの人生を横切るのはいやだった。

 今度は俺があきらめる番だと思った。

 俺は何度も自分に尋ねてみた。

 失くしてつらいものがあるのかどうか。

 美穂がいない今は夏月だけだ。

 夏月を幸せにすること。

 それだけが俺の生活の基本であり、余りの人生を生きていくための縁だったのだ。

 なのに。

 俺は今日の昼間の事を苦く思い返す。

 俺は夏月を泣かせてしまったから。

 ぽろぽろ、ぽろぽろ大粒の涙が柔らかい頬を伝わって落ちていた。

 俺は結び慣れないネクタイを首にかけたまま、夏月はゴムとリボンを握りしめたまま、部屋の真ん中で対峙していた。

 うさぎさんみたいにしてくれなきゃやだ。

 夏月はそればかりを繰り返した。女の子の髪はただでさえ柔らかくて扱いにくい。それを二つに均等に分け、同じ高さでゴムで縛るなど、そんな芸当が俺に出来るわけがない。

「うさぎさんじゃなくてもかわいいよ、夏月は」

「ダメ。うさぎさんがいいの、うさぎさん、うさぎさんにして、パパ」

「いいかげんにしなさいっ。パパは」

 忙しいという言葉と夏月の泣き声は重なって部屋中に響いて行ったっけ。

 お昼ごはんを食べたら、パパとお出かけしよう、夏月。そう言った途端に夏月はぐずぐずし始めたのだ。ちびクマの縫いぐるみを相手に遊び始め着替えようともしなかった。

 そこを宥め、叱り、なんとか着替えさせたものの……。俺がネクタイを結び始めるとまたワガママを言い出した。

 うさぎさんのようにしてくれと。

 誰のためにこんなことをしているのかと思った。夏月のために『母親』探しをしているというのに。

 俺ひとりではもう限界らしいから。

 毎日、毎日、毎日。

 自分の弁当と夏月の弁当を作り、朝メシを食べさせ、夜の間に洗濯していたものをベランダに出し、通園ノートに目を通し、自分の支度をし、夏月を保育園に連れて行く。夜はその逆。それの繰り返し。

 毎朝、毎日、毎晩俺はてんてこ舞いで。なのに最近の夏月は聞き分けのないことばかりを言って俺を困らせていた。

 お友達のなんとかちゃんみたいな髪にして、パパ。

 お友達のなんとかちゃんみたいなお洋服がほしい、パパ。

 お友達のなんとかちゃんみたいな通園バッグを作って、パパ。

 売っているものなら買えば済む。問題は売っていないものだった。美穂の母親と俺の母親を動員して手に入れた通園バッグも夏月のお気には召さなかったようで、この時ばかりはさすがに俺も夏月に声を荒げてしまった。

 夏月は美穂によく似た大きな目から涙をこぼして俺を責める。大声を出して自分を叱る俺を。

 その目を見ると俺は何も言えなくなる。

 美穂がいればこんな声を出して叱ることもなかったのに。そして夏月を叱る資格など俺にはないのに。そう思うと俺はたまらなくなって夏月の小さな肩を抱き寄せる。ごめん、ごめんと心の中であやまりながら。

 そんなすれ違いが頻繁に起こるようになり、俺はどうしていいかわからなくなっていた。 

 保育園に相談した。無論、双方の両親にも。 

 出た答えはいずれも「反抗期だからうまく付き合え」だったが、俺は自分の方が泣きたい気持ちになっていた。うまく付き合うことなど不可能に近い。

 だから『母親』を探したんだ。

 俺は美穂の代わりを探していた。夏月のために母親が必要だったから。

 妻ではなく母親が必要だった。母親なら夏月のコトがわかるに違いない。

 だから夏月が気に入れば誰でもよかった。

 夏月を大事にしてくれれば誰でもよかった。

 俺のことなど好きにならなくていい。

 俺のことなどほっといてくれればいい。

 そう思っていた。だから手当たり次第に頼みこんだ。お袋、社長の奥さん、世話好きなおばちゃんたち。だが『コブつき』だとわかると相手の態度は豹変した。夏月はコブなんかじゃないのに。俺だけなら、と何度も言われた。事情を知った上で会ってもいいと言った相手でさえ、今日みたいに土壇場でキャンセルしてくる。そして一番俺を悩ませていたのは、母親探しをすればするほど頑なになる夏月の態度だった。


「ながれぼし」

 不意に夏月が空を指差して立ち止まった。

 二人とも黙ったままのしょっぱい食事をしたあと、パーキングへと歩いていた時だった。だが小さな指の示す方角には何も見えはしない。流れ星ではないことがわかって、夏月はおかしいくらい落胆していた。 

 園で何か聞いてきたのだろう。大好きなエビフライを食べている間も夏月は黙ったままだったから、口を開いてくれたことが嬉しくて俺は尋ねた。

「流れ星にはお願いをするんだろ? パパもそれくらい知ってるぞ。何をお願いするつもりだったのかな。ゲームかな、大きなクマさんかな。あ、ディズニーランドだ、そうだろ、夏月」

「パパ、それはサンタさんだよ。おほしさまには、ちがうおねがいをするんだよ」

 そう言って俺を大人びた顔で見た。それがあんまり美穂に似ていたから俺は一瞬うろたえた。

「ふ、ふーん、違うのかあ」

「なつきはね、パパが、しあわせになれますようにって、おほしさまにおねがいするの」

 俺の幸せ。

 自虐の笑みが浮かんだ。

「パパは夏月がいるから幸せだよ」

「ちがうもん!」

「……」

「ちがうもん……」

 夏月は真剣な目を俺に向け、まるで流れ星にお願いするみたいに早口で言った。

「なつきね、なつきね、パパをいっぱいだいじにしてくれるママがほしい」

 俺は足を止めた。

 そして、わが子を見た。

 パパをいっぱいだいじにしてくれるママがほしい。

 何かに横っ面を殴られたような気がした。

 パパをいっぱいだいじにしてくれるママ。

 上手に隠していたものを目の前に引っ張り出されたような気になった。

 パパをいっぱいだいじにしてくれるママ。

 夏月のためなんかじゃない。それは俺自身が本当は欲しがっていたものだった。それを三つの子供にさらりと当てられて俺は動揺した。

 写真の中で微笑むだけの美穂よりも、暖かい手をもった人を俺も夏月も待っている。その手が俺と夏月の弁当を作り、俺のシャツにアイロンをあて、夏月の髪を梳く。その手を持った人と夏月を俺はこの腕の中に抱き締める。

 パパがいてママがいて、そして夏月がいる。

 三人で手がつなげる、そんな小さな幸せ。 

 どこにでもある、誰にでもある平凡な幸せを俺も夏月も欲しがっていた。

 そんなことはずっと前からわかっていたはずなのに俺は気付かないふりをしていた。

 美穂に悪い。

 俺はそう思って自分のキモチを隠し、気付かないふりをしていた。そうすることが美穂に対する罪滅ぼしであり夏月のためだと思っていたから。

 パパをいっぱいだいじにしてくれるママがほしい。

 たった三つの子供の願いの何と真っ直ぐなことか。

 夏月の幸せは、俺が幸せであること。

 俺の胸に忘れかけていた小さな灯りが再びぽんっと点る。

「あ、流れ星だ、夏月」

「どこ?」

夏月が空を見上げる。

俺も空を見上げる。

澄んだ藍色の空には流れ星など見当たらない。

 けれど俺は見えない星に願う。

お星様。

 どうか俺に愛し続けることができる人を見つけさせてください。

そして、その人がこんな俺でも愛してくれますように。



4号室――佐藤 裕司


 クリスマスまであと少しという日だった。

 一人暮らしのうえに、プレゼントの心配をする相手も俺にはいない。そんなことより七日も続いた日勤が終わり、明日からもらえる連休のほうが俺にとっては関心事と言えた。

 こういうご時勢にもかかわらず、派遣先の工場は日曜日も年末も関係なくフル稼働であり、その連休が終わると俺のシフトは夜勤に入るからだ。

 定時から三十分後には着替えを済ませ、タイムカードを打刻していた。

 ジャンパーの肩をポンと叩かれる。

「これから行くけど、どう?」

「いや、今日はやめとく」

「そうか? じゃ、また今度」

 俺の班は独身男が多くて、ちょくちょくツルんで飲み会をした。焼き鳥やおでんをつつきコップ酒を飲むだけのことだったが、それはそれなりに楽しいものだ。

 けれど、そんな時間を過ごし、独りの部屋へ帰ってきた時の寂しさも俺は知っている。

 派遣社員にあてられた駐車場へ寒風の中を歩く。せっかく入った大学を半年も経たない内に退めたあと派遣会社に登録し、働き始めたのはもう二年も前のことだ。

 感傷とも自嘲ともいえない笑みが口元に浮かんだ。どうもこの時期はいけない。お祭り騒ぎが続くこの時期はあらためて孤独を認識させる。

 親に反抗し世間に反抗して一人暮らしを始めたときは熱いものが確かにあり、孤独は勲章のようなものだったのに。

 車を駐車場から出し、いつもの通勤路とは違う方へハンドルを切った。気まぐれな考えに一瞬取り憑かれたのだ。

 少しだけ世間と同じ空気に浸りたくて繁華街をぶらつこうと思ったけれど、今さら同じ空気に染まるのは一人では難しいことに気がつき、俺は車の窓越しに賑やかな通りを眺めただけだった。

 自分へのささやかなご褒美に一本追加した缶ビールと弁当の入ったコンビニの袋を助手席に乗せ、コーポに戻ってきた時には霧雨が降り出していた。

 車庫入れが確実に上達しそうなコーポの駐車場におんぼろ車をねじ込むと、俺が帰ってくるのを待っていたのだろう、変な柄のショールを肩にかけた大家のばあさんが姿を現した。

 百年前からばあさんをやっているような高齢のばあさんだが頭はしっかりしているようだ。俺の住む築何十年のコーポの家賃はこのばあさんが毎月集金して回っているからだ。

 そのばあさんが獲物を見つけたハゲタカのように嬉々として話しかけてきた。

「佐藤さん、三時頃だったかねえ、妹さん来られましたよ。あ、こんばんは」

「こんばんは。妹って、妹が?」

「いいお嬢さんだねえ。礼儀正しいし、若いのに」

「ええ? はあ、そうですか」

「お菓子持って挨拶にこられましたよ。しっかりして、ほんといいお嬢さん」

「いやあ、まあ、はあ」

「来月分のお家賃もいただきましたからね。ほんといいお嬢さん。あ、お部屋に上がってもらいましたからね。兄が帰るまで待ちますってね、そう言って遠慮したんだけどね、この寒いのにかわいそうじゃないか。それに佐藤さん、いつも遅いし」

