第37話 究極の選択
「ほらほら美子さん、落ち着いて。美人が台無しよ?」
「藤宮様、宜しければこちらをお使い下さい」
「……え?」
桜に連れられて先程着替えた部屋に戻ってから、唐突に声をかけられた為、美子は目元を拭いながら反射的に振り向いた。そしてお仕着せらしいブラウスとスカート姿の初老の女性が、自分に向かって恭しく差し出している物を見て戸惑うと、桜が苦笑しながら説明する。
「蒸しタオルよ。もうこうなったら、一度さっぱりした方が良いわ。この後寄る所が無いなら、すっぴんでも平気よね?」
言われて桜の意図を理解した美子は、それをありがたく受け取る事にした。
「はい、大丈夫です。使わせて頂きます」
「複数枚用意してございますので、遠慮なくお申し出下さい」
「ありがとうございます」
そして既に恥も外聞もかなぐり捨てた感のある美子は、ゴシゴシとメイクを完全に拭き取る勢いで、何枚かの蒸しタオルを使い、顔全体を拭き終えた。
(ふぁあ、さっぱり。落ち着いたし、生き返ったわ)
そこまでして、さすがに人心地ついた彼女は、笑顔でこの間蒸しタオルを提供してくれた女性に、本心から礼を述べた。
「助かりました。これで結構です」
「それでは最後に、こちらをどうぞ」
「ありがとうございます」
(最後に冷えた物を、か。さすがにそつが無いわね。うん、気持ち良い。頭も冷えたわ)
最後に受け取った冷やしたタオルで顔を引き締めながら、この屋敷の使用人のレベルの高さを実感していると、桜が笑顔で促してくる。
「それじゃあ着替えながら、ちょっとお話でもしましょうか」
「はぁ……」
(まさかこれまで以上の、無茶振りはさせられないでしょうね?)
内心では戦々恐々としながらも、美子は室内には女性しか居ない気安さから、勢い良くユニフォームを脱いだ。そして手早く足袋をと肌着を身に着けて長襦袢を取り上げると、畳に置かれたユニフォームを畳みながら、桜が何気ない口調で言い出す。
「美子さん、今日は随分緊張しているみたいだけど、お父様辺りから主人の事とか聞いてきたのかしら?」
「はぁ……、一通り、それなりには」
「やっぱりね。それで? 愛人持ちの女好きだから、気を付けろとか言われた?」
「一応、そんな事を言われた様な気もします」
全くの嘘もつけずに曖昧に返答した美子だったが、ここで桜が美子に紐を渡しながら、小さく笑った。
「言っておくけど、主人は私にベタ惚れだから、自分から他の女に手は出さないから」
「は? あの、でも……、愛人とかはいらっしゃらないんですか?」
長襦袢に袖を通して紐を受け取ったところで、動きを止めた美子が素朴な疑問を口にすると、桜は事も無げに告げた。
「確かにいるけど、全員私が気に入って、この屋敷に連れ込んだ子ばかりだし」
それを聞いた美子は、瞬時に目をむいて問い返した。
「はぁ!? 何で気に入ったら自宅に連れ込んで、夫の愛人にするんですか?」
しかしその問いにも、桜は軽く首を傾げながら不思議そうに言い返す。
「だって嫌いな女が愛人になったら、嫌じゃない?」
「それはまあ……、確かに、嫌いな女性よりは、好意を持てる女性の方が良いかとは思いますが……」
「そうでしょう?」
(そういう問題? 何か、論点がずれてない?)
