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半世紀の契約  作者: 篠原 皐月


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第45話 初めての言葉

 披露宴を控えた新郎控え室は、新婦控え室の様に親族ではなく秀明の後輩達が押し掛け、男だけで盛り上がっていた。


「しかし白鳥先輩も、とうとう年貢の納め時ですか」

「意外に早かったですね」

「正直な所、俺は先輩が結婚できるとは、全く思っていなかったが?」

「お前達……。祝いの言葉はどうした?」

 好き勝手な事を言い合う後輩達に、紋付き袴姿の秀明は苦笑しながら皮肉を口にしたが、後輩の一人である松原啓介が真面目くさって言い返す。


「申し訳ありませんが、花嫁に対するお悔やみの言葉しか思い浮かびません」

「相変わらず失礼な奴だ」

 そうは言うものの全く気分を害していない秀明に、啓介と同期の後輩である菅田翔が真顔で問いかける。


「ところで、花嫁はどんな方なんです? この前襲撃した時にちらっと顔だけは見ましたが、小早川先輩の話では『一見平凡だが、あの秀明を尻に敷ける女傑』だそうですが」

「淳の奴。美子の耳に入ったら、出入り禁止だぞ?」

「それで? 本当の所は?」

「そうだな……」

 興味津々で尋ねてくる翔に苦笑いした秀明は、少し考え込んでから真顔で述べた。


「一見平凡なのは事実だが、初対面の時に俺を蹴り倒して踏みつけて、その後平手打ちして、殴りかかって、つい最近は『下手だったら肋骨をへし折って殺す』と脅した女だ。それと、俺が尻に敷かれても良いと思った唯一の女だな」

 全くの嘘では無いものの、誤解を招きかねない誇張した説明に、後輩達は揃って顔を引き攣らせた。


「全然、平凡じゃありませんね」

「どんな猛者ですか?」

「先輩は結婚相手を、腕っ節の強さで選んだんですね」

「それは違うからな」

「そういえば、披露宴には武道愛好会のメンバーを全員呼んだんですか?」

 思い出した様に質問を変えて来た篠田光に、秀明は苦笑いで答えた。


「いや、俺が在学中に所属していた奴までだ。招待状を出した全員から、出席の返事が来ているが」

「そりゃあ、何をおいても来ますって!」

「そうなると三学年下……、芳文と隆也までの十人ですか」

「でも先輩、親戚とかは」

「おい!」

 何気なく光が口にした一言に、忽ち控え室内の空気が緊張した物になる。


「……俺が、呼ぶと思うのか?」

「失言でした。申し訳ありません」

 冷え切った声で凄んだ秀明だったが、光がすぐに頭を下げた為、怒気を消し去って話を続けた。

「幸い美子も義父も、その事については何もこだわってはいないしな」

「それなら良かったです」

 学生時代から秀明と白鳥家との軋轢を知っていた後輩達が気まずげに口を噤んでいると、ここでノックの音に続いて、秀明が耳を疑う声が聞こえてきた。


「失礼します。新郎のお兄様と、奥様をお連れ致しました」

「何?」

「どうぞ。お入り下さい」

 驚愕して振り返った秀明の視線の先でドアが開かれ、如何にも勿体ぶった態度で姿を現した次兄夫婦に秀明は冷え切った視線を送り、後輩達は無言で目配せしながら移動して、いざという時は秀明を取り押さえられる態勢になった。