 そんなこったろうと思った。

 ばあさんが気に入ったのは、土産の菓子と来月分の家賃だ。長々と続ける話に適当に相槌を打ち愛想笑いを浮かべたら満足したらしい。ショールを翼のように翻して、コーポの向かいにある古びた洋館へと帰って行った。鬼軍曹は自分の持ち場へと落ち着いたのである。

 涼子のやつ、いったい何を思って突然俺のところへなど来る気になったのか。連絡も入れずに。あのわがまま女。何だかいやな予感さえする。

 俺はコーポの階段を大股で駆け上がり、二階の一番奥にある部屋の前で一息入れた。

 キーをジャンパーのポケットから取り出し鍵穴に差し込んだが手ごたえがない。ノブを回すとドアは楽に開いた。

 野中の一軒家じゃあるまいし、不用心な。 

 スニーカーを脱ぐのももどかしく、俺は狭い玄関から部屋に上がった。

「涼子、カギ開いてたぞ、涼子」

 答えはすぐ右手の洗面所から水音とともに返ってきた。

「お兄ちゃん、お帰り。お風呂掃除してるから」

「風呂掃除?」

 俺は素っ頓狂な声をあげた。

「もう終わるからね。すぐご飯にするから、待ってて」

 立ってる者は兄でも使えの教えを頑なに守っている妹の言葉とは思えない。いったい何があったんだ、涼子。

 恐ろしい。俺のところへ来た理由を聞くのが恐ろしい。知ってるだろうが貯金なんて無いからな! 殴り合いのケンカだって、最後にしたのはいつだったのか覚えてもいない。

 どうか親父とのつまらない争いでありますように。

 風呂掃除をしている涼子の鼻唄と水音を聞きながら、俺はのろのろと部屋を見回した。

 ベランダに干しっぱなしだった洗濯物はたたまれてベッドの上に置いてあり、キッチンのテーブルにはラップのかかったサラダの小鉢がふたつ、仲良く並んでいる。椅子の背には俺の記憶にはない茶色のハーフコートが掛けてあった。涼子のやつ、また買ったんだ。でもえらく地味なのを選んだもんだな。朝使ったまま流しにあった食器は洗って水切りカゴに伏せてあり、コンロの上の鍋からはうまそうな匂いがしていた。

 俺はいそいそと鍋のフタを開けた。

 やっぱりシチューだ。大きく切った根菜がたっぷり入っているこのシチューは俺の好物だった。

 懐かしい匂いが鼻と胸を一杯にしていく。

 俺に、良いことやちょっぴり辛いことがあるたびに家ではこのシチューを作ってくれた。 

 苦手の漢字テストで百点を取れた時、リレーのアンカーで転んでチームがビリになった時、家ではこのシチューが食卓に登場した。

 飲み会に行かなくてよかった。

 さっきまでの憂鬱な気分は何処かへ消え失せ、妹の気持ちが何だか胸に迫った。

 来る前に連絡をくれれば何か女の子の喜ぶ物を買ってきてやれたのに、とも思った。

 もうすぐクリスマス。せっかく街の近くまで行ったのに。

 俺がじんわりと兄貴としての喜びに浸っていると涼子がキッチンに入ってきた。

「お兄ちゃん。洗濯物をベランダに干しっぱなしにしてちゃダメだよ。ガッピガピに乾いてて、しわしわで伸ばすのに――」

 苦労した、は口の中で言った。

 風呂掃除を終え、文句を言いながらキッチンに入ってきたのは化粧っけのない見知らぬ女だったから。

 俺も女も息をのんだ。

 俺は鍋のフタを持ったまま、女は腕まくりをおろす手を止めて。

 涼子と同じ年くらいか。黒い髪は無造作に後ろで一つに結ばれており、驚いて大きく見開いている目と口元が少し幼く見える。女がしているギンガムチェックのエプロンはプーさんだ。変なところを気にしているなと自分で思った。

 俺は唾を飲み下して言った。

「あんた、部屋、間違えてないか」

 女は口の前に手をあてた。

「ここ、加藤、修治の部屋ですよね」

「加藤さんは隣」

 俺は首を横にふり、やっと言った。ついでに鍋のフタも戻した。

「でも大家さんが、この部屋だって……」

 女は今にも泣きそうになっている。

「大家のばあさん、もう年だから。聞き違えたんだ」

「で、でもっ! お家賃の領収書」

 そう言うと、彼女はキッチンの隅に置いてあるバッグに飛びついた。

「ほら、領収……、やだあ、佐藤ってなってる」

 どっちもいい勝負だよ。

 彼女はエプロン姿のまま急いでコートとバッグを引っつかむと、俺にぺこりとお辞儀した。

「ごめんなさい。あたし、失礼します」

「あ、あんた、家賃、家賃」

 俺も急いで尻のポケットから財布を引き抜いた。中を見てぎくっとした。

 全財産、二万五千円。一万、足りない。

 彼女が慌てて言い足した。顔が真っ赤だ。

「いつでもいいので兄に渡してください。ごめんなさいっ。いろいろ、その、余計なことしちゃって」

「い、いや。ほんと、助かったよ。飯まで作らせちまって。その、悪かったな。あ、ありがとう」

「ごめんなさいっ」

 彼女はそう叫ぶと突風のように俺の部屋から出て行った。去り際にテーブルに置いた家賃の領収書が風に舞ったほどだ。

 このシチュー、隣におすそわけしなくてもいいんだろうか。お隣さんにも半分もらう権利はありそうだし。

 鍋を前に、どうしたものかと考えていたら玄関のドアをノックする音がする。

 忘れ物か?

 俺が玄関ドアを開けると、困惑した表情の彼女が立っていた。髪を結んでいたシュシュを両手で揉みしだいている。

「佐藤さん、どうしたらいいんでしょう」

「え?」

「だって、だって」

「はい?」

「今、兄の部屋には女の人が来てるんです」

 うわっ、やっちまったなあ。お兄さん、そりゃないぜ。妹、どうすればいいんだよ。

「君は妹なんだからさ、遠慮するこたないだろ?」

「だ、だめなんです。夕方会った時にお隣さんだと思ったから、兄がいつもお世話になってますって、あたし、その女の人に挨拶してしまいました。今さら部屋を間違えてましたなんて。は、恥ずかしくって言えません……」

 なんと。まあそりゃ、会い辛いわな。

「佐藤さん、どうしたらいいんでしょう」

 どうしたらと相談されてもなあ。

 とはいってもこれまでの流れからして知らん顔もできないだろう。

「お兄さん、あんたが来るコト知らないんだろ? それに、まだ帰ってないんだよな? 急いでお兄さんに連絡とってさ、その女の人には帰ってもらいなよ」

 これで二人の関係にヒビが入っても俺は知らんからな。

「そうですね。それがいいですね。そうします。お盆休みにも帰ってこなかったから父が怒ってるんです。こっそり様子見て来いって。あたしここ来るの初めてで、とにかく大家さんがうるさいから一番最初に挨拶に行けって言われて」

 それで菓子折り提げてやってきたのか。

「とにかく兄に連絡とってみます。ごめんなさい。お邪魔しました」

「ああ、こっちこそお役に立てなくて」

 バッグとコートを持ち直すと、しおれた花のようにうなだれて彼女は出て行った。

 しかし。出て行ったと思ってほっとしていたら、またすぐノックの音がする。

 今度は俺がドアを開けるのを待ちきれないように彼女は中へ入ってきて、背中でドアを閉めた。

 息が弾んでいる。そして悲しげに続けた。

「佐藤さん、兄が帰って来てしまいました」

 もう、涙目である。エプロンのプーさんも心なしか悲しそうだ。

 隣の部屋のドアの開閉音。

 ただいまー、おかえりー、と能天気に交わされる会話。

 外、寒かったでしょ。

 待たせてゴメンな。

 ううん、そんなことないよ!

 エトセトラ、エトセトラ……

 隣の部屋からは、これからカーニバルでも始まるかのごとく熱い雰囲気がビンビン伝わってくるが、俺と彼女は能面のような表情で、寒々しい玄関に突っ立ったまま一部始終を聞いていた。

 知らないというのは最強だ。

 早く結婚しろ。そして速やかに帰省してご先祖様に報告しろ。お兄さん、それがあんたの生きる道だっ!

「あたし、このまま田舎に帰ることにします。あの、あんな兄ですけど悪い人じゃないんです。佐藤さん、よろしくお願いします。それじゃ、あたし今度は本当に帰りますね」

 今生の別れのようなセリフを口にし、彼女は出て行こうとして一時停止した。

「佐藤さん……」

「はい」

「帰り道がわかりません……」



 俺は仕事用のジャンパーを脱ぎ、フード付きのコートに袖を通した。ガスの元栓を締め、カーテンを引き、車のキーを持った。

 俺の動きに合わせて彼女が目線で追ってくる。まるで捨てられまいとする子猫のように。

 とりあえずコンビニへ行き金をおろす。俺は彼女に金を返して泊まる所を探す手伝いをする。せっかく来たのに帰ることはない。

 そして! 明日、前もって電話をしておき、何食わぬ顔で今度こそ隣のお兄ちゃんの部屋を訪問。めでたし、めでたし。

 この案を満場一致で採択したのだ。

 死にかけの魚みたいだった彼女もやっと生気を取り戻し、笑みがこぼれたのである。頬に小さくエクボができて俺も微笑んだ。

 他人の妹だが頼られるというのは兄貴として満更ではない。慈愛に満ちた表情で、外は寒いからコートを着なさい、などと注意するのもなかなか醍醐味があった。

 彼女と俺が部屋を出た時だった。

 何の前触れもなくいきなり隣の部屋のドアが開いたのだ。

 これには驚いた。だが、打ち合わせたわけでもないのに、俺が彼女の前に立ちはだかるのと彼女が俺の後ろに隠れるのとは同時だった。こっちの方が驚きだ。

 にわかコンビにしては『あ、うん』の呼吸、頼もしいバディである。妙に嬉しくなって俺は陽気に挨拶をした。

「こんばんはー」

 件のお兄さんは怪しい二人連れだとでも言いたげに俺たちをざっと見た。そしてなぜか口の端で微笑むと連れの女を促して廊下を歩いて行った。微笑みにはカチンときたが、俺はお前の秘密を握っているのだ、馬鹿なやつ、最後に笑うのは俺様だなどと脳内シミュレーションを行って、何だか虚しくなってしまったのはなぜだろう。

 お兄さんたちが行ってしまったのを確かめ、俺たちも廊下を歩き出した。

 彼女はバッグを両手で持ち、俺のあとをついてくる。まるで家出少女を発見し連行する警官のようである。

 しかし階段を降りかけたら、あろうことか件のお兄さんが慌てた様子で引き返してきたのだ。

 万事休す。隠れるところはない。

 俺は振り向きざま彼女を階段の壁に押し付けて、その上から覆いかぶさった。ここでも俺のバディは優秀だった。俺の胸に顔を埋めてきたのだ。傍目には何か秘め事を囁くバカップルに見えたに違いない。