何かがおかしいとは思いながらも、鋭く突っ込めなかった美子が、紐で長襦袢を固定しながら内心で悶々としていると、桜は何を思ったか、着物を持ち上げながらおかしそうに笑った。
「主人もね……、最初に『この子を愛人にしちゃいましょう』と言った時に、とても渋い顔をしたんだけど、私には逆らえないし」
「どうしてですか?」
「あの人ったら若い頃、私の実家の土塀に大型トラックを突っ込ませて粉砕して、更に母屋の壁にめり込ませてひびを入れた上で、大人しく私を寄越せと日本刀片手に両親を脅したのよ。今日のあの子よりは、ちょっとだけ派手だったわね」
淡々とした口調ではあったが、そんな若かりし頃の加積の武勇伝を予想外に聞かされた方は、たまった物では無かった。
「粉砕!? それに脅迫ですか!?」
「だけど私に対しては『俺は見てくれも血筋も悪いが、財産も何もかもお前の好きにさせてやるから結婚してくれ』と土下座したものだから、贅沢させてくれるなら、結婚してあげても良いかしらって思って」
「桜さん、財産目当てで結婚したんですか!?」
(うわっ!! 何て事を口走ってるのよ、私!?)
動揺著しい美子は、つい思ったまま口走って真っ青になったが、桜は微笑みながら肯定した。
「ええ、そうよ? それ以上に、気分次第で他人を好きなように動かせるのって、気持ちが良いし。……そんな風に、若い頃は思っていたんだけどね」
(あら? どうしたのかしら)
何やら急に声のトーンを変えてきた桜の様子を、美子が注意深く見守っていると、彼女は悩ましげに溜め息を吐いてから続けた。
「好き勝手できるお金と権力が手に入ったら、それと引き換えに、気の置けない友人とか、ちょっとした人間関係みたいなものが、あっという間に無くなってしまったのよ」
(それはそうでしょうね。同情はするけど、仕方ないわよ)
美子は内心で頷きながらも、無言で着物に袖を通して腰紐を結んだ。そして黙々とお端折りを整えている美子の前で、桜の独白めいた話が続いた。
「それでも豪胆な人は幾人か居て、長らく友人付き合いをしてくれていたんだけど、前にも言った様に、ぽつりぽつり交流が途絶えてしまってね」
「……お察しします」
「だから十分肝の据わった美子さんなら、私とも友人付き合いができると思ったの。これからもちょっと年の離れた、お友達でいて頂戴ね?」
そこでいきなり振られた話に、美子は手の動きを止めて慌てて桜に視線を向けた。
「いえ! あ、あの、それはちょっと」
「お友達が嫌なら、夫の愛人になってくれても良いのよ? 私からしたら、大して変わりはないし」
「是非、お友達でお願いします」
桜の申し出に対して、美子は即座に直立不動で最敬礼してみせた為、桜は満足げに微笑んだ。
「良かった! じゃあこのユニフォーム一式は、今日の記念にプレゼントするわね?」
「ありがとうございます。頂戴します」
(ごめんなさい、お父さん。また押し切られました。愛人は回避できたみたいだけど、益々変な事になった気が……)
頭痛を覚え始めた美子の目の前で、桜が上機嫌で再びユニフォームを畳み始めると、再度何やら思い付いた様に小さく笑った。
「ふふっ」
「どうかしましたか? 桜さん」
多少怖じ気付きながら美子が声をかけてみると、桜は顔を上げて笑顔を見せた。
「今日のあの子、ちょっと格好良かったじゃない? 昔のあの人も、もうちょっと見た目が良ければ、あの子以上に格好良かったのにと思ってね」
「……はぁ」
「あら、格好良いと思わなかった?」
生返事を返した美子に、桜が納得しかねる顔付きになると、美子は何やら気まずげに視線を逸らしながら、ぼそぼそと口にした。
「私は普段、悲劇のヒロインになりきるとか、お姫様願望は無いと思っていたんですが……」
「でしょうねえ。それで?」
興味津々と言った感じで見上げてくる桜の追及をかわすのは無理だと諦めた美子は、相変わらず視線を逸らしたまま、しかし若干頬を赤く染めながら答えた。
