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第43話 対抗策

「ちょっと美子! この日程正気なの? 普通、有り得ないわよね? 結婚披露宴の招待状に『誠に申し訳ありませんが、日程が差し迫っておりますので、到着後一両日中にご返送下さい』の一文が付けられて、速達で送りつけられたのは初めてなんだけど!?」

 着信を知らせた自身の携帯を取り上げ、耳に当てるなり飛び込んできた高校以来の友人の声に、美子は携帯を持ったまま、思わず遠い目をしてしまった。


「そうね……。一生に一度、有るか無いかの経験だと思うわ……」

「何を他人事みたいに言ってるの! 聞いてないわよ、デキ婚なの!? 確かに美子は一見誰よりもまともに見えて、誰よりもぶっ飛んだ思考回路と行動力の持ち主だったけど、こんな事でそれを発揮しなくても良いじゃない!」

 その訴えに美子は座ったまま机に突っ伏したくなったが、なんとか堪えつつ言葉を返した。


「その類の事を言われたのは、久美で何人目かしらね」

「その類って?」

「デキ婚云々」

「そりゃあ、疑うわよ。来月披露宴って、普通なら有り得ないから。で、本当の所はどうなの?」

 最初に笑い飛ばしてから、すぐに真剣な口調で確認を入れてきた友人に、美子は若干素っ気なく言い返す。


「お生憎様。影も形もありません」

「何だ、残念。でもどうしてそんなに急に挙式と披露宴をする事になったの? 旦那さんになる人の仕事の都合?」

 完全に好奇心から尋ねてきた彼女に、美子は思わず愚痴めいた呟きを漏らした。


「仕事の都合ではないの。父に軽くいびられて拗ねまくった挙げ句、プライドを捨ててあっさり妖怪に縋ったのよ。あの馬鹿は」

「は? 何を言ってるの?」

 当然話の見えない彼女が当惑した声を上げた為、美子は笑って誤魔化した。


「色々あってね。急に決まってしまったし、もう用事で埋まってたら欠席でも構わないわ」

「何言ってるのよ! 何としてでも出席するわ。久々に皆の顔を見たいし。あ、そうだ。チームの皆で集合するのは久々だし、服装は昔のユニフォームで良い? どうせなら美子も、お色直しの一着はそれで」

「是非とも、ドレスコード遵守の方向でお願いします」

 美子が切実に頭を下げると、電話越しにもその雰囲気を察した相手は、カラカラと笑ってから詫びてきた。


「今のは勿論、冗談ですからね? ごめん、驚いた勢いで電話しちゃって。披露宴を楽しみにしてるわ」

「私も、顔を見るのを楽しみにしてるわ。それじゃあね」

 そして通話を終わらせた美子は、今度こそ机に突っ伏した。


「疲れた……」

 小さな呻き声を漏らしながらそのままダラダラしていると、ノックをして部屋に入ってきた美恵が常にはない姉の姿を見て、訝しげに声をかけてきた。


「姉さん、ちょっと良い? ……ちょっと。何をやってるの?」

「披露宴の招待状が届いたって、ひっきりなしに確認やら冷やかしの電話がかかってきてるのよ」

 ゆっくりと身体を起こし、椅子に座ったまま背後を振り返って愚痴った美子に、美恵は苦笑いで応じる。

「あれじゃあ無理ないわよ。私だって何事かと思うし。ところで、後で話があるって言ってたけど、何?」

 そう問われた美子は、電話に出る直前まで自分がしていた事を思い出した。


「そうそう。美恵に頼みたい事があるの。本来なら私がするべきなんだけど、挙式と披露宴当日は、どう考えても身動きが取れないと思うから」

「そんな日に、一体何をする気だったのよ?」

 美恵が呆れながら立ったまま詳細を尋ねると、美子は美恵を見上げながら思わせぶりに言い出した。


「とある筋からの情報によると、披露宴に招かれざる客が押し掛ける可能性があるの」

 それを聞いた美恵は、軽く眉根を寄せてから短く尋ねる。

「こっち? あっち?」

「向こうね」

「女? 男?」

「どうやら、夫婦で出向く気らしいの」

 そこで美恵は、益々渋面になりながら確認を入れた。


「……当然、父方でしょうね」

「話が早くて助かるわ」

 冷静に美子が頷いたのを見た美恵は、苛立たしげに吐き捨てた。


「ふざけてるわね。以前、姉さんの事を『たかが食い物屋の娘』呼ばわりした事位、耳にしてるわよ。それを綺麗さっぱり棚に上げて、今更何をしようって言うわけ? それで? 姉さんはどうしたいの?」