 お兄さんは「ぎょっ」とした様子だったが、あきらかにニタニタしているようだったから。

 彼が俺たちの横をすり抜け、部屋に消えるのを見計らってから俺と彼女は走り出した。 

 おんぼろ車に乗り込んでコーポの駐車場を後にし、大通りの信号で止まり顔を見合わせて苦笑した。

「スパイ映画みたいでした。ね、佐藤さん」

 彼女は頬を紅潮させて声を弾ませた。

「面白かったです! ね、佐藤さん」

 B級映画だと俺は思った。

 無感動男と勘違い女の珍道中だ。それでも胸の奥は何やらムズムズとしてきてハンドルを握る手は熱い。

 突然、彼女が声を上げる。

「シチュー」

「え?」

「すごくたくさん作ってしまいました。兄の大好物なんです」

「ああ、あれ。大丈夫。俺も好きだから」

 そうなんだ、よかったあと小さく呟いている。

 俺の家では俺や親父のご機嫌を取るためによく女たちはメシでごまかすんだと言うと、彼女は楽しそうに笑った。そして、

「うちでも、何かねだる時はお父さんにビールをお酌してあげると九割方要望は通ります」

 と言って再び笑顔を見せた。そのたびにエクボが刻まれる。

 また、彼女が声を上げた。

「佐藤さん、見て! おっきなイチョウの木! すごい、すごい、たくさん!」

 それは運動公園にあるイチョウ並木だった。

 十二月というのに、暖冬のせいでまだ黄色い葉をたっぷりと蓄えており、霧雨に濡れた葉がぴかぴかと街灯を反射して大きなクリスマスツリーのように見えた。

 彼女はおでこを車のウインドゥにひっつけるようにしてイチョウを見上げている。

 まるで子供だ。

 俺はウィンカーを出すと車を路肩に寄せて停めた。そして同じように彼女の肩越しにイチョウ並木を見上げた。

 木々は霧雨に逆らうように天を突き堂々とした姿を曝していた。この古木はいつからここに立っていたのだろう。

 何だか厳粛な気分になった時、ざわざわざわっと葉を鳴らして風が渡り、木はぶるっと震えてたくさんの葉を散らし始めた。

 夜空を流れて行く落葉はとても見事で、後から後からキラキラと金色の洪水は続き、俺は思わず感嘆の声を漏らした。

 彼女が得意そうに俺を見たから俺は少しだけ笑い返した。

 そして、やっと暖かくなり始めたヒーターの熱に促されるように口を開いた。

「その、なんだ、きれいなもんだな」

「あ、また散った。ほら見て、佐藤さん」

 俺たちは長い間イチョウ並木を見上げていた。聞こえるのはウィンカーのカチカチという音と木々を渡る風の音だけだ。

 細かい霧雨はイチョウ並木を濡らし、イチョウは黄色い葉の先から俺たちのぼろ車へと滴を落とした。

 とん、たん。

 しばらくあって、また、とん、たん、ととん。車の天井をたたく柔らかい音は夢のように続いた。いつしか俺はその優しい音に身を委ねていた。

 何に俺はあんなに尖っていたのだろう。

 触れるものを切り裂いてしまうくらいに。

 

「佐藤さんは銀杏好きですか?」

「茶碗蒸しに入ってるやつだろ? 妹がよそ見をしている間にあいつの茶碗蒸しに入れてやる、くらいには好きかな」

 彼女が『やっぱり』とでも言いたげに俺を見た。心なしか口が尖がっているようだ。

「兄もそうするんです。ぼーっとしている方が悪いって。どこの妹も耐えているんですねえ、佐藤さん」

 それからも彼女はポツポツ俺に話しかけてくる。隣の家の白モクレンはとても大きな花をつけるだとか、駅前のラーメン屋のシェパードは店番ができるだとか、そんな他愛のない話だ。

 駅前のビジネスホテルに彼女を送り、俺はコーポに戻ってきた。隣の部屋は真っ暗で、お兄さんたちはまだ帰っていないようだ。

 テーブルの上には、買ってきた缶ビールと弁当がコンビニの袋に入ったまま置かれていた。家賃の領収書もそのままだ。

 俺はガスコンロに点火しシチューを温め始めた。窓の外では木枯らしが強くなったようだが部屋の中は静かで暖かい。鍋がコトコトと小さな音を立てているだけだ。

 俺はテーブルの上に置きっぱなしにしていた領収書を手にとって眺めた。

 佐藤裕司様となっている。佐藤と加藤を間違えるなんて相当あわてものだ。それに方向音痴だし。

 領収書に向かって『そそっかしいヤツ』と呟いてやった。

 

 次の日は朝早く目が覚めた。とっくに雨は上がり冬の太陽が眩しい。

 朝も昼も俺はシチューを食べた。そしてキッチンの椅子に座ったまま、ぽかんとしていた。今まで一人で過ごしてきた休日が昨日を境に変わってしまったようで、俺は落ち着かなかった。

 何を待っているんだろうと思った。

 せっかくの休日をシチューばかり食べて過ごしている。

 寂しいとか辛いとか、そんな切羽詰った感情ではない。餡パンなのに餡が入ってないパンを食べているような不思議な感じだった。 

 餡は一体どこへ行ってしまったのだろう。 

 餡パンが甘いことなど知らなければ良かったのに。

 えいやっと、ハズミをつけて俺は立ち上がり昨日のコートを掴んだ。ぶらぶらと少し歩けば、本屋だってレンタルビデオ店だってラーメン屋だってある。

 そう思って部屋を出た時だ。

 話し声がして、廊下の端に二人連れが姿を現した。二人連れは、どんどん近くなって隣の部屋の前に立った。お兄さんがカギを開けながら、俺に『こんにちは』と言って素っ気なく部屋に入って行く。

 その後ろから、ひょいと顔が覗いて、

「こんにちは。兄がいつもお世話になってます」

 と言いペロリと舌を出したんだ。

 世話になんかなってねーぞ、と部屋の中から声が聞こえてきて、俺と彼女は声を出さずに笑った。

 やっぱり兄妹だ、目元が似ているなと思っていたら彼女が俺の手に何かを押しつけてきた。

 イチョウの葉っぱだった。

 俺は冷蔵庫の扉にそれをはりつけた。


 イチョウの葉っぱを眺めながら、俺は次の日もシチューを三度食べた。

 涼子もお袋もたくさん作ったほうが美味しいとシチューを作る時はいつも大量に作った。 

 それに小分けして冷凍しておけば、いざという時に助かるでしょ、というのが持論で、いざという時とは一体どういう時を指すのか定かではないけれど、これは世の女性たち皆の申し合わせ事項なのだろう。

 彼女が作った大量のシチューを俺はせっせと食べ続けた。

 お兄さんとは挨拶を交わす仲になった。

 少し年上に見える彼は、俺に対する時いつも仏頂面だ。お互いの『秘密』を共有している同志であり、かつ、弱味を握られている嫌な相手でもあるからか。ともあれ、例の彼女とは順調なようで俺はやれやれと胸をなで下ろした。そして、いつも仏頂面だがクリスマスに俺が一人でいるところを見て、お兄さんは何か言いたそうな顔をしていた。

 結構いい人なんだなと、その時俺は思ったのだ。

 彼女の言ったとおり。

 あの日から、俺は部屋のドアを開ける前に必ず一息、入れるようになった。

 それから、静かにドアを開ける。

 ほんの少しの期待を込めて。

 もしかしたら、あの日と同じ事が起きるかもしれないじゃないか。

 時空が歪んであの日のあの時間に繋がるかも知れないじゃないか。

 だから俺はそろりとドアを開ける。

 そうすれば。

 お帰り、と声が聞こえてくるようで。

 キッチンのテーブルの上にはラップのかかったサラダの小鉢がふたつ、仲良く並びシチューの鍋はほかほかと湯気を上げている。腹ペコの俺は、鼻をくすぐる匂いに誘われて子供のように大きな声で、ただいま、と答えるんだ。

 そして、二人で夜空を渡るイチョウの落葉を眺めがら時間を過ごす。

 すごいね、きれいだねと言いながら。


 夜勤は元旦の朝に終わり、今度は三日休みがもらえた。俺はコーポに帰ってシャワーだけを済ませ缶ビールを一本空けるとベッドにもぐりこんだ。

 変な夢を見た。

 俺は幼稚園に通う園児でお迎えを待っている。友達のお迎えはすぐ来るのになぜか俺のお迎えは遅いのだ。目が涙で一杯になるころ、やっとお袋の顔が見えた。

 俺はうれしくてお袋に抱きついた。

 遅くなってごめんね。いい子にしてた?  

 お袋はそう言って俺の頭を優しくなでた。

 いい子にしてたよ。

 俺は誇らしげに答えた。

 俺の頭をなでる指が気持ちよくて俺は目を閉じた。

 また声がした。

「そう、いい子にしてた? 佐藤さん」

 佐藤さん?

 いつの間にか俺の胸には彼女が頭をもたせかけているのだ。

 そこで目が覚めた。喉がカラカラに渇いていた。部屋の中は真っ暗で静まり返っている。 

 水を飲みテレビをつけた。バラエティ番組では振袖姿の女性が何がうれしいのか満面の笑みを浮かべている。

 いつもの正月だ。夢が夢であると確認して俺は胸の奥が痛くなった。

 いくら待っても彼女は来ない。

 俺は廊下へ出て、パジャマ姿のまま隣の部屋の前に立った。すでに帰省してしまっているのだろう。部屋は真っ暗で人の気配はなかった。

 それでもドアを叩いた。

 加藤さん、加藤さんと叫ぶうちに涙があふれてきた。


 人恋しさに、県北の実家へと帰省した。

 突然帰ってきた俺を見て親父もお袋も驚いていたが、二年ぶりに親父と話をし酒を飲んだ。妹は兄貴のことなど無関心であり、大学のサークル仲間と温泉だそうだ。

 どてらに炬燵、甘すぎる煮しめと変わり映えのない正月だ。違うのは俺が少しばかり親父に優しいことだろうか。するめを齧り、干し柿を頬張り、県北訛りを聞きながら飲む地酒は腹に沁みた。家を出た時はこんな日が来るとは思ってもみなかった。

 俺は何にあんなに尖がっていたのだろう。

 正月休みの間ずっと俺は実家にいてお袋の料理を食った。懐かしい味は、ほっとするけれど何かが違う。 餡パンは甘いものだと知っているから、腹ではないところが腹を空かせてもっと食わせろ、もっと食わせろと文句を言う。腹がいっぱいになるだけでは俺はもう満足できない。

