第29話 発覚
居間に設置してある電話が、夜の九時を回った直後に鳴り響き、向かい合ってお茶を飲んでいた昌典と美子は、揃って怪訝な顔になった。しかしすぐに美子が立ち上がって、リビングボードに歩み寄る。
「はい、藤宮です。……和典叔父さん? どうかしましたか? ……え?」
応対した美子が意外そうな声を上げ、次いで困惑顔で振り返って自分に視線を向けてきた為、昌典は無意識に眉を寄せた。
「どうした?」
すると美子が、通話口を手で押さえながら説明する。
「それが……、至急お父さんと私に話したい事があるから、今からこちらに来るって。と言うか、もう車で向かっている最中みたいで」
「代わってくれ」
若干顔付きを険しくした昌典が立ち上がり、美子の所まで行って受話器を受け取った。
「和典、何事だ? 電話では話せない内容か?」
そして入れ替わりにソファーに戻った美子がお茶を飲んでいるうちに、幾つかのやり取りを済ませて通話を終わらせた昌典が、当惑しながら戻ってくる。
「全く要領を得ないが……、取り敢えず茶の準備だけしておいてくれ」
「分かったわ」
父娘揃って何となく嫌な予感を覚えたが、それからは暫くそれに触れずに時間を過ごした。
「いらっしゃいませ、和典叔父さん。清原さんも、お久しぶりです」
「夜分すまないね、美子ちゃん」
「お邪魔いたします」
予告時間より何分か遅れて藤宮邸にやってきた和典と、運転手としてやって来たらしい彼の公設秘書を出迎えた美子は、二人の顔色がどことなく生彩を欠いている事に気付いたが、それには触れずに穏やかに声をかけた。
「それでは父が待っていますから、叔父さんは客間の方にどうぞ。清原さんも同席されますか?」
「いえ、私は玄関でお待ちしております」
「そんな事は言わずに。寒いですし、居間の方でお待ち下さい」
「はぁ……」
何やら暗い顔の二人を見て、(一体何事?)と思ったものの、美子は余計な事は言わずに顔見知りの清原を居間に案内してからお茶を淹れ、まず彼にお茶を出してから客間へと向かった。
「お父さん、お茶を持って来ました」
「ああ、入れ」
「…………」
襖越しに声をかけてお盆を手に客間に入ると、困惑顔の父と黙り込んでいる叔父がいた為、美子は益々不思議に思った。
(まだ話をしていないのかしら? 叔父さんらしくないわ)
そう思いながらも、何食わぬ顔で和典の目の前に茶碗を置く。
「叔父さん、宜しかったらどうぞ」
「あ、ああ、ありがとう」
「ところで、俺と美子に話があるんだろう? 美子も来たし、黙ってないでさっさと言わないか」
自分の横の座布団に美子が座るのを待って、昌典が渋面で向かい側に座る弟を促すと、和典は勢い良く頭を下げながら叫んだ。
「兄貴、美子ちゃん、すまん!!」
「……いきなり何をする。気でも違ったか?」
さすがに昌典は面食らった表情になったが、美子はつい二日前に俊典から聞いた話を思い出し、密かに冷や汗を流した。
(まさか……、例の女性の事が照江叔母さんにバレて、お父さんと私に宥めて欲しいとか、そんな事を頼みに来たわけじゃ無いわよね!?)
しかし和典は、続けて美子の懸念とは異なる内容を語り出した。
「照江が美子ちゃんに、俊典との縁談を持ち掛けたそうだが、俺はそれを全く聞いてはいなくて」
「そうだったのか? 彼女から直接話を聞いたから、てっきりお前も了承している話かと思ったが。反対なのか?」
「いや、俺だって、美子ちゃんが嫁に来てくれれば万々歳だ!」
「あの、でも……、俊典君にはちゃんと好きな女性が居ましたよ? この前二人で食事をした時に、本人から聞きましたし」
和典が力強く主張した所で美子が思わず口を挟むと、和典は美子に視線を移し、若干険しい表情で問い質してきた。
「因みに……、俊典は何と?」
(何か珍しく、叔父さんが怒っている気が……。さっきのやり取りで、何か怒らせる要素があったかしら?)