 怒りの形相で立て続けに言ってのけた美恵に向かって、美子は先程まで机で書き込んでいた用紙を、微笑みながら手渡した。


「できれば当日、この方向でやって貰えないかしら。金輪際、我が家に関わりたくないと思わせるか、我が家が先方と友好関係を結ぶつもりは皆無な事を、嫌でも理解させたいの。話して納得してくれるタイプでは無いと思うし」

 そう説明された美恵は、渡された用紙に目を走らせ、面白く無さそうに一言感想を述べた。


「生温いわ」

「そう? 基本的に藤宮家の意向だと相手にしっかり分からせつつ、第三者には私達が関係していると分からない様にしたいんだけど」

「細かい所に、幾つかアレンジを加えても構わない?」

「勿論よ。私は当日手が出せないし、やり方は全面的にあなた達に任せるわ」

 そんな風に全権委任された美恵は顔を上げ、美子に向かって力強く頷いてみせた。


「分かったわ。これに関しては私と美実で準備しておくから、心配しないで」

「良かった。必要なスタッフとかをホテルに頼んで手配して貰うから、最終的な計画が固まったら、早目に教えてね」

「了解。ところで姉さん。結婚前に早くも愛想を尽かされたわけ?」

「急に何を言い出すの?」

 いきなりの話題転換に、美子がさすがに面食らうと、美恵は面白く無さそうな顔で話を続けた。


「江原さん。あ、もうお父さんと養子縁組済みだから、秀明義兄さんか。今週に入ってから、全然顔を見せないじゃない。先週までは、連日の様にご飯を食べに来てたのに」

「そう言えば、そうね……」

 思い返してそれを認めた美子に、美恵が若干厳しい目を向ける。


「何か心当たりは?」

「さあ……、特には。色々忙しいんじゃないの?」

 危機感など微塵も感じさせず、のんびりとした口調で応じた姉に、美恵は若干苛つきながら尚も続けた。


「本当に大丈夫? 急に結婚が決まった上に急に破談になったりしたら、笑い話にもならないわ。しっかり手綱を握っておきなさいよ? 結婚前の最後の女遊びだって、羽目を外しているかもしれないし」

「本当ね。気を付けるわ」

 にこりと笑って頷いた美子を見て、美恵は心底嫌そうな表情になる。


「本気にして無いわね……。姉さんの、そう言う所が嫌いなのよ」

 全く悪気は無かったのだが、結果的に密かに気を揉ませていたらしい美恵を怒らせてしまったのが分かった美子は、すぐに謝って用紙を持って部屋を出て行く彼女を見送った。それから携帯を再度取り上げて、今話題になったばかりの人物に電話をかけてみる。


「もしもし、私だけど、今大丈夫?」

「ああ、構わないが。どうした?」

「ひょっとして、結婚前の最後の女遊びを満喫中なの?」

「いきなり何を言い出すんだ?」

 さすがに困惑した声を返してきた秀明に、美子は笑いながら事情を説明した。


「あなたが急にパタリと家に来なくなったから、美恵に心配されたのよ。『しっかり手綱を握っておけ』って怒られたわ」

 それを聞いた秀明は、楽しそうに笑った。


「それは悪かった。ちょっとバタバタしていて、そっちに出向く余裕が無かったんだ。そうだな……、週明けの火曜日には顔を出すから、勘弁してくれ」

「了解。それじゃあ、その日はあなたの好物で、お父さんがそれほど好きじゃない物を準備しておく?」

「本気で社長に睨まれるから、それだけは止めてくれ」

「あら、もう『社長』じゃなくて、『お義父さん』じゃないの?」

「そうだったな。あまり生意気な事は言わない様に、気を付けよう。今度は早々に勘当されたくは無い」

「そうね」

 鋭く突っ込んだ美子に苦笑いで返してから、秀明は思い付いた様に言い出した。


「それじゃあ、美恵ちゃん達に疑われない様に、今度の日曜にデートでもするか?」

 しかしそれは、美子にあっさりと言い返される。

「当然、ホテルで披露宴の打ち合わせを済ませたついでよね? あまり手を抜いていると、却って怒られるんじゃない?」

「相変わらず手厳しいな」

 そこで秀明は本気で笑い出し、週末の予定を確認して話を終わらせた。



 次の日曜日。予定通り披露宴会場となるホテルに出向き、担当者と急ピッチで打ち合わせを進めた二人は、その終了後にティーラウンジに移動して、優雅にアフタヌーンティーを楽しみ始めた。