「こんな所に何しに来やがった。呼んだ覚えは無いぞ」

 開口一番冷え切った声を出した秀明だったが、龍佑はそれにたじろぐどころか、鼻で笑いながら言い返した。


「ご挨拶だな、秀明。常識と礼儀知らずのお前の尻拭いをする為に、わざわざ出向いてやったものを」

「秀明さんと違って美子さんはさすがに育ちが良くて、世間体と言うのを良く理解していらっしゃるわね」

「全くだ。彼女に感謝しろ。お前が恥をかかない様に、俺達の席をわざわざ準備してくれたんだからな」

「何だと? そんなわけあるか! 目障りだ。二人ともとっとと失せろ!!」

 秀明にしてみれば世迷言以外の何物でも無い事を口にした相手を、盛大に怒鳴りつけた。しかし二人は不愉快そうに顔を顰めただけで、堂々と言い返す。


「相変わらず不作法な奴」

「秀明さんは藤宮家にお入りになるんですから、そんな粗暴な態度だと、白鳥家だけではなく藤宮家の恥になりますよ?」

「このっ……」

 完全に怒りが振り切れたらしい秀明が一歩足を踏み出した所で、横から素早く翔が彼の左腕を捉えつつ、耳元で囁いた。


「先輩。これから披露宴って新郎が荒事は拙いです」

「着崩れる以前に、外聞が悪過ぎます」

「ここは俺達が摘み出しますから」

 秀明の右斜め前に身体を滑り込ませた啓介も、前方を見据えたまま囁いたが、秀明は憤然としたまま小声で言い返した。


「お前達の手は借りん。一度、徹底的にぶちのめそうと思ってたんだ。良い機会だ」

「そうは言っても。先輩は藤宮家と養子縁組したんですよね? 人気の無い所ならいざ知らず、こんな公の場所で騒ぎを起こして本当に良いんですか?」

「……っ」

 後方から光に「下手をしたら藤宮家の名前に傷が付きますよ?」と言外に注意された秀明は小さく歯軋りしたが、ここでドアの外から明るい少女達の声が聞こえてきた。


「失礼します。秀明義兄さんはいらっしゃいますか?」

「居るに決まってるじゃない。ここ、お義兄さんの控え室だもの」

「だって外に出ている可能性だってあるわよ?」

 その声の主を容易に察知できた秀明は、こんな不愉快な場面に義妹達を居合わせてたまるかと、慌てて声を張り上げた。


「美野ちゃん、美幸ちゃん!? 悪い! 今取り込んでいるから、話は後にしてくれ!」

「あ、やっぱり居た!」

「良かった。じゃあ、行くわよ? せーのっ!」

 しかし秀明の声を聞いて二人は嬉しそうな声を上げ、室内の人間がそれを聞いた次の瞬間、勢い良くドアが外から押し開けられた。それと同時に制服姿の美野と美幸が、嬉しそうに声を張り上げながら突入して来る。


「秀明義兄さん!」

「結婚おめでとーっ!」

 しかし室内の人間にとって予想外だった事に、二人の手にはコーラのロングサイズ缶が握られ、しかも相当振った後の代物を入室と同時に引き開けたのか、盛大に薄茶色の泡と飛沫を前方に噴き出しながらの登場であった。


「なっ、何だ!? うわあっ!」

「え? ちょっと、何、きゃあぁっ!!」

 必然的に大声に反射的にドアを振り返り、秀明達とドアの間に立っていた龍佑と茜が、顔と上半身にそれを浴びる事になり、悲鳴と怒声を上げる。そして美野と美幸も、驚愕と動揺の声を上げた。


「えぇぇっ!! どうしてお義兄さんじゃ無い人が居るのっ!?」

「やぁぁん!! 美野姉さん、止まらないよっ! 蓋! 蓋は無い!?」

「馬鹿な事言わないで! コーラ缶に蓋があるわけないじゃない!!」

「うわぁぁ~ん! どうしよう~!」

 声だけ聞けば狼狽している姉妹だったが、明らかに龍佑と茜の顔を狙って缶をかざし続けており、顔を庇っている二人には分からないまでも、傍観者である秀明達にすれば、どう考えてもわざとなのは明白だった。


