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第4話 魔のゴール

 廊下を進んで玄関でフラットシューズを履き、木造の母屋を回り込んで庭へと向かった美子だったが、先導しているにも係わらず、ひたすら無言を貫いていた。しかしその代わりに、彼女のすぐ後ろに付いている秀明と、彼と並んで歩いている物おじしない美幸が、賑やかに会話していた。


「あのね、美子姉さんは凄くサッカーが好きでね? 女子高だったからそれまで学校にサッカー部が無かったのに、人を集めて先生にお願いして作っちゃったんだって!」

「それは凄いね」

「でしょう? それでね? その時のチームメイトの人達とは、今でも凄く仲良しなの」

「それはよほど充実した、楽しい時間を過ごせたって事だよね」

「そうだよね。私にも、そんなお友達ができるかな~?」

「美幸ちゃんなら大丈夫だと思うよ?」

「ありがとう。白鳥さんにも素敵なお友達、一杯いそうだよね?」

 にこにこと言ってきた美幸に、秀明は何を思ったか少し苦笑いした。


「友達……、も居るけど、弟分の方がたくさんいるかな?」

 それを聞いた美幸は、ちょっと考え込む。

「弟分? 弟みたいな人?」

「うん、だけど妹みたいな存在は居なくてね。美幸ちゃんの様な可愛い子が、妹になってくれたら嬉しいな」

「はい! 妹に立候補します!」

(だから美幸……、あんたはさっきから、何をヘラヘラと懐いているわけ!?)

 自分の背後で美幸が勢い良く右手を上げた気配を察して、美子の不愉快度が一気に増加した。しかし妹を叱り付けたいのを我慢しつつ建物の角を曲がり、目の前に現れた庭を手で示しながら、背後を振り返って秀明に声をかける。


「白鳥さん、こちらになります」

 そう言われた秀明は、自分の位置から見ると縁側に沿って奥行きが約20m、幅が約10m程の日本庭園に目を向けたが、手前にあるひょうたん型の池の向こうに配置された石や小さな築山、植えられている低木や植え込みなどしか確認できず、当惑した顔で美子に問いかけた。


「あの……、美子さん?」

「何でしょうか?」

「その……、普通の和風の庭にしか見えないんですが。どこにサッカーゴールがあるんでしょうか?」

 それに対し、美子は落ち着き払って向こう側の塀を指差しつつ、事も無げに告げた。

「塀に接して設置してありますので、注意して見て頂けますか? バーの色は本来なら白ですが、周囲や背後に溶け込む様に茶色に塗ってあります。この家は数寄屋門に合わせて、石積みの上に板塀を巡らせてありますので」

 その説明を聞いて注意深く目を凝らしてみると、確かに向こう側の塀に接する様に、木々の間に茶色の棒状のものが見えた。その為秀明は若干顔を引き攣らせつつ、その全体像を推察して一応確認を入れる。


「……分かりました。ですが公式の物と、サイズがかなり違うようですが」

「地面からクロスバーまでの高さは、公式の場合と同様2.44mにしてありますが、場所が場所ですので2本のポストの間隔は本来の半分の3.66mにしてあります」

「因みにどこからどう狙って打つのか、教えて貰えませんか?」

「打つのは、この池の手前の芝生の所からです。ここからだとゴールまでの距離が大体16から17mですから、ペナルティーエリアの端から蹴り込むのと同じ感覚になります。ですがそこからだと直線では狙えないので、蹴る時は上か左右に曲げます。あくまで真っ直ぐで狙いたければ、池の端の置き石の所に異動して、仰角約10度で、あそこの岩と岩の隙間を通す様に狙って下さい」

「……本当に、可能なんですか?」

 奥を指差しながら淡々と説明する美子に、秀明はもの凄く懐疑的な目を向けた。それに美子が不愉快そうに顔を顰めながら何か言おうとした時、母屋の縁側に現れた昌典が、彼女に呼びかけてくる。


「美子、すまんがちょっと良いか? 相楽さんからお義父さんの法事について確認の電話がきたんだが、良く分からなくてな」

「分かりました。今行きます」

 父親にすぐ承諾の返事をした美子は、妹達を振り返って指示を出した。

「美野、美幸。悪いけど私が戻るまでに、物置からボールをあるだけ持って来てくれない?」

「分かったわ」

「取って来るね」

「ちょっと失礼します」

 一応秀明に頭を下げて美子が今来た道を戻って行くと、後を追う様にして美野と美幸もその場を離れた。そして何となく手持無沙汰に秀明が庭を眺めていると、少ししてから背後から楽しげに声がかけられた。