少し動揺しながらも、美子は一生懸命その時の会話を思い返し、なるべく正確に聞いた内容を再現してみた。
「ええと、ですね……。たしか『心根の優しい、万事控え目な女性で、政治家の妻として前に出るタイプの女性じゃないけど、絶対美子さんと気が合うと思うから、一度彼女と会って欲しい』とか言われて、叔父さん達に私や父から口添えして欲しいのかと思いながら、別れましたが」
「俊典の奴……、美子ちゃんにそんな事をほざいていたのか」
そこで忌々しげに呟いた和典を見て、美子は更に疑念を深めた。
「叔父さん? 俊典君の口ぶりでは、彼女との結婚を叔父さん達に反対される様な話でした。それで少し、気になっていたんですが……」
美子が控え目に口にした内容に、和典が強い口調で断言する。
「美子ちゃんの推察通りだ。その女との結婚など、もってのほかだ」
「それはどうし」
「えぇぇっ!! どうして頭ごなしに反対するの? 和典叔父さんらしくないわ!」
そこでいきなり襖を勢い良く引き開けて美幸が飛び込んで来た為、唖然とする父と叔父に代わって、美子が叱りつけた。
「美幸!! あんたって子は! またこっそり聞いていたわけ!?」
「だって!」
その美幸の後ろから、美野が申し訳無さそうに姿を見せる。
「ごめんなさい、美子姉さん」
「美野……、あなたまで美幸と一緒になって」
「でもこんな時間に、いつも忙しい和典伯父さんが急に家に出向いてくるなんて、気になるわよ」
「照江叔母さんから美子姉さんに、何やらお話があったばかりですし」
「あなた達は、揃いも揃って……」
更に美実と美恵まで現れた為、美子は思わず溜め息を吐いて、呆れ果てた表情になった。
「和典叔父さん、どうしてその人がお嫁さんとして認められないの? お家がお金持ちじゃないとか、政界の人脈に繋がらないから?」
「それは……」
ちゃっかり和典の横に正座しつつ興味津々で尋ねてきた美幸に、和典は狼狽して口ごもった。
「美幸、子供は黙っていなさい!」
「美幸! そんな事を言うなんて、和典叔父さんに失礼よ? 叔父さんはそんな料簡の狭い人じゃないわ。相手が外国籍の人だったらともかく」
「美野ちゃん、どうして分かった?」
美子が叱責するのとほぼ同時に、美幸と並んで座った美野が妹に言い聞かせると、和典は驚いた顔になった。しかしその反応を見て、美野が戸惑う。
「え? 本当に外国籍の方なんですか? 思いついた事を、取り敢えず口にしてみただけなんですが……」
「…………」
語るに落ちた形になった和典は無表情になって黙り込んだが、そのやり取りを聞いた美幸は困惑した声を上げた。
「どうして外国人だと、俊典お兄さんのお嫁さんになれないの? 時代はグローバルじゃない?」
それに溜め息を吐いた美野が、妹に言い聞かせる。
「あのね、国会議員でも地方議員でも、外国人から献金を受けたり、外国人が代表者の企業から献金を受けたりするのは駄目なのよ?」
「どうして?」
「国政に関わる事で、外国からの影響を受けるわけにはいかないからよ。友好国相手でも、国益が対立する事だってあるし。これで俊典さんが好きな人が国交が無い国とか、国交があっても今現在何らかの問題で外交上対立したいたり、険悪な関係の国籍保持者だったら最悪よ?」
「日本と国交が無い国とかあるの? どことも仲良くしてるよね?」
美野の指摘に和典は顔を引き攣らせたが、良く分かっていない美幸はきょとんとして問い返した。そんな妹の反応に、美野は本気で怒りを露わにする。
「あんたって子は! 偶にはニュース位見なさい! 入試には時事問題だって出るのよ? それに和典叔父さんとも、関係大有りじゃない。叔父さんは与党の外交委員会の委員長で、過去には防衛委員会にも所属してた事があるんだから!」
「あ、そう言えばそうだっけ」
漸く思い至ったらしい美幸に美野は再度深い溜め息を吐いてから、噛んで含める様に言い聞かせ始めた。
「政府、与党の外交・防衛政策にそれなりの影響力を保持している叔父さんを頼りにしている人は多いけど、反対に煙たがって引きずり下ろしたがってる人も国内外に多いのよ。それ位は分かるわよね?」
「……一応」
「だけど叔父さんは身を慎んで、隙なんか見せずに順風満帆。スキャンダルにも無縁。そうなると叔父さんの失脚を狙う輩は、次にどこを狙うと思う?」
真顔での問いかけにいつの間にか室内は静まり返っていたが、美野と美幸はそれに気が付かないまま、問答を続けた。