「まあ……、今思うと、それなりに格好良かったんじゃ、無いでしょうか?」
「そうよね。それなのに美子さんったら、颯爽と救出に現れた王子様の服で、思いっきり鼻をかんじゃったものね! やっぱり偶には、悲劇のヒロインになりきったり、捕らわれのお姫様になりきってみた方が良いと思うわっ!! あはははははっ!!」
容赦のない指摘に加えて、お腹を抱えて力一杯笑われてしまった美子は、思わず畳に崩れ落ちる様に座り込み、盛大に頬を引き攣らせながら控え目に抗議した。
「桜さん……。ちょっと笑い過ぎの様な気がするんですが?」
「気のせいよ。気のせい!」
そう言いながら変わらず笑い続ける桜に釣られる様に、先程タオルを出した後は部屋の隅に静かに控えていた女性も、無表情のままながら時折口元をひくつかせているのを認めた美子は、がっくりと項垂れた。
(身から出た錆とは言え……。穴があったら入りたい)
ここで羞恥心にまみれた美子だったが、それほど時間を要さずに何とか立ち直り、手早く帯を締めて桜と連れ立って秀明が居る座敷へと戻った。
「お待たせしました」
「おう、戻ったか」
座敷に戻ると、先程までと変わらず上機嫌な加積と、明らかに不機嫌な秀明に出迎えられた。すると加積が美子に向かって声をかけながら、座ったまま軽く頭を下げてくる。
「それでは美子さん。大したもてなしができなくて悪かったが、迎えが来た以上、無闇に引き止めるのも申し訳ない。今日はわざわざ我が家に出向いて貰って、感謝している」
「いえ、こちらこそ、色々お気遣いありがとうございました」
「そうか。それでは改めてプレゼントした物については、依存は無いかな?」
「おい、美子」
「はい。頂いていきます。ありがとうございました」
「っ!! この馬鹿!」
「え? 何よ?」
何やら秀明が言いかけたが、美子はそれに気が付かないままユニフォームについての礼を述べて頭を下げた。しかしその途端、何故か秀明が苦虫を噛み潰したかの様な顔になる。しかし加積はそれに構わずに、話を続けた。
「そうか。喜んで貰って良かった。譲った甲斐があったと言うものだ。ところで、この男の車は廃車にした方が良い有り様だから、うちの車で送らせよう。桜、土産を忘れずに持たせろよ?」
「まあ、何を言ってるのよ。当然よ」
(良かった。これで帰れるわね。だけどこの人、どうして変な、悔しそうな顔をしてるわけ?)
ころころと笑う桜が早速部屋を出て、土産の準備をしている間、美子が秀明の表情を窺うと、何故か彼の眉間には深い皺がくっきりと刻まれており、美子は密かに困惑していた。
そして土産を入れた紙袋を桜から受け取った美子は、晴れ晴れとした気持ちで用意して貰った車の後部座席に乗り込み、玄関まで出て見送ってくれた夫妻に手を振って、加積邸から出て行った。
「それでは、藤宮様のお宅に向かいます」
「お願いします」
運転手がかけてきたお伺いの声に機嫌良く答え、開放感に浸りながら背凭れに身体を預けると、横に座っている未だに不機嫌極まりない男が、地を這う様な声で問いを発した。
「……おい、美子」
「何よ?」
怒りを内包した声音に、思わず刺々しく返してしまうと、秀明は更に不機嫌さを増した声で、尋ねてきた。
「お前……、あのじじいから何を貰ったのか、分かってないだろう?」
「失礼ね。勿論知ってるわ。さっき着ていたネーム入りの、日本代表チームユニフォームのレプリカよ」
「そんなわけ」
「ぶふぁっ!!」
「え?」
そこで勢い良く噴き出す音が聞こえて、美子は面食らった。どう考えても運転席で生じた異音に美子が戸惑っていると、運転手が前を向いたまま、バックミラー越しに真顔で謝罪してくる。
「誠に申し訳ございません。風邪気味なもので、大変失礼致しました」
「はぁ……」
(何事? 私、別に笑われる様な事を言ったりしたり無いわよね?)