「ねえ、白鳥さん」

「はい、なんですか? 美恵さん」

「あんなに地味で、見栄えのしない姉さんなんかのどこが良いの? 悪い事言わないなら、私にしておきなさいよ」

 いつの間に近寄って来たのか、どことなく媚を売る様な目つきで至近距離から見上げてきた美恵を見下ろした秀明は、最初無表情だったもののすぐに笑いを堪える表情になった。


「『姉さんなんか』、ね」

 そして含み笑いをし始めた彼に、美恵が苛立たしげに尋ねる。

「何がおかしいの?」

「自虐趣味があるみたいだな。『なんか』呼ばわりされる人間より、下の人間だと思われたいとは」

 秀明の言わんとする事をすぐに理解した美恵は、瞬時に眦を吊り上げた。


「……私が、姉さんより下だとでも言いたいの?」

「そう言ったつもりだったが、自虐趣味があるわけではなくて、単に頭が悪いだけか?」

「なんですって!?」

「あいにくと、君程度の女には不自由していない」

「…………っ!」

 無遠慮に相手を上から下まで眺め回し、全く体裁を取り繕う事無く言い切った秀明に、美恵は怒りで顔を赤くした。しかし何か言い返す前に、少し離れた場所から哄笑が沸き起こる。


「くふっ……、あはははっ!!」

「美実! 何盗み聞きしてるのよ!?」

 腹を抱えて爆笑している妹に美恵は噛みついたが、美実は目尻の涙を拭いながら正論を述べた。

「盗み聞きもなにも、人の目の前で勝手に茶番劇をやったのはそっちじゃない。頭悪いって言われても、反論できないわね」

「あんたね!」

「おっまたせ~!」

「あら、美子姉さんはまだ戻ってないのね」

 ここでサッカーボールがたくさん入ったネットを持ち上げながら、美野と美幸が建物の角を曲がって戻って来た為、二人の言い合いは否応も無く終了となった。その間秀明は面白そうに姉妹のやり取りを眺めていたが、美野達と前後して美子が戻ってくる。


「ありがとう、美野、美幸」

 そして地面に置いてあるネットからボールを一つ取り出した彼女は、それを持って芝生の場所に移動した。

「それでは白鳥さんに信じて頂ける様に、ここから入れてみますね」

「それはどうも」

 振り返った美子に、秀明は恐縮気味の笑顔を向ける。しかし美子はすぐに視線を逸らし、足元のボールを無言で見下ろした。そしてマーメイドラインのフレアースカート姿にも係わらず、気合いを入れて右足を後方に振り上げ、勢い良くボールを蹴り出す。


「はぁぁっ!」

 美子の掛け声に押される様に、ボールは右上方に弧を描いて飛んでいき、手前の松の上を越えてから若干角度を付けて左下方に曲がり、見事なループシュートになった。そしてボールがゴール内に飛び込んだのが、木々の間から何とか見て取れた秀明は呆気に取られたが、美恵達はそれを見て平然と言い合う。


「相変わらずね」

「ホント、規格外」

「美子姉さん、凄いわ」

「もう一回やってみせて?」

 ウキウキとおねだりしてきた美幸に、美子は笑いながら答えた。

「今度は白鳥さんがやってくれるわよ」

 そこで美子は秀明に向き直り、一見無邪気に見える笑顔を向けた。


「やって見せて頂けますわよね? 白鳥さん?」

 そのどことなく皮肉っぽい口調に、秀明は常とは異なり口先だけでこの場を回避する気にはなれず、その挑発を受けて立つ事にした。

「ボールをお借りします」

 そしてまだ残っているボールに秀明が手を伸ばすと、少し離れた所で姉妹が言っている内容が聞こえてきた。


「姉さんの挑発に乗るなんて、意外と馬鹿だったのね」

「それなりに自信があるんじゃない?」

「あの、でも……、さすがに普通の人には」

「頑張れ~! 白鳥さ~ん!」

「言っておきますが、あの手前の松は両親の結婚記念に植えた物ですので、くれぐれも当てないようにお願いします」

「……気をつけます」

 さり気なく美子に釘を刺された秀明は、僅かに顔を歪めつつ、庭を挟んで反対側の塀を凝視した。


(軽くプレッシャーをかけてくるか。正直、サッカーは久し振りだが……)