 それが食える所は。

 シチューの鍋がほかほかと湯気を上げていたあの部屋だ。

 そう思うと、俺は矢も盾もたまらなくなった。バタバタと支度を始める俺に親父が呆れ顔で言った。

「それぐらい手際が良かったら人生変わってただろうになあ」

 帰り際、お年玉だとぽち袋を渡したら中も見ずにお袋に泣かれ、俺は逃げるようにしてコーポに戻ってきた。

 ドアの郵便受けには回覧板が差し込まれていた。ダイレクトメールやチラシが入っていたので回覧板といっしょにキッチンへ持って入った。それらをテーブルにのせ、椅子に座った。

缶ビールのプルトップを開け、口をつけようとした時だ。カラー刷りのチラシの下に四角い紙が見えた。 人差し指で引っ張り出した。 

 年賀状だった。

俺は持っていた缶ビールをテーブルに戻し、椅子から立ち上がった。胸の鼓動が聞こえてきた。震える手で裏返した。印刷された文面だった。最後に親父さんの名前を筆頭に家族の名前が印刷された何の変哲もない年賀状だった。ただ、元旦という文字の横に小さな字で、大変お世話になりましたとだけ手で書かれてあった。俺は名前を順に見て行った。

四人家族。親父さん、お袋さん、お兄さん。

そして。

葉子。

あの日の黄色い葉っぱが再び胸のなかで散り始めた。

葉子。俺の下の名前、漢字違ってるぞ。

俺はコートをつかみ、その葉書を握って部屋を飛び出した。


郵便局は年始の営業ということもあってごった返していた。列の最後尾について順番を待った。なぜ葉書一枚買うのにこんなに並ばなくてはならんのだ。民営化されたんじゃなかったのか。なぜ今日お年玉貯金などしなくてはならんのだ。ちゃちな貯金箱など本当に欲しいと思っているやつなどいるものか。やっと俺の番になった。ほっとした瞬間、目の前に変な柄の毛糸のショールが割り込んできた。俺は思わず怒気を含んだ声を出した。

「おい」

 振り返った顔を見て目を見張った。

「大家、さん」

「あら、佐藤さん。ちょうどよかった。ちょっとここ見てよ。もう目がうすくなっちゃってさ。この眼鏡もねえ、合わないんだわ」

 お前の眼鏡のことなど興味はない。そう言ってやろうかと思ったが、ぐっとこらえて質問に答えてやった。

「ここに名前、この下に住所、電話番号、書いたらいいんですっ」

「あら、やっぱりそうなのね。ありがとうね」

 見えてんじゃねえか。

「佐藤さんはどうして。あら、その年賀状、当たりなの? 抽選はまださきよ。あわてんぼさんねえ」

「違いますっ」

 むきになった俺の様子がばあさんの興味をひいたらしく、俺のそばを離れようとしない。

やっと手に入れた葉書を持ち、俺はへとへとになりながら記入台へたどりついた。

「彼女お?」

 加藤 葉子様、と書いたところで覗き込んできた。俺は背中で視線を遮った。

「やだねえ。意地悪だねえ。佐藤さんくらいの若い子はみんなメールで済ますんじゃないのお。あけおめ、とか、ことよろって。佐藤さん、ナウくないよお。流行らないよお」

 ナウくないか。そうだろうな。

住所と宛名を書き、裏へひっくり返したところで、ボールペンが止まった。

何と書こう。白い空間を埋める言葉。

今、彼女に伝えたい言葉。

俺はボールペンを握り直すと、力を込めて書き始めた。

 

「何て書いたのさ」

「個人情報なのでお教えできません」

 俺と大家のばあさんは仲良く肩を並べてコーポへと帰っていた。

彼女はあの葉書を見てどうするだろう。

笑って年賀葉書の抽選日までとっておくだろうか。それとも。

俺はコートのポケットの中で携帯を握り締めた。

気付いて、俺はばあさんに合わせて歩く速度を落とした。

 ばあさんがふふっと小さく笑って言う。

「また、春がきたねえ」



2号室――藤崎


 俺の彼女は携帯を持っていない。

 デートの約束とか困るから「持て」と言うのに、可愛らしい顔で「だめ、いらない」

 だから、俺は何かあると彼女の会社へ電話を入れなきゃならない。

 ゴメン、出張入った、田舎から友達が出て来た、所長の気分で残業だ、云々。

 こんな電話を入れると、彼女の声はすぐさまトーンダウンする。

 私に会いたくないの?

 会いたいよ。

 俺は答える。会って話がしたい。俺の掌にすっぽりと入る柔らかい手をいつまでも握っていたい。産毛が光る耳たぶを見ていたい。

 なんて。

 もてない男の妄想は止まる所を知らない。 

 彼女と俺は、それぞれ勤める会社がこのビルの同じフロアにあるというだけで、彼女は俺のことなど気にも留めていない。エレベーターで会ったら会釈する程度の仲だ。

 携帯を持ってないなんて今時めずらしい。雑誌から抜け出たとまではいかないが、俺から見れば年頃のお洒落な女の子なのに。

 携帯を持っていないという情報はエレベーターの中で収集した。昼飯、女の子はランチというらしいが、の帰りに乗り合わせたんだ。

 彼女は会社の先輩とおぼしきオバサンと一緒だった。女性ばかりの職場は人間関係が複雑で難しいと聞いたが、彼女は結構上手くやっているようだ。まあ俺にしてみれば、遠慮のないオバサンが彼女にいろいろ質問してくれるので大助かりなのだが。

 カレが出来たら、(うお! カレシはいない)一番に、そいつの携帯に電話する。それが彼女の夢であり、こだわりだそうだ。そのためにカレが出来るまでは携帯を持たない。

 何より家族と同居しているし、とりたてて不便はないと言っていた。

 犬が好きで飼いたいけれど、今のマンションではダメ。なぜか料理が上手くなりたくてキャベツの千切りを特訓中。お酒は強くない。 

 すべて、エレベーター情報。

 毎日、毎日、エレベーターで会釈するだけ。

 彼女の勤める会社は洋服のデザインをする会社で、五人にも満たない小さなところだ。 

 この春に入社したばかりの彼女は本職であるはずの洋服のデザインより、山のような雑用で一日が過ぎるらしい。その証拠にいつも何かを抱えて走り回っている。

 だから俺は、両手に荷物をたくさん抱えた彼女のためにエレベーターの扉を押さえておいてやることもある。

「何階ですか」

「六階をお願いします。ありがとうございます」

「いえ……」

 半年かかって交わした会話はこれだけだ。

 何階なんてわかりきっていることなのに。

 気が利かない自分が本当に情けなくなる。 

 度胸のない俺を乗せてエレベーターはアップダウンを続けるうち、春は逃げて行き、夏はすっ飛んで、秋はいつのまにか冬に変わっていた。

 名前さえ知らない。

 あなたの名前は何ですか。

 俺は、少し疲れたような彼女の横顔を思い出す。自然に会話をするにはどうすればいいのか。もう、考え過ぎて、あきらめてしまった。狭い箱の中で二人きりになると、俺は階を示す電光表示ばかりを見てしまう。

 でも、心の中では叫んでいるんだ。

 どこに住んで、どんな生活をして……

 いや、聞きたいのはそんなことじゃない。

 俺のこと、知っていますか。

 俺が、一生懸命頑張っているあなたを好きなこと、知っていますか。

 そんな思いを押し込めて、俺は毎日会釈をし、エレベーターの扉を押さえ続けていた。


 その日エレベーターで会った彼女はいつもと様子が違っていた。普段は緩い三つ編みを背中に垂らし、柔らかそうな上着にスカートなのに、何とカッチリした濃紺のスーツ姿だったのだ。

 黒髪をきりっと一つに結び、ブリーフケースを持ち、タイトなスカートからはハイヒールを履いた綺麗な足が伸びていた。

 上司らしき中年の男性と並んで笑顔で話す彼女はきらきら輝いて見えた。

 取引先へ次のシーズンのデザイン画を持ち込むところらしい。彼女にとっては初めての大きな仕事みたいだ。会話の端々に興奮した様子が窺えた。

 頑張れよ。うまくいくといいな。

 思わず心の中で呟いた。その時だ。偶然彼女が振り向き、目が合って俺は慌てた。

「こんにちは。同じフロアの設計事務所の方ですよね?」

 俺はちょうど現場に行くため、ヘルメットを抱えて作業着姿だった。

「あ、ああ……、内装に入るというので確認のために」

「よくエレベーターでお会いしますね」

 何と言う笑顔。エレベーターを降りてから、彼女はもう一回俺の方を向いて軽く頭を下げた。それから背中を向けると弾んだ足取りで歩いて行った。

 俺は明るい気分になって、会社のバンに乗り込むと助手席にヘルメットを放り投げた。 これから向かう先は老夫婦の依頼で風呂場、トイレといった水周りのリフォームを手がけている家だ。俺なりにいろいろと提案をし、じっくりと仕事をさせてもらった家なので、新しい作業に入る前には必ず覗くようにしていた。

 何より、ご主人自らが豆を挽いて淹れてくれる香り高いコーヒーが楽しみの一つだったのだが。

 しかし、俺にとっては、俺に『仕事』を教えてくれたという意味からも、とても感慨深い家だったのだ。

 二年前、大学の建築科を出て今の事務所に就職した時、俺は意気揚々としていた。

 ここで勉強をして力をつけ、何某かのコンクールに応募して賞を取り独立する。実際、所長はそうやって仕事をしてきた人だった。

 夢があったのだ。だが現実は厳しい。腕をふるえるような仕事はそうそう舞い込んでは来なかった。小さなリフォームがせいぜい。美術館だの公共の建物の設計など、夢のまた夢だった。

 毎日のように繰り返される建築確認といったルーティンワークには、ほとほと嫌気さえ感じていた。

 何の感動もなく、燻ったまま俺は惰性で仕事をしていた。そんな時、電話があったのだ。最初はクレームなのかと思った。

 だがそれはお礼の電話だった。キッチンのリフォームの際に小柄な奥さんに合わせてシンクを低くした、ただそれだけのことに対するお礼の電話だった。お友達のところでも、あなたに頼みたいと言っている、引き受けてもらえますかと声は続いた。

 記憶にも残らない細々としたリフォームを数だけは手掛けてきた、ただそれだけのことなのに。

 有難いと思った。理由もなく胸がいっぱいになって作業着の袖で涙を拭いた。

 美術館だのの設計をしたいのは言うまでもないが、自分の手で感じられる、こんな喜びもまたいいものだと知ったのだ。

 そんな仕事をしていこうと思った。


 案の定、コーヒーをだしに引き留められ、帰社したときは夜になっていた。着替えてエレベーターに乗り込み、降りながら晩飯のことを考えた。冷えたビールに湯豆腐、野菜炒め。ああ、腹が減った。ベランダの洗濯物も入れなきゃあ。雨になりそうだ。早く帰ろう。