どう考えても笑うのを堪えて失敗した様な素振りを見せた運転手に首を捻り、秀明の意見を求めようとして、美子は迂闊すぎる事に、ここで漸く彼の状態に気が付いた。
(なんだかこの人、顔色が悪くないかしら?)
拳を避け損なったのか、口の横が横が僅かに腫れて、口の中でも切れたのか口元に少し血が付いている上に、ジャケットのボタンが無理に引きちぎられた様に一つ外れていて、肩の縫い目も僅かに解れていた。更によく見てみると、僅かに乱れた前髪の下の額には、うっすらと脂汗の様な物が滲み出ており、恐る恐る声をかけてみる。
「江原さん? 今、気が付いたんだけど、怪我をしているのよね? 警官とお屋敷の人相手に、乱闘していたし」
その台詞に、秀明は如何にも皮肉っぽく言葉を返した。
「へえ? 今頃気が付いたか。大した観察眼だな。大した事は無いから気にするな」
流石にその物言いには腹を立てたものの、確かに自分が迂闊過ぎた事は理解していた為、ぐっと怒りを堪えて質問を続ける。
「大した事は無いって……。どれ位の怪我か、自分で分かっているわけ?」
「経験上分かる。骨折も脱臼もしていない。打撲による鬱血と腫れが五ヶ所、左足首の捻挫と……。折れてはいないまでも、この痛みだと、肋骨にひび位は入ったかもしれんが」
「ひび、って……」
冷静に分析された内容に美子は瞬時に真っ青になり、大慌てで運転席に身を乗り出す様にして頼み込んだ。
「あの、すみませんっ!! 行き先を変更して、家じゃなくて病院へお願いします! あ、外科がある所で!」
「畏まりました」
「おい、真っ直ぐ藤宮家に」
「怪我人は黙っていなさい!」
「藤宮様のご希望に沿う様に、申し付けられておりますので」
「……勝手にしろ」
美子に叱り付けられ、運転手には丁寧に拒絶された秀明は、半ばふて腐れて腕を組んだまま窓の外に視線を向けた。そして引っ張って行った病院で、取り敢えずの処置を済ませた秀明を連れて、美子は無事夕刻になってから帰宅した。
「ただいま戻りま」
「とにかく上がれ。話を聞かせて貰う。美実達は絶対に一階に下りて来ない様に厳命してあるからな」
「はい……」
(機嫌が悪い……。確かにちょっと行ってくるって言った割には、遅くなったけど、病院で簡単な事情と帰宅予想時間を知らせるメールを打っておいたのに)
鍵を開けて玄関に入るなり、上がり口に仁王立ちで待ち構えていた昌典に、美子は少々うんざりしながら上がり込んだ。それに秀明も無言で続いたが、昌典に続いて入った座敷内にいた人物を見て、美子は少し驚いて目を瞬かせる。
「小早川さん?」
するとどうやら美子達の帰宅を待ち構えていたらしい淳は、二人の姿を認めると勢い良く立ち上がり、怒りの形相で秀明に詰め寄った。
「秀明!! てめえ、駐車スペースを聞くなりキーを引ったくって、スーツケースとビジネスバッグを放り出していくとは、どういう了見だ?」
「ちゃんとお前が回収しただろう?」
「あのなぁっ!!」
飄々と言い返した秀明に掴みかかろうとした淳を、美子が慌てて彼らの間に割り込みながら制止する。
「ちょっと待って小早川さん! この人、怪我をしてるから!」
「怪我? 確かに何だかヨレヨレだな。何をやった?」
「屋敷の門に車を突っ込ませて敷地内に乱入して、スピード違反で追ってきた警察官と排除しようとした屋敷の人間と、三つ巴の乱闘になっただけだ」
そんな物騒極まりない事を口にした秀明をしげしげと見てから、如何にもお手上げと言った感じで、淳が肩を竦めた。
「相当ぶっ飛ばしたな、お前。電車でここに直行した俺より遅かったのは、すったもんだした後に病院に寄って来たのか?」