「この前も話したけど、最近そんなに忙しいの? お父さんと養子縁組した事で、社内でやっかまれて仕事を押し付けられているとか?」

 三段のケーキスタンドの中段から、ミニサンドイッチを摘み上げながら心配そうに美子が尋ねると、カップを口から離した秀明が不敵に笑ってみせる。


「俺に仕事を押し付ける度胸のある奴がいたら、寧ろ誉めてやるぞ。お義父さんは相変わらず、社内で顔を合わせるなり眉間に皺が寄ってるが、公私混同して俺に難癖を付けたりはしないしな」

「それは良かったけど……。それならどうして?」

 その問いに、秀明は僅かに視線を揺らしてから、傍目には平然と告げた。


「プライベートで色々とな。そろそろマンションを引き払う準備もしないといけないし」

「確かにそれも有ったわね。でも本当にそれだけ?」

「酷いな。俺は美子一筋だが?」

「それは分かってるわよ。女関係以外で、何か有るわよね?」

 サクッと切り込んできた美子に、秀明が若干不思議そうに問い返す。


「どうしてそう思う?」

「女の勘?」

「参ったな……」

(加積さんから聞いて大体の所は知ってるけど、あくまでも知らないふりをしておいた方が良さそうだものね。だけどここまで言っても吐かないなんて、頑固だわ)

 口で言うほど困ってはいない感じの、寧ろ嬉しそうに笑いながらカップをソーサーに戻した秀明を見て、美子は密かに呆れた。しかしここで秀明が、予想外の事を言い出す。


「本当に美子が心配する様な話ではないし、そうだな……。新婚旅行中に教えるから」

「本当?」

「ああ、約束する」

 そう言って最下段の皿に乗っているスコーンを取り上げ、半分に割ってクロデットクリームを塗り始めた秀明を見て、美子は内心で首を傾げた。


(あら? じゃあ白鳥家絡みの話だけって事でも無いのかしら?)