 そう思って足早にホールを駆け抜けようとした時、俺はビルの入口に人影を見つけて立ち止まった。

 彼女だった。しょんぼりと階段に腰掛けている。雨の匂いのする夜風が流れてきた。湿気を多く含んで泣けそうなくらい重い。星は数えるほど。遠くでクラクションが聞こえた。

 何時間か前とは様子が違っている。どうした。失敗でもしたのか。声をかけようか、それとも知らないふりをしたほうがいいのか。

 思いあぐねていたら、気配で彼女が立ち上がり、振り向いて俺に言った。何だかふらふらしている。

「あっぱり、まら、いたんれすね。くるまのぼんねっとが、あったかかったれす。ひっく、めいたんていれしょ、あらし。あろ、これから、おひまれすか」

 ふらふらしているのに、にこにこして、やたら親しげに言う様子が返って俺に警戒心をもたせる。また泣いたような風が流れ、彼女の足元でカランカランと軽い音がした。

 ビールの空き缶だ。目を瞠った。

「おひまらら、のみにつれていってくらさい」

「……」

「おなじ、ろっかいのよしみれっしょ? えれべーたーなまかじゃないれすか」

「もう、かなり飲んでるようだけど」

「すこーし、らけれす」

 そう言うと、にぱっと笑ったが、すぐに口を手で押さえ崩れるようにしゃがみ込んだ。

「気持ち……、わるい」


 飲めない酒を無理に飲んだ彼女は、ばーか、ばーかと信号機や飲食店のネオンサインに悪態をつき、気持ち悪いを連発し、家まで送ろうと言うと、家には連絡してありますっ、今日は帰りませんっと泣いた。

 酒癖の悪いヤツだ。

 男ならそこらへんに転がしておくのだが、女の子なのでそうもいかない。結局、自分のコーポへと連れてきてしまった。

 俺は、俺のベッドで眠っている彼女を見ながら思った。

 どうするんだ。服とか脱がしたほうがいいのかな。だってスーツがシワになるとアイロンじゃ直せない。

 いや、それはマズイだろ。理性も風前の灯に近い。国家権力のお世話にでもなろうものなら田舎の両親が悲しむ。火中の栗を拾うようなマネはしないほうがいい。

 落ち着け、落ち着け。

 俺は建築士の受験の時に使ったテキストを押入れから引っ張りだすと、問題を解き始めた。だが何度設問を読んでも『ぐがにかかが、さしそてとたにののき、いちのぺならはらみそ』としか読めず、すぐ断念して放り出した。

 俺は再びベッドのそばに立った。彼女は俺の枕に顔を横向きにして、すやすやと寝息を立てている。チャンス、チャンスとけしかける悪魔の声と、やめろ、やめろと叫ぶ天使の声がシネマサウンドで聞こえてくる。誘惑に負けて、俺はそろそろと彼女に手を伸ばし顔に触れた。

 指が濡れて、俺は思わず手を引っ込めた。

 涙?

 触れた指先から熱いモノが急速に冷めていくような気がした。上着を取るとポケットから手帳を出し、一枚ちぎって自分の携帯番号を書きベッドのそばのデスクに置いた。キーケースからスペアキーを取るとその上に乗せた。そして明日の朝までのネグラを確保するために、夜の街を目指したのだ。


 二十四時間営業のネットカフェで夜を通し、出勤の準備をするため、俺はアパートに舞い戻った。

 思った通り彼女の姿はなくて、デスクの上の紙切れには、俺の携帯番号の横に『お世話になりました。森田』とだけ書かれてあった。

 ふうんと、俺は思った。ベッドは痕跡がないほど完璧に整えられており、ついでに流しの茶碗も洗ってあった。ふうんと、再び俺は思った。名前がわかっただけでもいいじゃないか。

 そんなことより、彼女は今日、仕事に出てくるだろうか。

 昼休みになり、エレベーターで彼女の会社のオバサンと一緒になったから、俺は思い切って声をかけようとした。

 計ったように携帯が鳴り、出鼻を挫かれて、いらついた。公衆電話。誰だ、それどころじゃないのに。エレベーターが一階について、ホールに吐きだされてから、俺は無愛想に電話に出た。

「はい、藤崎」

「森田です」

「……」

「私、会社、辞めようと思って。藤崎さんには迷惑を」

「今、どこ」

 街はずれにある大きなショッピングモールの名を淡々と彼女は喋り、俺はそこで待つようにと言ってから電話を切った。そして社に戻って作業着とヘルメットを掴むと、ホワイトボードに『○○様、直帰 藤崎』となぐり書きをして、彼女のもとへと向かった。

 彼女はいつもと同じ格好でショッピングモールの入口に立っていた。そして、俺が自動ドアから姿を現すと、ペコリとお辞儀した。

「辞めるってなんでさ」

 噛みつくように言う俺を予想していたのだろう、彼女はさらりと言ってのけた。

「私、才能がないみたいだから」

「才能?」

「せっかく春夏物のデザイン、まかせてもらえて、頑張ったのに。こんなの、つ、使えないって。パリコレじゃあるまいしって。笑われちゃった……」

 何だか身につまされた。二年前の自分を見るような気がしたから。

「もう一回専門学校へ行って、勉強し直そうと思って。今度はもっと」

「上を目指す?」

「う、うん、そう。だって、ウチの会社の商品なんて、スーパーで売ってる量販モノなんだもん。デザインとか関係ないから。安ければいいの……」

 俺はだんだんと腹が立ってきた。これじゃ、昔の俺と同じだ。

「俺はデザインのことも女の服のことも、よくわからないけど。けど、けどな、その服を買う人はいるんだろっ」

「う、うん」

「あんたはそういう人たちを見下してんだ。バカにしてる。そんなやつに作ってもらう服も可哀そうだ。辞めれば? 会社」

 彼女の顔色が変った。

「ほら、安いだけで買うのかどうか理由を聞きに行こう。安いだけで買う人ばっかりならパリでもどこへでも行っちまえ。連れてけよ。どこに置いてんだ、あんたとこの商品。ここには置いてないのか?」

「お、置いてある……」

 俺は左手にヘルメットと作業着、右手に彼女の手を掴むと、引きずるようにして歩きだした。

 クリスマス商戦が始まったばかりの婦人用品売り場は平日というのに結構賑わっていた。

「どれ」

「あのブラウスなんか、そうみたい」

 人を縫うように歩いて、俺と彼女はそのコーナーにやってきた。ブラウスを選んでいた小さな子供連れの女性が目を丸くして俺たちを見た。

「マーケティング調査に協力していただけますか。このブラウス、何を基準に買おうと思いますか」

「やっぱり、値段かな。安いとうれしいし」

「はあ、やっぱり値段ですか」

 くそっ。

 女性はニコニコして続けた。

「それもあるけど可愛いから。これなんか袖のリボンが素敵」

「それっ、私が提案しましたっ」

「デザイナーさんなの! 子供がいると自分のオシャレは後回しになっちゃうから。安くて可愛いのは助かるわあ。頑張ってくださいね!」

「……、ありがと、ございます」


 それからも彼女は少し離れた所から、売り場をじっと見つめていた。俺もヘルメットと作業着を抱えて、彼女の番犬よろしく後ろに突っ立っていた。レジにブラウスが運ばれると彼女は俺を振り返ってにっこりとし、ハンガーラックに戻されると肩を落とした。

 彼女が動くたびに甘い花の香りがしてくる。店内はクリスマスソングが軽快に流れ、暖房がきいて眠くなるような暖かさだ。

 その暖かさに守られて俺たちはずっと立っていた。

 俺は彼女に、こんなことしかしてやれない。

 エレベーターの扉が閉まらないように押さえていること、こうやって突っ立っていること。腹が減ったとか足が痛いとか時間のムダだとか、そんなことを言うやつは馬に蹴られて死んでしまえ。

 彼女は今、とても必要なムダな時間を過ごしている。

 夢は大事だ。あきらめきれないものだ。そして実現するのは難しいことだ。そんなことはわかっている。でも思い出せ、最初の気持ち。それに彼女もきっとわかっている。だからこのショッピングモールに来てしまった。自分の仕事が気になったからだ。パリコレとかではない地味な場所だけれど。

 自分のしている事が誰かの役に立つことを知るのはムダなことじゃない。

 そのためなら、俺は何時間だってエレベーターの扉を押さえておいてやる。



「藤崎さん、ありがと」

「うん」

「女の子がね、すごく悩んでるの。どっちにしようかって。右手に持っているほうが似合うよって言ってあげたかった」

「うん」

「安物なのにね……」

 そう言って、彼女は晴れやかな顔をして俺を見た。ちくしょう、疲れが吹っ飛ぶような笑顔だぜ。これでまた明日からのエレベーター人生にもハリが出るというもの。

「昨日は、迷惑かけてごめんなさい」

「ああ、気にすることはない」

「それと」

「何?」

 彼女がいたずらっぽく俺を見る。小悪魔みたいな顔に俺はどきりとする。

「ずっと言おうと思ってたんだけど、そのシャツとネクタイの色、合ってないです」

「へ?」

「いつもオカシイ、あ、ごめんなさい。前から気になって気になって。ウチの社でも有名ですよ、藤崎さん。いつもヘルメットと電卓持って。作業着のボタン掛け違えてたり、頭くしゃくしゃだったり。夏はガソリンスタンドの名前の入ったタオルを首にかけてるし。あまりに無頓着過ぎるって。素材はいいのにねえって。だから」

「……、わかった、もう言わなくていい」

 ダメ出しされて俺はへこんだ。そんな風に思われてたのか。挫ける。穴があったら入りたい。ヘルメットの顎紐を握りしめた。

「職業病だ。仕事に戻る」


 そそくさと彼女と別れて、遅い昼飯を食べ、俺はのろのろとコーポに戻ってきた。

 ダサイ男だと思われていた。そりゃ、パリコレには負けるよ。でもショックだった。何だか虚しい。ヘルメットは建築屋の必需品だぞ。電卓、タオル。みんな、みんな大事なモンだっ。女ごときにこの味がわかってたまるか。

 洋服なんざあ所詮飾り。男は身に布っきれ纏っときゃいーんだ。それに、よーく考えれば失礼な女じゃないか。ちっとばかし可愛いからって許さんぞ。今度あったら身ぐるみ引っぺがしてやっからな。

 と、バイオレンスな気分へと己を盛り立て、荒々しく缶ビールのプルトップを引き上げた時だった。

 携帯が鳴った。知らない番号だ。

 横目で見ながら缶ビールを飲んでいると、電話は切れた。ネクタイをはずす。

 また、携帯が鳴った。さっきの番号だ。

 スーツをハンガーに掛けているうちに切れた。電源をオフにして食卓の上に放り投げた。

 明日、行きたくねえな。というより、彼女に会いたくない。

 部屋着に着替えて、二本目の缶ビールを開ける。今度のビールはなぜか苦い。

 玄関ドアが激しく叩かれて、俺はぎょっとなった。

 声が続く。

「こらあ、藤崎、開けろおお」

 いっ?