「俺は良いと言ったのに」
「黙りなさい!」
「とにかく三人とも座れ。話が始まらん。美子。まずお前から、簡潔に流れを説明しろ」
「ええと、それが……」
昌典の鶴の一声で全員が座卓を囲んで座り、言われた通り美子が説明を始めた。
そして着物の話からコスプレの話、更にサッカーの話に移った所で、男達の疲労感満載の溜め息が漏れる。
「どうしてそこで、ユニフォームに釣られる……」
「その場面で、一球も外さないところが凄いな」
「…………」
それから秀明が庭に乱入し、加積があっさりと警官達を追い払ってから、思わず美子がしてしまった暴挙についても包み隠さず話すと、昌典と淳から、秀明に憐憫の眼差しが向けられた。
「……それで、ノーメイクで戻ってきたと?」
「そういう扱いは初めてだよな? 秀明」
「…………」
更に再度着物に着替えながらの、桜との友人関係樹立に話が及ぶと、昌典と淳は、はっきりと見て分かるほどに脱力した。
「本当に、お前と言う奴は……」
「美子さんって、ガードが堅いのか緩いのか、全然分かりませんね」
「……単なる考え無しだ」
ボソッと告げられたその言葉に、流石に美子は声を荒げて言い返した。
「何ですって!? だって愛人と友人の二択なのよ? 友人を選ぶのは当然でしょうが!?」
「それもあるが! 俺が言っているのは、レプリカユニフォームのつもりで、桜査警公社を貰った礼をサラッと言ってしまった件だ!! あっさり言質を取られやがって!!」
「桜査警公社だと!?」
「ちょっと待て秀明!! どういう事だ?」
ドンッと力任せに座卓を拳で叩きながら秀明が喚いた内容に、昌典と淳が劇的な反応を示した。しかし一人意味が分かっていない美子が、怪訝な顔で三人に向かって尋ねる。
「桜査警公社? この前小早川さんに見せて貰ったリストの中に、そんな社名があった気がするけどどんな会社? それに貰ったってどういう事?」
その疑問に、昌典は舌打ちせんばかりの苦々しい表情で口を開いた。
「桜査警公社の名前は、世間一般にはあまり知られていない。宣伝などは一切していない、非上場企業だしな」
「でも規模も売上高も、半端ないんですよ。口コミや紹介が引きを切らないので」
「あら、優良企業なのね。どんな会社なの?」
昌典に引き続いて淳も硬い表情で説明を加えたが、美子は率直な感想を述べつつ、更なる説明を促した。それに男達が顔を見合わせて溜め息を吐いてから、再び話し始める。
「信用調査部門と防犯警護部門に大きく分かれる」
「信用調査部門は、個人や組織の内偵調査や第三者評価機関。防犯警護部門はセキュリティーに関するシステムやグッズの開発及び、私的ボディーガードの養成と派遣業ですね」
「随分真面目な業務の会社なのね」
「一見そうだがな」
「先の戦後すぐに、軍の調査機関の中枢にいた人物が、軍の資金と機密文書を抱えながら当局からの追究をうまく逃れて設立した会社が元々の組織で、その後、政財界のお偉方と付かず離れずの距離を保ちつつ規模を拡大させてきたという、いわくが有りすぎる会社だ」
「その時々の依頼以上の成果を上げて、密かに掴んだ情報を元に、何かにつけて政財界を揺るがしてきたという噂が無ければ、超が付く位、堅い優良企業なんですけどね」
「噂じゃなくて事実だ。あそこのデータベースには、政財界のお歴々のこれまでの暗躍、謀略、内密の証拠の数々が眠ってる筈だしな。ちょっとつつけば、日本中が蜂の巣をつついた騒ぎになる事請け合いだ」
男達が語る、一気にきな臭くなってきた内容に、流石に美子も顔を強張らせた。
「……ちょっと面倒な会社みたいね」
「かなり面倒な会社だ」
「障らぬ神に祟りなしです」