「……先輩?」

「義理の妹達だ」

「それは分かりますが、何事ですか?」

「俺に聞くな」

 秀明も予想外の事態が立て続けに生じて困惑する中、泡の勢いが無くなって何とか周りを見る事ができる様になった龍佑と茜が、目の前にいた美野と美幸を叱りつけた。


「お前達、いきなり何をする!」

「失礼にも程があるわ!」

 しかしそこで美野達が何か言う前に、美恵と美実が何やら白い物を抱えて控え室に飛び込んで来る。


「すみません、お義兄さん。美野と美幸がこっちに……、あんた達、何やってるの!」

「きゃあっ! 何て事! 妹達が失礼しました。取り敢えずこれを使って、お顔だけでも拭いて下さい」

 二人は室内の様子を目にするなり悲鳴に近い声を上げ、妹二人を叱りつけながら入室した。そして美恵が二人に持っていたタオルを渡して顔を拭くように勧めると、怒りを露わにしながらも、二人は取り敢えず受け取って顔を拭き始める。


「……分かった。使わせて貰う」

「全く! どういう事なの!?」

 腹立たしげにタオルを受け取り、二人がそれを両手で持って顔を拭き始めた瞬間、美野と美幸は素早くポケットから何かを取り出し、勢い良くその中身を両眼に滴下した。どうやらそれは予め蓋を外した目薬の容器だったらしく、すぐに顔を上げた二人に気付かれ無いうちに、再びそれをポケットにしまい込む。

 その光景を目撃した秀明達が唖然とする中、美恵が妹二人を叱り飛ばし始めた。


「美野! 美幸! あんた達が変な物を持ってお義兄さんの控え室に行ったって聞いたから、気になって様子を見に来てみれば、何をやってるの!?」

 すると目薬の効果は抜群だったらしく、美野達は傍目には号泣しながら謝罪し始めた。


「ごめんなさいぃ~! わ、私達だけで、お義兄さんにお祝いしたくてぇぇ~!」

「よっ、美幸がっ! ちょっとしたサプライズを、なんて言うからぁぁっ!!」

「なっ、なによぉっ! 美野姉さんだってノリノリでっ! シャンパンの栓を抜いて驚かせちゃいましょうって、言ったじゃないっ!」

「だけど、それは酒屋のおじさんにっ、『未成年者にはお酒は売れない』って言われた時、素直に諦めれば良かったじゃない!」

「だっておじさんが『要は泡が出れば良いんだろ? それならこれを使えば良いさ』って、コーラのロング缶、売ってくれたんだもんっ!」

 泣き喚きながら弁解にもならない内容を口走る二人を呆然と眺めつつ、秀明がぼそりと呟く。


「シャンパンの代わりにコーラ……。商魂逞しい酒屋だな」

「先輩。突っ込む所と方向性が違います」

「すげぇ……。この子達、先輩の思考回路を機能不全に陥らせてるぞ」

 唖然としながら秀明達は事の成り行きを見守っていたが、美恵はそんな気分では無かったらしく、更に声を張り上げた。


「いい加減にしなさい! お義兄さんをコーラ塗れにしてどうするつもりだったの!? お義兄さんは、これから披露宴なのよ?」

「おっ、お義兄さんの衣装は」

「こっそりホテルに頼んで、同じ物をもう一着準備していて」

「そういう問題じゃありません! こちらの方達をびしょ濡れにして、どうするつもり!?」

「すっ、すみませぇぇ~ん!」

「ごめんなさいぃぃ~っ!!」

 一際高い声で泣き始めた美野と美幸だったが、この間美実に頭を拭いて貰いながら二人の話を聞いていた龍佑達は、揃って怒鳴りつけた。


「謝って済むかっ!!」

「そうよ! 冗談じゃないわ!! 子供の悪戯にしても、質が悪いわよっ!」

 するとここで美恵が憤然としている龍佑達に向き直り、深々と頭を下げて詫びを入れた。


「誠に申し訳ありません。新婦の妹の藤宮美恵と申します。秀明義兄さんのお兄様夫妻でいらっしゃいますね?」

「あ、ああ。そうだが」

「実は姉が義兄を驚かせようと、お二人の来訪を家族では私にだけ知らせておりまして。妹達はこちらにお二人がいらっしゃるとは知らなかったものですから。本当に子供の悪戯の延長としても、悪質過ぎます。姉に代わってお詫びいたします。美野! 美幸!」