 そして自身の革靴と芝生に置いたボールに目を落としていると、秀明の内心の困惑を読み取った様に、美子が静かに声をかけてくる。

「初めての白鳥さんには難しいでしょうか? やはりお止めになりますか?」

 嘲笑では無い淡々としたその口調に、秀明は却ってプライドを刺激させられた。

「いえ、せっかくなので、試させて貰います」

「そうですか。それではここに七個ボールが残っていますので、気の済むまでお使い下さい」

 そう言ってから数歩下がり、傍観する態勢になった美子を見て、秀明は完全に腹を括った。


(ここで引くわけにはいかないな)

 そして上着を脱いで一番近くに居た美恵にそれを預けてから、秀明は自分なりにコースを考え、勢い良くボールを蹴った。

「いけっ!」

 しかし比較的抜けやすいと思った空間を左カーブで抜けるかと思ったボールは、上手く曲がりきれずに奥まった所にある低木の茂みの中に突っ込み、派手に枝が折れる音が聞こえてきた。


「しまった……」

「あぁぁぁっ! 私のアベリアがぁぁっ!」

「え?」

 いきなり自分の背後から美幸の悲鳴が聞こえた為、秀明は悪態を吐くのも忘れて反射的に振り返ると、美実が苦笑しながら解説してきた。


「今、ボールが当たって枝が折れたやつ、美幸の生誕記念に植えた物なんですよね~」

 それを聞いた秀明は、慌てて美幸に向き直りつつ謝罪した。

「そうだったんだ。ごめん、美幸ちゃん」

「うもぅ! わざとやったわけじゃないのは分かるけど、もう少し気をつけて下さいねっ!」

「うん、本当に悪かった。気をつけるから」

 両手を腰に当ててプンプン怒っている美幸に、秀明は平身低頭で謝ったが、そんな彼を見た美子が、再び淡々と翻意を促してきた。


「もう宜しいんじゃありません?」

「……いえ、もう少しやらせて頂きます」

(ここで尻尾を巻いて帰れるか!)

 いつもの彼らしくなく秀明は半ば意地になってシュートを続行したが、回を重ねる毎に状況は悪化の一途を辿った。


「今、枝が折れた南天、私の生誕記念の物ですが。なんか急に、肩が痛くなった気がするわ」

「美実さん、申し訳ない」

「蝋梅が……。私に何か恨みでも?」

「あれは美子さんの時の物でしたか。誠に申し訳ありません」

「見事に、ツツジに突っ込んだわね。後からちゃんとボールは取ってよ?」

「美恵さんの記念樹でしたか。勿論です。すみませんでした」

「わ、私の……、沈丁花……」

「その……、美野ちゃん。本当に悪かった」

 ボールを蹴る度に枝を折り、葉を散らして冷たい視線を向けられていた秀明は、美野がべそべそと泣き出すに至って、完全に進退窮まってしまった。そして美野以外の四人から非難の眼差しを一身に受けながら、八つ当たりじみた事を考える。


(くそっ! こんな筈じゃ……。大体、何でコース上に、そんな木ばかり植えてあるんだ!?)

 しかしここで逃げ出すといった選択肢は秀明の中には存在せず、あくまでゴールを狙う。


(感覚は掴めたし、四回蹴ってみて、どんなコースを取ればよいかも大体分かった。後は狙った通りに蹴るだけだが……)

 しかし秀明がまだ幾分躊躇しながら、何気なく美子の方に顔を向けると、目が合った美子は軽くあざ笑う様に笑ってみせた。それを目にした秀明の闘争心に、完全に火が点く。


(意地でも、入れてやろうじゃないか!!)

「いけっ!」

 そして秀明の渾身のキックで蹴り出したボールは、ツツジの植え込みのすぐ上を抜け、楓の横スレスレを通りながら僅かに右に曲がり、見事ゴール内に飛び込んだ。それを認めて、美恵達が揃って驚いた反応を見せる。


「……あら」

「まぐれね」

「嘘……、入っちゃった」

「白鳥さん、凄ーい!」

「ありがとう、美幸ちゃん」

「それではお気が済まれた様ですので、ボールを回収したらお引き取り願いたいのですが」

 妹達が感心する中、美子だけは冷静に帰る様に促すと、秀明はそれに対して文句を言わず、苦笑して頭を下げた。


「分かりました。本日はこちらの都合でご無理を申し上げたものの、快く出迎えて下さって感謝しております。このまま失礼させて頂きますので、藤宮さんに宜しくお伝え下さい」