「手っ取り早く、身内や縁戚のスキャンダルとか弱味?」
「正解。だから和典叔父さんの後継者として目されてる俊典さんの結婚相手も、その女性の周辺には気を配らなきゃいけないわけ」
「それは分かるけど、ちゃんと調べて問題が無ければ良いんじゃない?」
「それは勿論そうよ。だけど極端な話、俊典さんが叔父さん達に隠れて付き合ってた場合、最悪の可能性だってあるのよね」
それを聞いた美子が無意識に和典に顔を向けると、明らかに彼の表情が強張っているのを認め、美子も顔を引き攣らせた。しかし美野達の話は、容赦なく続けられる。
「最悪の可能性って?」
「だって叔父さん達に秘密にしてるって事は、実はその人の身内に明らかに叔父さんに敵対する勢力の人が居るとか、その人自身が対立組織の一員とかって可能性もあるわけでしょう?」
「…………」
その時点で美野と美幸以外の藤宮家の面々の視線が一斉に和典に集まったが、和典は無言を貫いた。
「あ! ひょっとしてスパイとか? でもこっそり付き合ってるなら、叔父さんの陣営を探りようが無いんだから、却って問題ないんじゃない?」
「問題大ありよ。それをマスコミにすっぱ抜かれたりしたらどうするの?」
「う~ん、さすがに拙い? でも『確かに問題も障害もありますが、純愛なんです』って主張すれば、何とかならないの? 国籍で結婚相手を差別するっておかしいよね?」
「だから、敢えて結婚しないで、愛人狙いなのよ」
「は? 何で?」
完全に困惑した美幸に向かって、美野は淡々と説明を続けた。
「その人と結婚する意志を明らかにしないなら、そうそう叔父さん達にもバレないでしょ?」
「確かにそうかもしれないけど……」
「だから健気に『私が結婚相手に相応しく無いのは分かってるから、私は一生日陰の女で良いの。だからあなたは将来の為に、ちゃんと周囲から認めて貰える女性と結婚して』とか殊勝な事を言って丸め込むわけ」
「…………」
(ちょっと待って……。まさかそれって俊典君の話が、実際そうだったとか言わないわよね?)
美野の解説を聞いた美子が、再び和典に顔を向けると、叔父は盛大に顔を引き攣らせていた。それを見た昌典は険しい顔付きになり、美恵は怒りを隠そうともせず、美実は呆れ果てたといった顔付きになったが、大人達は揃って無言を貫いた。しかしそれとは裏腹に、美幸は畳を乱暴に叩きながら爆笑した。
「あははははっ!! あっ、有り得ないぃぃっ!! 何その三文芝居以下の筋書き! それを聞いて『なんて君は謙虚なんだ。誰と結婚しても、俺は一生君を離さないぞ』なんて真顔で言う男なんて、脳内お花畑のお間抜けさんじゃない! そんな考え無しな人、どこを探しても居ないって!!」
「確かに、とても真っ当な判断力を備えた、成人男性とは言えないわね。そんなのが日本の国政を担う事になったら、世も末よ。日本は近い将来、確実に崩壊するわ」
「…………」
姪達の辛辣過ぎるコメントを聞いた和典はこめかみに青筋を浮かべ、美子は慌てて二人の話を遮ろうとしたが、話に夢中になっている二人を止められなかった。
「あ、あのね? 美野」
「そんな裏事情があり過ぎの女性が、仮に首尾良く俊典さんの秘密の愛人になったらどうなると思う?」
「すっぱ抜かれたら、拙いんじゃない?」
「美幸、黙りなさい!」
「すっぱ抜かれる前にその女性自ら、マスコミにリークするわね。賭けても良いわ」
「え? せっかく秘密にしてるのに?」
「もう、いい加減にしなさい!」
「独身なら『純愛です』と押し通しても、正式な婚約後とか結婚後にそんな愛人の存在が分かったら大事よ」
「確かに、女性団体とか人権団体とかは騒ぐとは思うけど? あまりにも結婚相手を馬鹿にしてるし」
そこで今度は自分に視線が集まったのを認識した美子は、何となく気まずくなって思わず黙り込んだ。その隙に、美野達が話を続ける。
「それだけで済まないわよ。選挙区内や後援者から『文句の付けようもない相手と結婚しておきながら、そんな胡散臭い女を側にいさせるなんて』と俊典さんが愛想を尽かされるだけで済まなくて、叔父さんが与党内や同じ派閥内から『威勢の良い事を言ってても、裏では息子を介してどこに繋がっているか分からない』って疑われて白眼視される可能性だってあるのよ? 下手したら倉田家は、未来永劫政界から追放される可能性だってあるわ」