「すみませんでした」

「ごめんなさい」

 新婦の妹達だとは見当を付けていたものの、改めてきちんと名乗られ、丁重に頭を下げられた事で、龍佑達は何とか怒りを飲み込んだ。加えて制服姿で明らかに未成年だと分かる相手に、いつまでも高圧的に出るのも如何なものかとの判断も働き、夫婦で顔を見合わせながら控え目に文句を口にするだけに留める。


「まあ……、悪気は無かったみたいですし」

「せっかくの祝宴ですし、声高に文句を言うのは控えますが……」

「姉と父は動けませんが、必ず後でお二人の所にお詫びに伺います。取り敢えず地下一階の美容室に併設されている貸衣装室で、服装を整えられては如何でしょう? それに髪を洗って乾かさないと、後から酷いと思いますが」

 心配そうに申し出た美恵に衣装は勿論の事、一応美実に頭を拭いて貰ったものの、確かに頭を放置出来ない事に気付いた二人は、後から詫びに行くとの言質を美恵から取った事で、何とか機嫌を直して頷いてみせた。


「確かにそうですね。このままでは、お父上にご挨拶もできない」

「全くだわ。この色留袖、気に入ってるのに」

「クリーニング等を含めて、かかった費用は後程請求して下さい。……申し訳ありませんが、お二方を美容室まで案内して頂けますか?」

 そして美恵が振り向きながら声をかけると、ドアの陰から阿南が姿を現し、恭しく龍佑達に頭を下げる。


「畏まりました。それではご案内致します」

「それでは後程」

「改めてご挨拶に参りますわ」

 そして頭に掛けていたタオルを美実が取ると、龍佑達は怒りを内包したまま、しかし表面上は何とか礼儀を保って阿南の先導で控え室を去って行った。

 しかし秀明はタイミング良く阿南が現れた事に加え、美実がタオルを取った龍佑達の後頭部に、『恥知らず』と『愚か者』とそれぞれ墨で書かれた短冊状の白い布が張り付いていた事で、最初から最後まで美恵達が仕組んだ事だと明確に分かった。


「よっし! 任務完了!」

「あそこまで上手くいくとは、思わなかったわね~」

「お騒がせしました。あの不愉快な人達は、もう戻って来ませんので」

 秀明の推測を裏付ける様に、龍佑達の姿が見えなくなった途端、ドアを閉めた美幸が先程までの泣き顔とは打って変わって笑顔で拳を握り、美実と美恵が苦笑しながら秀明達の方に向き直る。それに些か呆然としながら秀明が問いかけた。


「美実ちゃん。あの短冊状の布は……」

 それに美実は、人の悪い笑顔で応える。

「瞬間接着剤で髪にべったり塗り付けたから、下手したら頭皮にまで付いちゃったかも。そうしたら髪を切るだけじゃなくて、溶解剤も必要ね。大変そう~」

「あれを取るには、嫌でも髪を根元からザクザク切らなきゃいけないし」

「そんなみっともない頭で披露宴に出られるなら出てみなさいよ!」

 カラカラと美幸が笑う横で、美野がボソッと説明を加えた。


「あの布……、美子姉さんが書いたんです。相変わらず達筆で、怖かった……」

「美野ちゃん? 何があった?」

 どことなく顔色が悪い美野に、秀明はもとより美恵達も何事かと顔を向けると、美野は真顔で話し出した。


「偶々部屋を覗いたら、美子姉さんがあの布を睨み付けながらひたすら硯で墨をすっている所に遭遇して。『何をしてるの?』って聞いたら、『禿げろって念じてるの』って……」

「…………」

 そこで室内は静まり返り、男達は揃って無意識に自分の頭に手を伸ばしたが、美野は沈鬱な面持ちで話を続けた。


「三十分位してまた見に行ったら、漸く筆に墨を含ませた美子姉さんがすらすらと一気に書き上げて、『どう? 会心の出来だわ!』って、もの凄く良い笑顔で両手で持って見せてくれて……」