「伝えておきます。それでは失礼します」

 美子も礼儀正しく一礼したものの、それが済むと踵を返して玄関へと向かった為、妹達は呆気に取られた。


「え? 美子姉さん?」

「本当にこのままお別れするの?」

「さてと、回収するか」

「あ、白鳥さん、手伝います!」

 周囲の戸惑いには目もくれず、秀明が植え込みの中や木の陰に落ちたボールを拾い集め始めた為、美野と美幸は慌てて彼を手伝った。そして集めたボールをネットに入れ、二人が物置に片付けに行くのを秀明が礼を言って見送ると、それまで黙って彼らの様子を見ていた美恵が、秀明に歩み寄って無言で預かっていた上着を差し出す。


「どうも」

 それを受け取った秀明が、短く礼を言って袖を通している間、彼女が面白く無さそうな顔で自分を見上げている為、思わず苦笑しながら尋ねてみた。

「そんなに警戒しなくても。以前、長女の婿に収まってしっかり後継者の座を確保しつつ、陰で君にもちょっかいを出そうと考えていた馬鹿でもいたか?」

「…………」

 無言のまま軽く眉を寄せた彼女を見て、秀明は(当たらずとも遠からずか)と見当を付けた。その為、軽く肩を竦めながら、一応忠告らしき事を口にする。


「だからと言って、彼女の周囲で誰彼構わず口説くのは止めた方が良いな。それ以外では男にすり寄ったりはしないんだろう?」

「さようなら。二度と顔を見せないでね」

 しかし美恵は素っ気なく別れの言葉を口にして、あっさりと背中を見せて立ち去った。それを見送りながら、秀明は「ひねくれたお嬢さんだ」と小さく笑いを零した。

 それから母屋を回り込んで門に向かって歩き出した秀明だったが、門の手前で生け垣の陰から出て来た美野が、彼に駆け寄った。


「あのっ! 白鳥さん!」

「美野ちゃん? どうかしたのかな?」

 足を止めて優しく尋ねると、美野は幾分迷う素振りを見せてから、小声で言い出した。

「ええと、その……。あの、初めてだったんです」

「何が?」

「美恵姉さんより、美子姉さんの方が良いって、はっきり言った男の人」

 その訴えに、秀明は苦笑するしかなかった。


「そうなんだ。世の中、思っている以上に、馬鹿な人間が多くて困るな。でも、さっきのあれを盗み聞きしてたんだ」

「はい、すみません……。ボールを持って戻って来た時に」

「ちょっと、美野姉さん! そこは否定する所でしょ!?」

 そこで続けて生け垣の向こうから飛び出して自分の台詞を遮って来た妹に、美野は腹立たしげに言い返した。


「何言い出すのよ。美幸だって、一緒に聞いてたじゃない」

「だって盗み聞きなんかじゃないもの。正々堂々、母屋の曲がり角の所で立ち聞きしてたし」

「恥ずかしいから、あまり馬鹿な事を言わないで!」

 胸を張った美幸を美野が盛大に叱りつけたのを見て、秀明は笑いを堪えきれずに噴き出した。


「……ぶふっ、あははっ!!」

「白鳥さん?」

「いや、ごめん。面白いね、二人とも」

「美幸と一括り……」

「美野姉さんと一緒?」

 そこで姉妹は一瞬嫌そうに顔を見合わせてから、盛大に口喧嘩を始める。

「そうじゃなくて! もう、美幸が割り込んでくると、いつも話が逸れるんだから!」

「私のせい!? 美野姉さんがトロ過ぎるせいじゃない!」

「なんですって!?」

「まあまあ、確かに美野ちゃんの話の途中だったよね。何かな?」

 秀明が苦笑いで二人を宥めつつ美野に話しかけると、美野は瞬時に怒りを静め、真顔で彼を見上げた。


「あの……、美子姉さんの事、好きですか?」

「そうだね」

「……本当ですか?」

 何やら思うところがあるらしく、どことなく探る様な視線を向けてきた美野に、秀明は何となく気圧されながら静かに答えた。

「……ああ。それで?」

「それなら……、どうして美子姉さんがあんなに怒ってるのか分からないけど、諦めて欲しく無いです……」

「そうか。美野ちゃんは優しい良い子だね」

 俯いて囁くように告げてきた美野の頭を、秀明は軽く撫でながら語りかけた。すると美幸が会話に割り込んでくる。


「ここだけの話、結婚するならやっぱり美子姉さんの方がお得だと思うの。美恵姉さんなんか貰ったら、気が強過ぎて絶対持て余すわよ?」

「美幸ちゃんは正直だね」