 鍵がガチャガチャと音を立てる。

「いるのはわかってるぞおお! 開けろー! 藤崎っ」

 慌てて鍵をはずすと声の主は体を無理やりねじ込んで来た。

 肩で息をしている。顔が真っ赤だ。

 入ってくるなり、無言で青いリボンのついた四角い包みを俺に押し付けた。

 なんだ?

 右手のシャンパンピンクの携帯電話がキラリと光る。それを葵の御紋のように俺の鼻先に突きつけると、涙声で言った。

「話を最後まで聞かないのってサイテー! 自己完結するのってもっとサイテー! せっかく携帯買ったのにい。一番に、一番に電話したのにい。電話にも出てくれないのって、サイコーにひどいよ……」

 ぱらぱらっと涙が音を立ててこぼれた。

「藤崎さんのばかぁ」


 俺の彼女はついに携帯を持つようになった。

 便利にはなったが、会っている時でもメールをしてくる。

 忙しいやつだ。

 休みの日には料理を作りに来てくれる。

 キャベツの千切りは玄人はだしだ。

 酒に弱くて、すぐ眠ってしまう可愛いやつだが、洋服選びには一家言あるようで、うるさいったらない。

 俺は相変わらず、たくさんの荷物を抱えた彼女がエレベーターに乗る時、扉を押さえてやっている。

 彼女は荷物のかげに隠れて得意そうにニマニマするから、俺はヘルメットを彼女の頭に乗っけて、今度はこっちがニタニタしてやる。

 ざまあみろだ、な?

 今日もエレベーターは平和にアップダウンを続けている。



大家――ユキ


「ユキ、さっさと起きな。まったくグズな子だよ」

 女中頭の松岡さんの声であたしは飛び起きました。寝坊をしてしまったのは、昨夜は旦那様のお帰りが遅くて、あたしはずっと起きてお待ちしていたからなのでした。

 旦那様はいつも眠る前に温めたミルクをお飲みになります。旦那様は、ユキの温めたミルクは丁度いい温度だね、とあたしを褒めてくださいます。そのお優しいお声が聞きたくて、あたしはミルクの用意をするのです。

 あたしが急いで身支度をしてお台所へ行こうとすると、松岡さんは言いました。

「旦那様からお話があるそうだから、食堂に集まるんだよ」

 食堂に行くともうみんな集まっていました。執事の武田さんや料理長の上島さんの顔も見えます。あたしはみんなの後ろに並んで旦那様のお言葉を待ちました。

「みんな揃ったようですね。今から旦那様が大事なお話をされますから、静かに聞くように」

 武田さんが声を張り上げたので、ざわざわしていた人たちも一様に口をつぐみました。

「このたび我が片岡商会は真鍋商事と業務提携をすることとなりました」

 おおっと、どよめきが上がりました。

 旦那様のお話は続きます。

「昨年はイギリスの豪華客船による海難事故、明治天皇の崩御、大正天皇の即位と激動の年でございました。この時代を乗り切るためには新しい力が必要であることはみなさんもご存じの通りです。真鍋商事といえば新興の企業ではありますが、今や貿易業では知らぬものはない大会社です。我が片岡商会も国内でのお茶の販売では老舗と呼ばれていましたが、真鍋商事との協力により海外へも販路を求めることとなりました」

 難しいお話なので、よくはわかりませんが、あたしたち使用人にとっても何やら良いお話になりそうな気配がします。旦那様のお顔も晴々となさっていますから。

 なぜかというと、旦那様の経営手腕はずば抜けているというわけではなくて、老舗がかろうじて昔ながらのやり方で店を守っているという感じでしたから、成金、言葉は悪いですが真鍋商事さんの協力を得るならばまた昔の隆盛を取り戻すことができるかもしれませんので。

「それでは、みなさんに制服を配ります」

 え? あたしが考え事をしている間に何かあったようです。また、松岡さんに叱られそうです。ドジでノロマだって。

「ユキ、おまえも奥様に制服をもらってきな」

 大きな紙袋を抱えた松岡さんの顔はなぜか頬がとても紅潮しています。

 わけがわからないまま、あたしは列に並びました。使用人一人ひとりに奥様が武田さんから紙袋を受け取って渡してくださいます。

 何が入っているのでしょう。

 あたしの順番になると、旦那様が

「ユキ、昨夜はすまなかったね。遅くまで起きていたから朝寝坊をしたんじゃないのかい?」

 と、仰いました。

「いえ、はい、いえ」

 あたしは口ごもってしまいました。

 奥様がくすくす笑って仰います。

「松岡さんには私から言っておきますからね。旦那様はみんなにこれが渡したくて、昨日は遅くまで出かけていらっしゃったのよ」

「ユキにはとてもよく似合うと思うわ」

 奥様のお隣で、お嬢様の品子様も仰います。

 お優しい旦那様、お綺麗な奥様。お二人ともあたしに良くしてくださいますので、あたしはお世話をさせていただく時にはいつも心を込めてするようにしています。お二人とも、あたしは大好きなのです。

そして誰よりも好きなのは、お嬢様の品子様でした。お慕いしていると言っても嘘ではないでしょう。あたしには恋愛というものはよくわかりませんが、きっとこんな気持ちを言うのでしょうね。どきどきして、はらはらして、いつもつま先で立って歩いているような気持ち。

 旦那様のお優しいところと奥様の美貌を受け継がれた品子様。今は女学校に通われていて成績もご優秀だとか。

 さて、この紙袋の中身です。いったい何が入っているのでしょう。

 あたしは使用人にあてられている棟へ帰り、自分の部屋へ入りました。ここはもともと布団部屋でしたが、旦那様がユキも十五になったのだから自分の部屋が欲しいだろうと仰って改装してくださったのです。

 この片岡家の人たちがあたしを大事にしてくださるのには理由があります。

 あたしは雪の朝、片岡家の裏口へ捨てられていました。最初、片岡家の人たちも孤児院へでも連れて行こうかと考えたそうです。

 だって赤ん坊ですもの。世話なんて誰がするというのでしょう。あたしは行く場所が決まらないままその夜は片岡家で過ごすことになりました。たったひとりの赤ん坊のためにお屋敷中の人々が眠れない夜を過ごすことになったのです。夜更かしをしたら朝寝坊をしてしまいますよね? でも結果からいえば、その朝寝坊でみんな命拾いをしたのですから、世の中何が幸いするかわかりません。

 旦那様は商談に遅れたことで相手が正体がばれたと勘違いして詐欺に合わずにすみましたし、お嬢様と奥様は外出を取りやめたことで列車事故に合わずにすんだのですから。

 あたしのユキという名前は漢字で幸と書きます。松岡さんがつけてくれました。


「ま、松岡さん……」

 あたしは思わず目まいを覚えました。だって彼女はいかり肩で、腕っぷしだって相当なものなのです。松岡さんの顔が赤かったわけがわかりました。残念ながら彼女にはメイド服は無理だったようです。女中としての腕は並々ならぬものがあるのですが。

「着替えが終わったようですね」

 あたしたちはまた、食堂に集まっています。そうするように武田さんに言われたからです。

 制服に着替えて集まるようにと。

「本日から我が片岡家も新しい時代にふさわしく皆さんの待遇を一新することになりました。今日からは女中ではなくメイドと呼ぶようにしてください。いいですか?」

 執事の呼び名は変わりませんが、武田さんの洋服がやたらと素敵なものになっていました。リボンのようなネクタイがとても可愛いです。

 あたしも今日からメイドと呼ばれます。  女中でよいのですが、でもメイド服はなぜかあたしにとてもよく似あっています。

 休憩時間には見たこともない西洋のお菓子が出されました。ビスキュイというそうです。

 そしてお砂糖とミルクをたっぷりいれた紅茶は大好きになりました。

 昨年、明治天皇が崩御され元号は大正と変わりました。ようやくここ片岡家にもモダーンな風が吹いてきたようです。松岡さんは相変わらず厳しくて、あたしは怒られてばかりですけど、心うきうきと楽しい日々が続きそうな予感がします。


 午後から近くの市場へと松岡さんのおともで買い物です。実はあたしはこの外出を待っていたのです。

 市場の野菜売り場で働く清之介さんにこの姿を見せたかったからでした。

 清之介さんというのは、この春頃、どこからともなくやってきて市場で働くようになった人です。若くて笑顔が素敵な陽気な男の人で、野菜を買うといつもオマケをしてくれます。時間のあるときにはあたしに物語を話して聞かせてくれるし、ひらがなばかりで書かれた本をくれたこともあります。ひらがななら、あたしも読めるからです。

 清之介さんもあたしと同じでドジなようです。市場のおじさんたちにいつも怒鳴られては謝ってばかりいます。

 松岡さんが魚売り場の親父さんと話し込んでしまったので、あたしは清之介さんに会いにやってきました。

「ユキちゃん、見違えたよ」

「ほんとう?」

「すごくかわいいよ、良く似合ってる」

 うんうんと、清之介さんは手拭いで汗をぬぐいながら頷きます。

 あたしたちはいつものように並んで木箱に腰掛けました。こうやってお話をしたり、おやつを食べたりするのです。

 清之介さんのよく日焼けした肌に汗が光っています。野菜や果物の匂いに混じって汗の匂いがしました。

 その匂いを嗅いだ途端、あたしは物凄く心臓がどきどきしてきたのです。頭の芯が痺れたようになりました。初めてのことです。

 清之介さんの顔を見つめました。こんな顔をしていたのだと、もっとどきどきしてきました。

 清之介さんがとても素敵に見えたのです。

 いえ、本当に清之介さんは明るくて男前で市場のおばさんたちにとても人気があります。

 でも清之介さんと話していてこんな風に胸が締め付けられるような気持ちになったことはありませんでした。

 清之介さんが何か話すたびに喉仏がゴクリと動きます。すべすべした肌はよく日焼けしていて、健康そうに汗を弾いています。意外に長い睫毛が頬に影を落としています。あたしの頭を撫でる手は大きくてごつごつしています。背が高くて肩幅が広くて、あたしを難なく包み込んでしまいそうです。