 それを聞いた彼女の姉妹達は、真顔で言い合った。


「確実に禿げるわね」

「元々禿げる運命だったとしても、十年は早まったわね」

「やっぱり美子姉さんだけは、本気で怒らせないようにしよう」

「…………」

 力強く言い切った彼女達に男達は僅かに恐怖を覚えたが、すぐに秀明は気を取り直して懸念を口にした。


「だがあんな事をしたら、訴えられる可能性も」

「どうして訴えられるんです? 私達、何もしていませんよ?」

「え?」

 秀明の台詞を遮ってニヤリと悪役らしく笑ってみせた美恵に、妹達が続く。


「この控え室に招待客以外の人なんか入っていないし、私達、見てないわよね?」

「そう言えばさっきホテルの監視カメラが、このフロアだけ故障しているってスタッフの方が仰ってました。臨時調整中だとか」

「お義兄さん、ごめんなさ~い。シャンパンを抜いてお祝いしたかったんだけど、酒屋のおじさんに『未成年者には売れないよ』って、断られちゃったんです~」

 如何にも白々しい物言いに、秀明は思わず笑ってしまった。


「そうか。俺も招待客以外の人間は見ていない。お前達は何か見たか?」

 後輩達に目を向けると、漸くいつもの調子を取り戻した彼らも、口々に笑顔で述べる。

「ここに来てから懐かしい先輩の顔と、可愛らしい義妹さん達のお顔しか、見ていませんね」

「何か騒ぎがありましたか?」

「俺達の馬鹿笑いの声じゃないのか?」

 そんな風にあっさり意思統一されたのを見て、美恵が妹達に声をかけた。


「皆、撤収するわよ。大叔父さん達にご挨拶しないと」

「あんた達、制服を汚してないでしょうね?」

「大丈夫。泡の垂れる方向には注意したから」

「お騒がせしました~!」

 最後に美幸が笑顔で手を振って四人が引き上げると、どうやら阿南に続いて入室していた清掃担当のスタッフ二人が、美野達から空き缶を回収した後は黙々と仕事をしていたらしく、床のコーラの痕跡を綺麗に消し去り、それが済むと同時に頭を下げて出て行った。

 そして十分程前と同じ状況に戻った室内で、男達が呆然と呟く。


「何だったんでしょうか?」

「嵐みたいでしたね」

「近年稀にみる、凄い間抜けな物を見てしまいました」

 しみじみと後輩達が口にするのを聞いてから、とうとう我慢できなくなった秀明は、腹を抱えて笑い出した。


「……はっ、あははははっ! 愉快過ぎる! 何なんだ、あれはっ!」

 それに誘発されて周りも爆笑したが、そこにノックの音と共に、ドアの向こうから淳が顔を見せる。


「よう。何だ? 凄い盛り上がってるな?」

「小早川先輩!」

「何であと五分、早く来なかったんですか!?」

「めちゃくちゃ笑える物が見れたんですよ?」

「何の事だ?」

 そして相変わらず腹を抱えて笑っている秀明を放置し、後輩達が嬉々として報告してきた内容を聞いて、淳は思わず天を仰いだ。


 人知れずそんな騒ぎが勃発してから三十分程して、新婦控え室のドアが静かにノックされた。


「失礼します。新郎様をお連れしました」

「どうぞ」

 美子が落ち着き払ってドアの向こうに声をかけると、スタッフに続いて秀明が姿を見せる。そして彼が近くの椅子を引き寄せて美子の前に座ると、新郎新婦双方に付いていたスタッフは、「それでは披露宴開始時間まで、少々お待ち下さい」と頭を下げて出て行った。