 色々考えを巡らせながら、再び紅茶を飲んでいた美子に、秀明が思い出した様に尋ねてきた。

「そう言えば……。新婚旅行が海外じゃなくて、本当に京都で良いのか?」

 その問いに、美子は笑顔で頷く。


「良いわよ。京都は修学旅行で行ったきりだし、一度ゆっくり行ってみたいと思っていたの」

「そうだな。時期的に桜と紅葉のシーズンとも外れるし、落ち着いてあちこち見て回れそうだな」

「それに行く途中で、秀明さんの地元で披露宴もできるでしょう? あ、そう言えば、そっちの方はどうなったの? 幹事をしてくれる人は見つかった?」

 美子の方も、この間気になっていた事を思い出して尋ねると、秀明は笑顔で太鼓判を押した。


「ああ。二つ返事で引き受けてくれた。『同学年三クラス全員に声をかける』と豪語していたが、あいつになら任せて大丈夫だろう」

「随分大掛かりになりそうね。楽しみだわ」

 嬉しそうに感想を述べ、プチタルトに手を伸ばした美子だったが、そんな彼女に秀明が顔付きを改めて問い掛けた。


「ところで美子。最近、変な人物に纏わりつかれていたり、不愉快な電話がかかってきたりはしてないよな?」

 秀明が何を懸念しているのかはしっかり分かっていたものの、美子は取り皿にタルトを乗せながらあっさりとしらばっくれる。


「そんな事は無いわ。何か心当たりがあるの?」

「いや、特に無ければ良いんだ」

 そう言ってスコーンを食べるのを再開した秀明に、美子は少し意地悪く迫ってみた。


「怪しいわね……。さっきは違うとか言ってたけど、本当に昔の女がよりを戻したがってるとか、現在進行形の女がいるとかじゃないの?」

「そんなわけあるか」

「分かってるわ、冗談よ。結婚しても互いに秘密の一つや二つは、持っているでしょうしね」

 僅かに顔を顰めた秀明に美子が笑いかけると、秀明は益々面白く無さそうな顔つきになって尋ねてきた。


「美子は俺に秘密にしている事や、話すつもりが無い事が有るのか?」

「勿論、有るわよ?」

「まあ、一つ位なら構わないが……」

 彼にしては鷹揚な所を見せた秀明だったが、美子がちょっと考えながら指折り数えた事で、忽ち渋面になる。


「ええと……、五つ? もっとあるかしら?」

「今すぐ全部、洗いざらい話せ」

「何よ。自分は秘密にしている事が有るくせに、他人には許さないって狭量だと思うわ」

「面白くない」

 そう言って拗ねた様に顔を背けた秀明を、美子は笑いを堪えながら宥めた。


「もう。そんな事で拗ねないでよ」

「拗ねてなんか……」

 しかし視線を自分から逸らしたまま、秀明がどこかを凝視している為、美子は不思議に思いながら声をかけた。


「秀明さん?」

 その問いかけに僅かに遅れて、秀明が美子に向き直って断りを入れてくる。

「悪い。知り合いが居たから、ちょっと挨拶してくる」

「分かったわ。行ってらっしゃい」

 無表情に近い秀明に、笑って頷いて見せた美子は、席を立って先程見ていた方に歩き出した秀明の背中を眺めて、小さく肩を竦めた。


(本格的に拗ねちゃったかしら? 本当に扱いが面倒なんだから。でも今更だし、これ位で愛想は尽かさないけどね)

 そうして美子はすぐに、目の前のスイーツを堪能する事に意識を向けた。

 一方の秀明は、少し離れた場所にあった一組の男女が座っているテーブルに最短コースで歩み寄り、五十がらみの男を見下ろしつつ、低い声で恫喝した。


「俺達に何の用だ?」

 その物騒な気配に、同席している二十代に見える女性は僅かに動揺する素振りを見せたが、言われた当人はカップ片手に平然と言い返した。


「何の事でしょうか? 私は結婚したばかりの若妻とのデートを、楽しんでいる所なんですが?」

「夫婦? どこがだ。雰囲気がずれまくり、服装の統一感も無くて、良くて不倫カップルだろうが。ふざけるな」

「随分と酷い仰り様ですね。雰囲気がちぐはぐなのは、否定はしませんが」

 冷静に応じた男の向かい側で、連れの女性が無言のままがっくりと項垂れる。そんな彼女に秀明はチラッと視線を向けてから、改めて目の前の男に視線を戻して問いかけた。


「お前は“桜”か?」

「いえ、橘です」

 平然と言い返した男に、秀明は僅かに呆れた表情になった。

「ボケたつもりか? その割には、その女がツッコミを入れないが」

「一応、本名が『阿南右近』なもので」

 あっさりと名前を申告した阿南に、秀明は一瞬虚を衝かれた顔付きになってから、納得した様に頷いた。


「……なるほど。ボケた訳ではなくて、『左近の桜』と『右近の橘』に掛けただけか。なかなか洒落た言い回しをする。この前、桜査警公社から持ち帰った書類の中に、警備部特務一課特命チームは体術・射撃能力の他に、会話可能な言語は三ヶ国語以上、基礎教養は必須と書類で見たが、どうやら頭の回転はそれなりに良いらしいな」

「私達は海外での活動も念頭に入れなければいけない上、あらゆる場面を想定して動く必要がありますので。各種パーティーや茶会然り、観劇や講演会然り。対象者の傍近くに控える為には、必要最低限の教養が必須になります」

「お前に関しては問題無いと思うが、こっちの女は新人か? ド素人に毛が生えた程度だぞ。お前がいなかったら、別口かと疑った位だ」

 指をさされながら容赦無さ過ぎる事を言われてしまった女性は、盛大に顔を引き攣らせたが、阿南は直接庇う事はせず、苦笑のみに留めた。


「確かにこれは未熟者ですが、容赦ないですね。そうすると彼女だけに任せていたら、頭は白くてスカスカで腹の中は真っ黒な、権力者の間を渡り歩く渡り鳥野郎の手下だとでも思いましたか?」

「その女はともかく、お前は違うと思ったから声をかけてみた」

 暗に白鳥家との関与を疑ったのかと揶揄した相手に、秀明は言下に否定してみせた。その物言いが気に入ったのか、阿南は先程までとは若干好感度を増した笑顔で、軽く頭を下げる。