 この服のせいなんでしょうか。この黒くてふわふわした柔らかい布のせいなんでしょうか。十分、足は隠れているのに、あたしはスカートの裾を引っ張ってしまいました。

 また、ふわりと初夏の風に乗って清冽な香りがしてきました。

 あたしは思わず立ち上がりました。

「ユキちゃん?」

「もう、行かなきゃ」

 それから後も見ずに走り出しました。

 そう。あれは男の香りです。自分ではどれだけ魅力があるのかわかっていない男の香りです。

 屈託のない笑顔を浮かべながら、あたしを抱きしめてしまう男の香りです。

 でも、そうしてもらいたいと思ったのも事実です。

 息をはずませているあたしを見て、松岡さんが変な顔をして言いました。

「スキを見せちゃいけないよ。男ってのはスキを逃さないからね」

「はい、松岡さん……」


「ユキちゃん、どうしたの?」

「あ、ごめんなさい」

「疲れちゃった? 最近はお客様が多くて大変でしょ? それにしても真鍋商事さんて凄いのね。お父様の会社も業績がウナギ登りだそうよ」

 あたしはお嬢様のお部屋で衣替えのお手伝いをしていました。

 お嬢様は小さくなったからと言ってはお洋服やら着物やらを箪笥から取り出しては、あたしの目の前にポンポン積み上げていきます。

「これもユキちゃんに」

 食べさせてもらって、働かせてもらって、良くしてもらって、あたしはこんなに幸せなことはありません。

「古着ばかりでごめんなさいね」

 あたしは首を横にブンブン振りました。

 お嬢様は疲れたような笑顔になると、はすっぱな声で言いました。

「来週のお茶会にはこれを着ていっしょに行ってちょうだい。お願い」

 え? とあたしはお嬢様を見つめ直しました。いつもと雰囲気が違ったからです。

「ユキちゃんに恩を売って、ご機嫌をとってお茶会をめちゃめちゃにするのに協力してもらおうって作戦なのよ」

「なぜですか?」

「お茶会というのは口実。実はお見合いなの」

 お見合いって。お嬢様はまだ学生なのに。

 花の十八でもう将来の相手を考えなくてはならないのでしょうか。

 お嬢様はあたしの目の前に座ると肩を落として言いました。

「私、いやよ、お見合いなんて……」

 そういえば昨日あたりからお嬢様の様子がおかしかったことに、今さらのようにあたしは気付きました。

「品子様……」

 でもお見合いをしたら、即結婚しなくてはならないのでしょうか。そんなことはないのではありませんか? あたしがそう聞き返すとお嬢様は目にいっぱい涙を溜めて仰いました。

「真鍋商事さんのご紹介なのよ。お父様が断れるわけがないわ」

「でも、品子様と旦那様の会社とは何の関係もないはずでございましょう?」

「ユキちゃんはとてもいい子ね。でもね世の中はそうはいかないのよ。お父様は昔気質の人間でしょう? 義理堅いのよ」

「でも、でも、お仕事の犠牲になるなんて、とっても、り、り、り……」

「理不尽」

「そうです、それです。好きな人といるのが本当なのでしょう?」

 清之介さんが話して聞かせてくれた物語のお姫様たちは、最後には好きな人と結ばれました。好きでもない人とご夫婦になるなんて。

 あたしがそう言うと、お嬢様がぱっと頬を赤らめました。もしや。

「もしかしたら、品子様、お好きな方が」

「ユキちゃん!」

 お嬢様は立ち上がると、鎧戸を下ろしてしまわれました。電燈の明かりだけになりました。夜遅いとはいえ、誰が聞いているかわかりません。

「私とユキちゃんの秘密よ。私が勝手にお慕いしているだけであの方は何とも思ってないと思うから。ただの教え子だと思っているのだから」

 あたしは真剣な顔で頷きました。お嬢様の仰るあの方とは、家庭教師の藤瀬先生のことに違いありません。帝都大学の学生さんでフランス語を週に一度、お嬢様に教えに来られている方です。もの静かで知的で、でも冷たい感じではなくて時折見せる笑顔がはっとするほど少年っぽい良い方です。お嬢様のフランス語の成績が驚異的な伸びを見せた一番の功労者でしょう。

 でも、藤瀬先生の方はいったいお嬢様をどう思っていらっしゃるのでしょうか。

 本当にお嬢様の仰るとおりなのでしょうか。


「お嬢様が恋?」

 清之介さんが大きな声を出したので、あたしは睨んでやりました。清之介さんは『ゴメン』と口の中で呟いて、頭をガリガリ掻いています。

 あたしたちは、いつものように木箱に並んで腰かけていました。どこかで蝉がうるさく鳴いています。

 清之介さんにどきどきした日から、ずっとあたしのどきどきは続いています。

 でも、こんな風に普通に話せるようになれたのは松岡さんの一言でした。

「清さんには決まった人がいるみたいだから、あんたみたいな子供には見向きもしないよ」

 松岡さんが言うにはもの凄く綺麗な人だと言うのです。そして絶対に年上だと。一度や二度ではなく、二人が一緒にいるのを見たそうです。

 それを聞いてあたしは、悲しい気持ちにもなりましたが、かえってよかったとも思ったのでした。きっと、あたしの好きな人はこれから現れるに違いないからです。

 だから今は清之介さんにどきどきしていようと思いました。そう決めてしまうと何だか度胸がすわったとでもいうのでしょうか、あたしは至極自然に清之介さんと話ができるようになったのです。お兄ちゃんに甘える妹の立場とでもいったらいいかもしれません。

 あたしは清之介さんに何でも相談するようになりました。清之介さんも真剣に相談に乗ってくれます。

「帝都大の藤瀬?」

「知ってるの?」

「凄く頭の良いやつでね、実家は山梨でぶどう園を経営している。でも確か」

「詳しいのね、清之介さん」

「いや、配達にね、行った先の家で聞いたもんだから」

 おーい、清さん、ちょっと来てくれと声がかかって清之介さんは行ってしまったのですが、あたしは言いかけてやめたその言葉の先がずっと気になっていました。

 それから数日たった日の夜のことです。その日は藤瀬先生がいらっしゃる日でした。

 授業が終わり、あたしは藤瀬先生を見送りに玄関ポーチまでついて行きました。

 藤瀬先生はその日に限って、何だか泣いたような笑顔を浮かべ「いつもありがとう」と仰ったのです。そしてお屋敷を後にされたのですが、あたしはとても嫌な予感がして、真っ直ぐにお嬢様のお部屋を訪ねました。

 お嬢様は明かりもつけず絨緞の上に座っておられます。

「品子様?」

 お嬢様がゆっくりと振り向かれました。

 お嬢様の後ろにある大きな窓から綺麗な月が見えます。

 お嬢様は

「ユキちゃん、いい話と悪い話があるけど、どっちから聞きたい?」

 と、仰いました。月明かりに照らされた、そのあまりの凄味さえ漂う美しさにあたしは圧倒され言葉が出てきません。

 ようやっと声が出ました。

「それは誰にとっていい話なんでしょうか」

 あたしがそう言うと、お嬢様はわっと泣きふされたのです。あたしは駆け寄ってお嬢様を抱き起こしました。

 お見合いは先方から断ってきたこと、藤瀬先生のご実家が破産されたので藤瀬先生は大学をやめるのだということ、藤瀬先生について行きたいとお嬢様が仰ると、先生は、僕は君のことはただの生徒だと思っていたと言われたのだということ、切れ切れにお嬢様は仰ってあたしに抱きついてくるのです。

 とにかく泣きじゃくってばかりいるので、あたしは軽い睡眠薬を一錠飲ませ、お嬢様を休ませたのでした。


 それからのお嬢様は糸の切れた凧のようです。まるでかぐや姫みたいに夜になるとひとりで泣いているようでした。

「とにかく見ていられないの、清之介さん。あたしに何かできることはないかしら」

 今日も、あたしは清之介さんと木箱に並んで腰かけていました。

「それにしても藤瀬先生って本当にお嬢様のこと何とも思ってなかったのかしら」

 清之介さんが驚いたような顔をします。

「いやあ、びっくりしたなあ。ユキちゃん、まるで大人の女の人みたいなこと言うから」

「あたしは大人ですっ。清之介さんが知らないだけなんだから」

「へええええええ」

 綺麗な歯並び見せちゃって、ほんと無防備な人です、清之介さんって。

 あたしが黙ったので悪いと思ったのでしょう、ゴメンと口の中で言ってから、今度はまじめな顔で静かに言いました。

「きっと、その藤瀬、さんて人、品子さんのこと好きだと思う。でもついてきて欲しいなんて、おいそれとは言えないんだ、男って」

「どうして?」

「自分の身の振り方も決まってない、生活もどうなるかわからない、そんな状態でついてきて欲しいなんて口が裂けても言えないよ。僕だって」

「でも、あたしなら、苦労も楽しいと思うけど。だって好きな人と一緒なんだもん」

 あたしがそう言うと、清之介さんはまた綺麗な歯並びを見せて、へええええええと言い、それからまたゴメンと言いました。懲りない人です、清之介さんって。

「そうだね、そうかもしれない。ユキちゃんの言う通りかもしれない。でも、まあ、男の見栄なんだろうな」

 そんなもののために、お嬢様は藤瀬先生をあきらめなければいけないのでしょうか。

「男の人ってわからない。好きな人より大事なものがあるのね」

「いや、それは違うよ。順番なんかないんだ。少なくとも僕にとっては、やりたいことと好きな人は同列なんだ。どちらも同じくらい大切だと思ってる。もっとも今はやりたいことがわからなくて模索しているけどね」

 清之介さんの言うことはよくわかりませんが、間違っているとも思いませんでした。

 ただ、そのよくわからない部分が男と女のずっと相容れない部分であるのでしょう。

 そこが知りたくて近づきたいと思い、ケンカをしたり抱きしめたいと思ったりするのでしょう。

 何だかややこしそうです、恋愛って。

 あたしもどきどきするだけでなく、お嬢様みたいに泣いたり絶望したりするようになるのでしょうか。

「藤瀬先生、ひとりで平気なのかな」

「そうだな……」

 気の早い赤とんぼがスイッとあたしたちの目の前を横切っていきました。


 藤瀬先生が退学し、下宿も引き払い、当然家庭教師もやめることになり、片岡家へ挨拶に来られたのはその一週間後のことでした。

 藤瀬先生はおじさんが中国で商売をしているのでそこへ行き、一から出直しだと仰いました。そう話すお顔は、一週間前の頼りなげな少年の笑顔は影を潜め、答えを出した大人の自信に充ち溢れていました。

 旦那様と奥様にご挨拶をされ、最後にお嬢様のお部屋へ入ってこられました。

 あたしは邪魔になるから下がろうとしましたが、お嬢様が目線で禁じられます。あたしは仕方なく、部屋の隅っこで小さくなっておりました。

 藤瀬先生は辞書とノウトブックを差し出され

「僕の使い古しで申し訳ないけれど、フランス語は続けてください。もうすぐ定期試験ですから、出題されそうなところをノウトに書いておきました。頑張ってください。お世話になりました」

 お嬢様は窓の外を見ています。目を合わそうとされません。

 藤瀬先生が肩を落とされ、優しく仰いました。

「ここへ来るのはとても、楽しかった」

 そして、あたしに頭を下げると部屋を出ていかれました。

 あたしはどうすればいいのでしょうか。

 藤瀬先生は答えを出されました。

 お嬢様は。

「ユキちゃん、紅茶を持ってきてくださいな。勉強しなくちゃ」

 それがお嬢様の答えなんですか!