「俺に黙って、何をこそこそとやってるんだ?」

 控え室に二人きりになった直後、秀明が渋面になって非難したが、美子はおかしそうに笑って応じる。

「黙っていたのはお互い様だけど、この前、秘密にしている事が五つあるって言ったわよ?」

「これがその一つか……。だが、美容室のスタッフから話が漏れて、藤宮家に変な噂が立ちかねないが」

 そんな懸念を口にした秀明だったが、美子は事も無げに答えた。


「どこで誰に何をされたと言うの? 言いがかりも甚だしいわ」

「美子?」

「金田さんに頼んで、桜査警公社の人間をホテルスタッフに紛れ込ませて、フロントロビーから秀明さんの控え室、そこから美容室への移動を、極力人目に触れない様にして貰ったもの」

「阿南の事か?」

「名前までは知らないけど、美容室のスタッフにも姿を見られる事無く、その手前で別れたと思うわ。第一、元々のホテルスタッフでは無い人間だし、ここの従業員リストを探しても出てこないから、証人になりようがないもの」

 美子がそう述べると、秀明も少し考え込んで結論を述べた。


「そうなると……。さっき美野ちゃんが言ってたが、監視カメラが都合よく機能してないらしいし、頭に変な物をどこかで付けた変な夫婦が、どこからともなく現れたと言うだけの話だな」

「そういう事。美野と美幸に殊勝に頭を下げさせてひたすらこちらが下手に出たから、子供相手にあまり高圧的に出て心証を害するより、相手に借りを作っておいた方が良いと欲をかいて、あっさり引き上げたのが運の尽きね。本当はフォーマルドレスが着たいって言ってたのを、わざわざ二人に制服で出席させた甲斐があったわ」

「容赦ないな」

 細かい小細工に秀明は苦笑するしかなかったが、美子は同様に笑って答えた。


「衣装はすぐに着替えられるけど、あの頭を何とかしようと思ったら、どう考えても披露宴開始時間に間に合わないわ。公社が派遣したスタッフが、閉鎖されている会場に乱入しようとする無頼の輩は徹底排除してくれるそうだし、招待客の皆様に不愉快な思いをさせずに済みそうね。勿論、言いがかりを付けて請求してくるであろうクリーニング代や理髪代を含めた慰謝料も、びた一文払う気は無いわ。こちらに非は無いから当然よ。訴えたいなら訴えれば良いわ。返り討ちにして、逆に名誉棄損で訴えてやるだけの話だし」

 堂々とそう言い放った美子を、秀明は苦笑しながらそのまま暫く眺めていたが、急に真顔になって口を開いた。


「……美子」

「何?」

「俺が、こんな事を口にするのは初めてなんだが……」

「だから何?」

 何やら真剣な顔付きで言い出した秀明に美子は首を捻ったが、そんな彼女に向かって秀明は笑いを堪える様な表情になりながら告げた。


「惚れ直した。やっぱりお前は良い女だな」

 それを聞いた美子は、一瞬目を見開いた後、おかしそうに笑った。


「あら。これまで『惚れた』とは言った事はあるけど、『惚れ直した』と言った事は無かったって事?」

「そうだ。悪いか?」

「薄情なあなたを窘めるべきか、あなたにそう言わせられなかった女の人達に同情すべきか分からないけど、随分と珍しい言葉を聞かせて貰ったのね」

「そう言う事だな」

「じゃあこれから頑張って、私に『惚れ直した』って言わせてみせてね? そうじゃないと周りの人間に、私はそれほどでもなくて、あなたの方ばかり私を好きだと思われるわよ?」

 多少意地悪く笑いながら美子がそんな事を言った為、秀明は瞬時にいつもの不敵な笑みを見せながら宣言する。


「今日は色々度肝を抜かれたが、すぐに『惚れ直した』と言わせてみせる。覚悟しておけ」

「本当に?」

「あまり俺を見くびるなよ?」

「楽しみにしてるわ」

 そこで美子が明るく笑ったところで、披露宴の開催を告げにスタッフ達がやって来た為、秀明は彼女の手を取って立ち上がらせた。そして美容室で美容師に指摘されて漸く自分達の後頭部の笑える状況に気が付いたであろう次兄夫婦が、悲鳴と憤怒の叫び声を上げている姿を想像しながら、秀明は清々しい気持ちで美子と並んで披露宴会場へと向かったのだった。


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