「それなのに、あっさり言質を取られるとは……。あれほど言っておいたのに」
「だから! どうして私が貰う事になるのよ!」
両手で頭を抱えて座卓に突っ伏した父親から視線を逸らし、美子は秀明に噛み付いたが、秀明の説明は容赦無かった。
「あのクソじじい、自分が年を取ったからいつポックリ逝っても周りが困らない様に、自分が十分影響力を保持しているうちに、手中に収めている二十数社を業種毎に八分割して、自分が選んだ八人に引き継ぎさせる事にしたらしい。概ねすんなり決まったらしいが、これだけ単業種単独で残っていたそうだ」
「あら、人気が無いの?」
「逆だ。利用価値が有り過ぎて、他の七分野を引き継いだ七人を筆頭に、その他の耳聡い奴らが『そこを自分に任せてくれ』と売り込みが凄くてうんざりしていたらしい。それで『桜が気に入ったし、美子さんに任せる。お前がフォローすれば良いだろう。嫌なら彼女は返さないで、今後は俺が会社と同様彼女も面倒を見る事になるが』と、薄笑いしながら言いやがった」
「…………」
「ええと? 要するに?」
途端に静まり返った室内の気まずい沈黙を打ち消す様に、美子が確認を入れてみた。すると秀明が冷静に補足説明する。
「愛人じゃなくて友人やりたいなら、この会社の非公開株を黙って譲渡されとけって事だ。発行済み全株式九十%の桜夫人名義の株がお前に、同じく七%の加積名義の株が俺に譲渡されて、お前が夫人の代わりにオーナー兼会長。俺が加積の代わりに社長に就任する」
「…………」
「お前、旭日食品を辞めるのか?」
再び静まり返った室内の沈黙を、次に破ったのは淳だった。その問いかけに、秀明が淡々と答える。
「社内規定では、同業他社の業務に関する事以外では、副業をしても差し支えない事になっている」
「確かにそうだが……、それは兼業農家で休日に農作業をするとか、繁忙期に実家の小売業の運送や経理を手伝うとかを前提にしていて、社長職を兼任とかは……」
ぼそぼそと常識的な事を呟く昌典に、秀明は全く面白く無さそうに説明を続けた。
「何でも実質的な経営判断は、今までも全株式の三%を保持している副社長が担っていたらしいので、俺が他社で勤務していても、一向に構わないそうです」
「……それは良かったな」
「文字通りの、サラリーマン社長様かよ」
「それでこれが、桜査警公社の経営資料です」
「…………」
そこで秀明が加積から渡されて、ここまで持参してきた封筒の中身を取り出し、昌典と淳に見える様に向かい側に押しやった。それを捲りながら覗き込んだ二人は、何とも言えない表情で黙り込む。
「どうかしたの?」
怪訝に思いながら美子が問いかけたが、昌典は首を振って匙を投げた。
「もう、何も言わん。正式な譲渡手続きの時にでも、説明はあると思うから、きちんと聞いて来い」
「秀明……、親友止めて良いか? 以後は単なる同窓生って事で」
「好きにしろ」
呆れ果てたと言わんばかりの淳に、秀明が素っ気なく言い放つ。そんな男達の態度を見ただけで、事が相当面倒になっているらしいのは、美子にも察せられた。
(何か、もの凄く困った事でもあるのかしら。凄いしかめっ面なんだもの)
刻一刻と顔付きが険しくなっている様に見える秀明に、少々怖気づきながら様子を窺っていた美子だったが、ここで昌典が話を終わらせた。
「とにかく大体の状況は分ったから、夕飯にするか。小早川君は二階に行って、美恵達に話が終わった事を伝えてくれないか。江原君は客間に布団を敷いてあるから、取り敢えず休んで泊まっていきなさい。帰国したばかりで、ただでさえ疲れているだろうからな。美子、案内しなさい」
「……はい」