「うっわ! それってリアルハニートラップって事!? 怖いっ! 怖過ぎる!」
自分の話を真に受け、本気で顔色を変えて戦慄した妹を見て、美野はクスッと小さく笑ってから宥めにかかった。
「美幸。さっきからあくまでも、仮定の話って言っているじゃない。あなたがどうして外国籍の人だと、俊典さんの結婚相手として叔父さん達が諸手を上げて賛成できないのかが全然分かっていないから、極端な例を挙げただけなのよ?」
それを聞いた途端、美幸が安堵した様に顔を綻ばせる。
「そう言えばそうだったっけ。だって美野姉さんが、凄い真剣に話してるんだもん。信憑性ばっちりだったし」
「あのね、幾ら俊典さんがちょっと押しが弱くて絆されやすそうに見えても、生まれてからずっと叔父さんやお祖父さんの背中を見て育った、生粋の政治家の家系の人なのよ? その後継者の自覚が無いわけ無いんだから、そんな訳ありの女性を自分に近付ける筈無いじゃない」
「言われてみればそうだよね。幾ら流されやすそうで頼りなさそうに見えても、芯は一本通った人だよね。もう~、美野姉さんが真顔で言ってくるから、すっかり真に受けちゃった。俊典さんにも和典叔父さんにも失礼しました。ごめんなさい」
「……いや、気にしてないから」
悪気は無かったものの、美野と共にこれ以上は無い位の痛烈な皮肉をぶつけまくっていた美幸が、素直に頭を下げて謝ってきた為、和典は辛うじて笑顔らしき物を顔に貼り付けながら応じた。すると美野が、懇願する様に話しかけてくる。
「叔父さん、色々言いたい事はあるでしょうけど、俊典さんが見込んだ人がそうそう問題があるとも思えません。あまり頭ごなしに、反対しないであげて貰えますか?」
「そうそう。叔父さんの度量の広さを示す為にも、ここは一つドーンと構えて「うちの嫁に、ヘイ、カモーン」って言ってあげれば、相手だって感激してずっと倉田家に尽くしてくれるから! 案ずるより産むが易しって言うし!」
その二人の主張に、和典は力の無い笑みで応じた。
「は、はは……。ドーンと、ね……」
「はい!」
「うん!」
叔父とは真逆の力強い満面の笑みを浮かべる美野と美幸を見て、美子は頭痛を覚えた。
(何なの、この二人……。普段は寄ると触ると喧嘩してるくせに、こんな時だけ息がぴったりで。あなた達、実はもの凄く仲が良いんじゃないの!?)
とてもこのまま放置できなかった為、美子は言葉少なに美恵と美実に懇願した。
「美恵、美実。お願い」
「分かったわ」
「任せて」
その意味するところを即座に察した二人は、渋面で立ち上がりながら、妹達を促す。
「ほら美野、美幸立ちなさい。部屋に戻るわよ」
「これからは大人同士の話なんだから。邪魔はしないの」
「はい、分かりました。和典叔父さん、失礼します」
「今度俊典さんの相手がどんな人か、教えて下さいね!」
「美幸! さっさと行きなさい!」
「はぁ~い」
そして妹達が客間から姿を消した途端、美子は和典に向かって勢い良く頭を下げた。
「和典叔父さん、大変失礼しました!! 本当に申し訳ありません!!」
「いや、本当の事だから、気にしないでくれ。全く、中学生や高校生にも容易に推察できる事を……。あいつはどこまで考え無しで迂闊なんだ。ほとほと愛想が尽きたぞ」
美野と美幸のやり取りを聞いている間に堪えていた怒りが、ここに来て一気に湧き上がってきたらしく、和典が凄みのある声で呻いた。そんな彼に、昌典が冷静に確認を入れる。
「和典、どうして分かった? その様子では、俊典君が正直に打ち明けたとは思えないが」
その問いかけに和典が持参した鞄を開け、中から大判の茶封筒とUSBメモリーを取り出して、兄に向かって差し出す。
「今日の昼過ぎに、事務所にこのUSBメモリーが送りつけられた。中身をプリントアウトした物がこれだ」
「見せて貰うぞ」
一応断りを入れて封筒に手を伸ばし、昌典が中身に目を通し始めると、和典がそれについて補足説明した。
「急いで出入国管理記録も調べた。それから午後から夕方にかけて、件の女性の住居や出入りしている店舗なども人をやって調べてみたが、綺麗に痕跡が消えていた後だった」
「……素早い事だな。事務所内に伝手でも作ってあったのか?」
軽く顔をしかめて確認を入れた昌典に、和典が苦々しい顔付きになって応じる。