「せっかくのデートに、申し訳ありません。今回はこれの研修も兼ねていまして」

「俺達のストーキングは、じじいの指示か?」

「厳密に言えば、会長の警護が、以前からの私達の任務の一つなんです。会長が交代されたのに合わせて、我々の警護対象者が変更になっただけですね」

「なるほど。そういう事か」

 合点がいった秀明が、忌々しげな表情を幾らか和らげたが、阿南は白々しく言ってのけた。


「安心して下さい。社長が襲われようが事故に巻き込まれようが我々は全く関知しませんし、そもそも誰も警護に付いておりません」

「それは構わないが、美子にはこの事を伝えてあるのか?」

「いえ。『仰々しい護衛が付いていると分かったら萎縮させそうだし固辞すると思うから、あくまでも内密に』と、前会長と前社長から指示を受けております」

 その詳細を聞いた秀明は、自分に関してはノーガードと聞いても怒り出す事は無く、真顔で頷いた。


「それならその方針は継続だ。美子を必要以上に怖がらせたり、煩わしい思いをさせたくないからな。ただし、くれぐれも」

「必要以上の接触はしない事と、最低限のプライバシー保持について厳守致します。例え会長が間男を作っても、決して逢瀬の邪魔をしたり、口外いたしませんのでご安心を」

「…………」

 実に良い笑顔で自分を振り仰ぎつつ保証してきた阿南を、秀明は無表情で見下ろした。そのまま無言の睨み合いが数秒続いたが、ここで完全に存在を無視されていた女性が、男二人に小声で注意を促す。


「チーフ、社長。会長がこちらを怪訝な顔で見ていらっしゃいますが?」

 その声で秀明は舌打ちを堪えつつ踵を返し、最後に「ヘマをしたら殺すぞ?」と二人だけに聞こえる声で脅し文句を吐いてから、何食わぬ顔で自分達のテーブルに戻って行った。その後姿を見送りながら、一気に緊張が解れた彼女が、上司に囁く。


「チーフ……、今度の社長も物騒ですね」

「加積様と比べたら、まだまだ可愛いものだ」

「でも社長は『会長には内密に』って言ってましたけど、会長は私達が付いている事を、とっくにご存じなんですよね?」

 そう問いかけた途端、阿南が刺す様な視線を彼女に向けた。


「お前……、社長の前でそれを口走ったら、通常チームに格下げ以前に首にするぞ。分かってるんだろうな?」

「すみません。間違っても口に出したりしませんので」

「全く。社長にバレまくりだと? 何の冗談だ。確かに相手が悪かったが、研修し直しだな」

「……申し訳ありません」

 それまでの余裕綽々な態度とは一転して、途端に不機嫌になった阿南に対して、不幸な部下は深々と頭を下げ続ける事になった。


「待たせたな」

「それは良いけど……。あそこのテーブルの人と、どういう知り合いなの?」

 そしてテーブルに戻って来るなり、美子に不思議そうに尋ねられた秀明は、口から出まかせを述べた。


「取引先の部長なんだ。つい最近商談で顔を合わせて、意気投合した人でな。挨拶がてら、ちょっと話してきた。どうやら最近、年の離れた女性と入籍したらしい」

 それを聞いた美子は、件のカップルの方を見ながら、少しおかしそうに笑った。


「あの女性って、少し年が離れている様に見えるけど、奥様だったのね。彼女、何か妙に周囲を気にしている気がするし、二人の服装も雰囲気も微妙に噛み合っていないから、ひょっとしたら不倫カップルなのかと思っていたわ」

「そうか」

 そう言ってクスクスと笑った美子を見て、秀明は密かに(美子にまで見抜かれているとは、やはりしごかれる必要がありそうだな)と思わず笑った。すると美子が笑うのを止めて、軽く秀明を睨んでくる。


「でも、あなたが何か余計な事を言ってきたんじゃないわよね? 秀明さんがテーブルを離れた途端、何だか喧嘩……、とは違うけど、お説教でもされている雰囲気が……」

 チラッと先程のテーブルを見ながら美子がそんな事を言い出したが、それを聞いた秀明は、若干大袈裟に肩を竦めて見せる。


「俺は無実だからな? 世の中の揉め事の原因の全てが、俺の様な言い方はしないでくれ」

「そういう事にしておいてあげるわ」

 そこで美子は鷹揚に笑って、そのカップルについての話題を終わりにしたが、実は読唇術もできる阿南が、美子が自分達の方を見ながら述べた感想を読み取って、「素人の会長にまで怪しまれているとは何事だ!」と部下に雷を落としているなどとは、夢にも思っていなかった。


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