「分かりました。お世話になります」
そして淳と昌典が立ち上がって廊下に消えてから、美子は控え目に隣に座る秀明に声をかけてみた。
「あの、立てますか?」
「……ああ」
(かなり機嫌が悪そう……。無理も無いとは思うけど)
再び資料を封筒にしまい、秀明はゆっくりと立ち上がって歩き始めた。そしてすぐに奥の客間に辿り着く。
「どうぞ、こちらを使って下さい」
「分かった。……やっぱりああ見えて、淳の奴はマメだな」
襖を開けるなり秀明がそんな事を呟いた為、美子が何の事かと思っていると、淳が持参したらしい秀明の大きなスーツケースを室内に認めて、その理由が分かった。そのまま何となく眺めていると、早速スーツケースを開けてパジャマや服を取り出していた秀明が、不審そうに振り返って声をかける。
「どうした? 行って良いぞ?」
「だけど……」
自分でもどうしたいのか良く分からずにおろおろしている美子を見て、怪訝な顔になった秀明が何か言いかけた所で、美子の背後から美実が顔を出した。
「おい、美子」
「失礼します。江原さん、夕飯はこっちで食べるかしら? それとも皆と一緒に食堂で?」
その問いかけに秀明は一瞬口を閉ざしてから、あっさりと断りを入れた。
「いや、あまり腹が減って無いから、食事は良い。ちょっと疲れたので、寝させて貰う。薬を飲む為の水だけ貰いたいが」
「了解。今持って来るわ。ほら、美子姉さん。なに、こんな所で突っ立ってんのよ。行くわよ?」
「え、ええ……」
そして腕を取られて、半ば引き摺られる様に台所に向かった美子は、美実からの小声で追究された。
「江原さんが怪我してるってお父さんにメールしたみたいだけど、一体何があったの? あの人の帰国予定より明らかに早いし、お父さんは元気なのに早退しているし、いきなり淳が怒りの形相で現れて居座っていたし」
妹達が相当戸惑った事がその話だけで分かった為、美子は素直に謝った。
「ごめんなさいね。家の中の空気を悪くして」
「別に美子姉さんが謝る事でも無いでしょう?」
「……そうでもないのよね。理由は言えないんだけど」
そこで口を閉ざした美子だったが、色々心得ている美実はそれ以上しつこく聞いたりはせず、「そう」と軽く頷いて話を終わらせた。それに感謝して台所に向かった美子は、水を入れたガラス製の水差しとグラスを手早く丸盆に乗せて、再び客間へと戻った。
「お待たせしました。どうぞ」
「ああ」
そして丸盆を受け取った秀明が、病院で処方された化膿止めや炎症止めの薬を袋から出して飲むのを無言で眺めた美子は、ふと自分に向けられた彼の視線に気付いて、慌てて「失礼します」と頭を下げて客間から出た。そして廊下を歩きながら、溜め息を吐く。
(やっぱり私、まだきちんとお礼を言って無いわよね? 仕事の方もかなり無茶してくれたんだろうし、できれば今日のうちに、ちゃんとしておきたいわ)
そしてどう話を進めるべきかと、夕食を食べながら密かに悩んだ美子は、食べ終えてから父親の書斎へと足を向けた。
「お父さん。少し良いかしら?」
「何だ?」
「一つお願いと言うか、相談があるんだけど」
顔を見せるなりそんな事を言い出した娘に、昌典ははっきりと警戒する顔付きになった。
「相談? 取り敢えず言ってみろ。変な事では無いだろうな?」
それを聞いた美子が、がっくりと肩を落とす。
「……今日一日で、お父さんの私に対する信用が、だいぶ下がった気がするわ」
「これで上がる方がおかしいぞ。それで、どうした?」
それから美子の話を聞いた昌典は、かなり面白く無さそうな表情になったが、更に幾つかの事を美子に言われて、不満そうにしながらも彼女の話を了承した。