 台所へと向かう足が震えます。自分のことではないのに、胸が苦しい。

 人を好きになるのは良いことなのに、なぜみんな泣いたり怒ったり、苦しい気持ちになったりするのでしょう。

 あたしが紅茶を持ってくると、お嬢様は仰いました。

「ユキちゃん、私は勉強をしているの」

「はい」

「ユキちゃんが紅茶を持ってきたときには私は勉強をしていて、絶対邪魔をしないで欲しいと言われたの。いい?」

「はい?」

 そう仰りながら手は旅行鞄を開き、着替えを次々と手当たり次第に詰めていっているのです。まさか。

「あの、お嬢様?」

「私は勉強中よ、邪魔しないで頂戴」

 そして、先ほど藤瀬先生が持って来られたノウトブックをそっと差し出されたのです。

 漢字はほとんど読めませんが、フランス語ではないことと、幸せという漢字があることは理解できました。

「藤瀬先生って、今まで絶対に試験対策なんてしてくださらなかったの。試験のために何かするのは自分に対する冒涜だと仰って。それなのに今日に限って。変だと思った……」

 あたしはやっとわかってきました。お嬢様は駆け落ちなさろうとしているのです。にわかに体が熱くなってきました。

 最後にノウトブックを鞄に入れ、パチンと掛金が閉まりました。

 お嬢様の顔は生き生きとして輝いています。これから何もかも捨てて、藤瀬先生の腕の中へ飛び込もうとされているのです。

 笑顔はとても美しくて、あたしはじっと見つめることしかできませんでした。

「ユキちゃん、私、行くわ」

 あたしは力強く頷きました。

 裏口からお嬢様をお送りする時、初めて涙が出ました。本当なら、真っ白い花嫁衣裳を着て明るい陽光を浴びながら、皆に挨拶をされていかれるのでしょう。

 だのに、お見送りはメイドだけ、それも夜に。泣きだしてしまったあたしに、お嬢様はまるで母親のようにおっしゃいます。

「私、お嫁に行くのよ。笑って見送って頂戴」

「う、う、うう……」

 涙が溢れて言葉になりません。

「じゃあね、ユキちゃん。元気でね。落ち着いたら手紙を書くわ」

 お嬢様の背中をあたしはいつまでも見送っていました。

 もし、お嬢様が藤瀬先生の言葉に疑問を持たなかったら、あのノウトブックを見なかったら、藤瀬先生はひとりで船に乗って中国へ渡ったのでしょう。

 お嬢様が駅に現れたら、どんな言葉で迎えてくださるのでしょうか。その時の藤瀬先生のお顔を想像して、やっとあたしは笑顔になれたのでした。


 もうすっかり秋です。メイド服も長袖に替わりました。あたしと清之介さんは相変わらず木箱に腰掛けて、お喋りをしています。

 清之介さんは飽きもせず親方にどなられていますが、来た時とは変わってとても逞しくなったように思えます。

 これは単に、打たれ強くなった、だけなのかもしれませんけれど。

「品子様、どうしていらっしゃるかしら。お手紙が全然来ない」

「便りがないのは良い便りというだろう?」

 あたしは手紙が来た時一人で読めるように、

清之介さんに特訓をしてもらっています。

 お嬢様がいなくなって旦那様と奥様は半狂乱のようになられて随分と心配いたしましたが、今では落ち着かれています。

 何でも真鍋商事の支社が上海にあるとかで、その伝手で情報を得られているようなのです。

 そうそう。真鍋商事といえば、市場の隣の空き地に豪勢な洋館を建てています。

 聞くところによると、留学をしていたご子息が帰国することになり住居とされるそうなのです。

 今もあたしと清之介さんが腰掛けているほんの目と鼻の先で工事が行われているのですが。

「大きなお家ねえ」

「ユキちゃんはどんな家に住みたい? こんな家がいいのかい?」

「そうねえ。暖炉があって、大きな窓があって、背の高い時計や天蓋つきのベッドや」

 あたしは黙ってしまいました。

 あたしは十五年、片岡様の家で暮らしてきましたから、ほかの家の様子などよく知らないのです。どんな家に住みたいかと聞かれても片岡様の家しか頭に浮かんではきませんでした。

 住み慣れた家を出ていくなど考えも及びませんでした。とても恐ろしいことです。

 突然、お嬢様のことが思い出されました。

―じゃあね―

 まるで近所に出かけるように気軽な感じでした。不安はなかったのでしょうか。恐れることはなかったのでしょうか。

 今住んでいるところから誰かのところへ行くなど、怖くてあたしにはとても出来そうにありません。

 どうも恋というものはとてもやっかいなもののようです。男にとっても女にとっても。

 あたしは清之介さんを見つめると小さな声で言いました。

「あたしを好きでいて、あたしが好きな人が待つ家に住みたい」

 あたしがそう言うと、清之介さんは柔らかく微笑んで言いました。

「もし僕がユキちゃんを好きで、ユキちゃんが僕を好きだとするだろ? 僕と一緒ならユキちゃんはどんな家でも住めるかい?」

「え?」

 清之介さんの瞳はきらきら光っています。

「たとえば下町の長屋だとか、お豆腐屋さんの二階だとか。そんなところでも住めるかい?」

 清之介さんの様子が何だか変なことにあたしは気がつきました。瞳が光っているのは、涙のようでした。あたしは気がつかないふりをして真剣に答えます。

「狭くて暗くてお化けが出そうなところ?」

「うん。酔っ払いや意地悪な大家がいてユキちゃんに嫌なことを言うかもしれない。片岡さんのところでは会ったこともないような嫌な連中がたくさんいるんだ」

「あたし仲良くできるようにがんばるわ」

 清之介さんの目からすうっと涙が音もなく流れてきました。

 ああ、とあたしは思いました。

 清之介さんは何かにお別れを言っているんです。

 今、話していることは清之介さんの夢なのです。決してかなうことのない夢なのです。

「僕は電車の運転手とかしてさ、稼ぐんだ。まじめにコツコツ働いて、お給料日にはユキちゃんに給料袋を渡す」

 清之介さんの頬を涙が伝います。あたしも必死に答えます。

「お給料日には清之介さんの好物を作るから、早く帰ってきてね。それに、あたしも何か仕事をさがさなくちゃね」

「僕は家にいて欲しいよ」

「メイドさんみたいに?」

「違うよ。ユキちゃんはメイドさんじゃない。僕の……」


 それから少しして清之介さんは市場の仕事をやめてしまいました。例の綺麗な年上の女性が迎えに来たそうです。松岡さんが教えてくれました。私は別に動揺はしませんでした。

 お別れはちゃんと済んでいたからです。

 やりたいことがある、けれどそれがわからなくて模索中だと言っていましたからやりたいことを見つけたのか、もしくはそれを見つけるためにいなくなったのでしょう。

 私は毎日、市場へ寄るたびに洋館が出来上がっていくのを見ていました。

 なぜこんなに魅かれるのでしょう。きっと清之介さんと見ていたからに違いありません。

 たくさん働いてお金をためて、こんなお家を建てて、好きな人と暮らす。

 子供みたいな夢を清之介さんは、たくさん語ってくれました。

 すっかり秋が深まって洋館の周りには誰が植えたのか、秋桜が咲くようになっていました。人待ち顔で揺れる様子はせつなくて胸がいっぱいになってきます。

 まるで涙の海の中に建っているようです。

 そうそう。品子様からお手紙が届きました。

 藤瀬先生と仲睦まじくお暮らしのようで、私は食堂でみんなにその手紙を読んであげました。松岡さんが泣きだして、その松岡さんをコックの上島さんが慰めて、と大変な騒ぎです。みんなも心配していたのでした。

 それからもお嬢様の手紙が届くたびに、私はみんなに読んであげます。時には返事を書いてあげたりもします。

 清之介さんがいなくなって、私は随分と変わったと自分で思います。清之介さんに字を教えてもらったことで本を読むようになり、少し物事を考えるようになりました。

 空に貼りついているだけのようなお月さまにも裏側があることを知りましたから。

 つまり、ほんのちょっぴり大人になったということです。


 一年がたち、また秋が来て、洋館は完成したようでした。昨日、お披露目のパーティーがあり旦那様と奥様がお出かけになられたからです。

 留学から戻ったというご子息に館の中を案内していただいたそうです。

 ご子息のお名前は久志様と仰います。奥様が何度も何度もお名前をお出しになりお褒めになるので、私もすっかり覚えてしまいました。帝都大の四年生で来春ご卒業され、真鍋商事へ入社されるとか。その年の内にご結婚もお決まりとのこと。なあに、すぐ上海支社へでも飛ばして鍛えてやりますよとお父様が仰り、皆で大笑いになったと。

 藤瀬先生とは学部こそ違いますがご学友であったと聞き、世間の狭さを痛感いたしました。

 でも一番驚いたのは、久志様が私のことを旦那様にしつこくお尋ねになったということでした。

 旦那様も不思議に思われたのでしょう。

 私に、真鍋様と何かあるのかとお聞きになりました。

 私も久志様のお名前が出てからずっと疑問に思っていたことを旦那様に申し上げました。

「真鍋様のところに清之介さんと仰る方がいらっしゃいますか?」

「清之介、といえば真鍋商事の創業者じゃないか。もうお亡くなりになっている」

 これで全て辻褄が合いました。

 清之介さん、いえ久志様はおじい様の名前を騙って市場で働いていたのでしょう。若者らしい悩みの解決方法を、違う生活をすることで模索していたのでしょう。

 最初は金持ちの気まぐれ、言い過ぎなら好奇心とでも言い替えましょうか、そんな軽い気持ちであったのかもしれません。

 久志様は、もしかしたらほんの短い間のつもりでここへやってきたのではないかと、私は考えます。

 けれど夏を過ぎて秋まで居てしまった。

 あんまり居心地がよくて。

 その原因に私の名前があるのなら、私は至極満足なのです。

 あんまりここに長く居過ぎて、きっと、とても慌てたことでしょうね。ゴメンとか言っていたかもしれません。

 婚約者はいつになったらこんな生活をやめるのだとしょっちゅう訪ねてくる。

 お家の方からは世間体が悪いから『留学』していることにした、早く戻りなさい。

 矢のような催促。

 あの呑気な人だってさすがにとても慌てたに違いありません。

 帰りたくなくて。

 なぜ帰らないといけないのかとも思ったことでしょう。

 だってここには『私』がいるのですから。

 けれど、久志様のご判断は正しかったと私は思います。もし、家を捨て、会社を捨て、私と生きることを選んだとしたら、何百人という社員とその家族が路頭に迷うことになったかもしれないのですから。

 いつの日か新しい、もっと新しい時代が来て、私のような者が久志様の奥様になれる日が来るやもしれません。

 自由に恋愛ができて、自由に暮らせる、そんな日がもし来るのなら、私は秋桜の咲くお家で久志様、いえ、清之介さんを待ちたいと思います。

 



 もし僕がユキちゃんを好きで、ユキちゃんが僕を好きだとするだろ? 僕と一緒ならユキちゃんはどんな家でも住めるかい?

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