 こそこそと内緒話をする様に言ってきた美幸に、秀明は再び苦笑する羽目になった。そして美野が勢い良く顔を上げ、お約束の様に妹を叱り付ける。


「美幸! どうしてあんたは、後先考えずに思った事を垂れ流すのよっ!」

「だって本当の事じゃない。白鳥さん、良い人みたいだし、苦労して欲しくないもの」

「良い人、か……。本当に笑わせてくれる」

 そのままぎゃいぎゃいと二人が言い合っている為、多分に皮肉が込められた秀明の呟きは、発言した本人の耳にしか届かなかった。


「美野ちゃん、美幸ちゃん。二人の言い分は良く分かったから。これから頑張ってみるよ」

 秀明がそう告げると、二人は言い合いを中断して彼に向き直る。

「本当ですか?」

「良かった。応援しますね?」

「ああ、ありがとう」

 そして門の所で見送ってくれた二人に手を振って、最寄り駅に向かって歩き出した秀明は、藤宮邸の塀に沿って曲がった所で、面白く無さそうな顔で腕組みしつつ、塀に背中を預けている美実に遭遇した。


「やあ、美実さん。こんな所でどうしたのかな?」

 微塵も動揺せずに声をかけてきた秀明に、美実は小さく舌打ちしてから告げる。

「早速、下二人を丸め込んだみたいね。対象年齢が幅広い上、手の早さも相当とみたわ」

 それに苦笑して数歩歩いた秀明は、彼女の前で足を止めた。


「君は姉妹で一番、客観的に物事を観察できるみたいだな」

「上二人と下二人で、毎回揉めてるもので」

「でも、可愛らしい揉め方じゃないか。互いを無意識に構っている結果、揉めているわけだし」

「本当。本人達は無自覚だから、手に負えないのよね」

 そう言って呆れ顔で肩を竦めた美実は、次の瞬間真顔になって確認を入れた。


「それで? 家にはもう来ないのよね?」

「そうだな……。家には暫く来ないかな?」

「家には? 暫く?」

 かなり引っ掛かりを覚える物言いに問い返すと、秀明は悪びれずに答える。


「彼女を口説く条件を設定されてしまったから。それに関して藤宮氏も否定しなかったしね」

「父さんは単に面白がってただけだと思うけど……。だってバリバリのエリート官僚が、転職して課長職目指すって無理でしょう。入社できても、何年かかると思ってるのよ?」

 しかし秀明はそれを聞いても、ただ含み笑いをして美実を見返した。その言わんとする所を察した美実は、心底呆れた声を出す。


「……ちょっと本気? さっきの美恵姉さんの台詞じゃないけど、美子姉さんの為にそこまでする理由があるの?」

「彼女の為じゃない。敢えて理由付けをするなら、自分の為だ」

「え?」

 当惑した美実だったが、ここで秀明が思い出した様に言い出した。


「そうだ。一つ教えて欲しいんだが」

「何?」

「君達のお母さんの入院先」

「東成大医学部付属病院よ」

「因みに、どんな病気で?」

 その途端、美実が不愉快そうに顔を歪める。

「……プライバシーの侵害」

 それを聞いた秀明は、素直に己の失言について謝罪した。


「確かに不躾だったな。すまない、これ以上は聞かないよ。今日は楽しかった。じゃあ、また君には連絡する」

「あ、ちょっと! 私にはって、どういう意味よ!? 第一私の連絡先、教えてないでしょ!?」

 その疑問には答えず、背中を向けたまま手を振って再び住宅街を歩き出した秀明を見送った美実は、「やっぱり止めておいた方が、良いんじゃ無いかしら?」と頭痛を堪える様な表情になった。


 一方で、飄々とした態度を崩さず歩いていた秀明は、角を曲がって藤宮邸が完全に見えなくなってから足を止め、背後を軽く振り返ってひとりごちた。

「あんなにムキになるとはな。俺とした事が……」

 そしてそのまま数秒佇んでから、再び迷い無く歩き出す。


「だがこれで、当面の目標は決まったな。そうと決まれば、早速あの目障りな老害野郎と、恥知らず中年に引導を渡してやろうじゃないか」

 駅に向かいながら頭の中で様々な要因を集めて解析し、自分に最も条件の良い状況を作り出す算段を整えた秀明は、満足げに呟いた。

「……十年以上大人しくしてやったんだ。ありがたく思え」

 その場に居ない人物達に向けられた、その酷薄さを含んだ秀明の不敵な笑みを目撃した者は、誰一人として存在しなかった。



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