「俊典の紹介で、昨年の選挙時にボランティアスタッフとして入っていた。それ以後事務所の女性スタッフと、友人付き合いをしていたらしい。そのスタッフは勿論この騒動の真相は知らないが、ツイッターに事務所内が何だか慌ただしいと書き込んでいる。それからこちらの動きを推察した可能性がある」
そこまで聞いた昌典は、深い溜め息を吐いた。
「何をどこまで漏らしたのか、本格的に俊典君を締め上げる必要がありそうだな。勿論進んで漏らした自覚は無いだろうが、仕事帰りに書類持参で女に会いに行って一服盛られたり、知らないうちに合鍵を作られている可能性だってある。パスワード等も含めて、セキュリティーを全面的に見直せ」
「もう取りかかっている。今夜は徹夜だ」
真剣な表情での二人の会話に割り込むのは気が引けたものの、重大な事を思い出した美子は、控え目に声をかけてみた。
「あの……」
「どうした、美子?」
「俊典君とこの前会った時に、その彼女について話をする前に、叔父さんが二十年来懇意にしていると言う女性の話を聞かされたんですが、心当たりはありますか?」
それを聞いた途端昌典は眉根を寄せて弟を見やり、和典は表情を消して静かに問い返した。
「それで俊典は、他に何か言わなかったか?」
「その……、それについてどう思うかと聞かれましたが、幾ら身内と言えどもそんなプライベートな事に勝手にコメントできませんし、叔母さんに告げ口して夫婦仲に溝を入れるわけにも……。色々事情は有るだろうし、私からは何も言うつもりは無いと言いましたが」
そこまで聞いて、昌典は疲れた様に和典に告げた。
「その女性の事についても、漏れている可能性があるな」
「彼女とは、この際すっぱり縁を切る。そこら辺はお互いに、割り切った関係だったから。しかし……、俺が言えた義理では無いが、親が愛人を囲ってるから自分だって構わないとか思ったのか、あの馬鹿は!! 独り立ちもしていないひよっこの癖に、思い上がるのもいい加減にしろ!!」
抑えていた怒りがここで暴発したらしく、和典は両手の拳で勢い良く座卓を叩きつつ、この場にはいない息子に向かって怒鳴りつけた。常には見られないその剣幕に、美子は思わずビクリと身体を反応させたが、昌典は全く動じずに淡々と尋ねる。
「和典。この始末はどうつけるつもりだ?」
「あれは今日付けで解雇だ。来週にはベトナムに行かせる」
「叔父さん!?」
躊躇う事無く、吐き捨てる様に告げられたら内容を聞いて、美子は思わず声を荒げ、昌典も目を見張った。
「周囲には、既定路線を進む自分に疑問を感じて、自分探しの為に広い世界に出て行ったと言う。一応現地法人の企業に、職は準備してやった。野垂れ死にたく無かったら、自力で何とかすれば良い」
「それはちょっと、幾らなんでも。照江叔母さんは反対しなかったんですか?」
さすがに俊典が気の毒になり、取りなすように尋ねた美子だったが、和典は更に苦渋に満ちた表情になった。
「照江はこれが明らかになった途端、ショックで寝込んだ。『美子ちゃんにもお義兄さんにも顔向けできない』と、泣きじゃくっている状態なんだ」
それを聞いて黙り込んだ美子の代わりに、昌典が重々しく尋ねる。
「親父の耳には?」
それに和典も声を潜めて応じた。
「入れた瞬間に憤死するから、家中に箝口令を敷いた」
「適切な判断だな。美子。少し時間を置いて、親父と照江さんの様子を見に行ってくれ」
「分かったわ」
そこで当面の方針が定まったところで、昌典が顔付きを改めて和典に問いかけた。
「話を変えるが、事務所にそれを送りつけた奴は誰だ? それに目的は? やはり恐喝か?」
続けざまに質問を繰り出した昌典に、和典が微妙な顔つきになって言葉を返す。
「記名は無かったし全く不明だが、兄貴に心当たりはあると思う。俺が今日のうちにわざわざここに出向いたのも、その為だ」
「どうしてそんな事を言う?」
「USBメモリーが入っていた封筒に、これが同封されていた」
「…………」
そう言って和典が徐に開封済みの白い封筒を差し出した為、表に『藤宮美子様』とだけ書いてあるそれを見た昌典と美子は、無言で顔を見合わせた。その二人に向かって、和典が再度頭を下げる。
「すまない、美子ちゃん。私信だとは分かっているが、状況が状況だけに先に開封させて貰った。中身も確認してある」
「いえ、当然の処置です。不審物が入っている可能性だってありますし。お気遣いなく」
淡々と応じた美子は、受け取った封筒の中に入っていた便箋を取り出し、書かれている内容を確認した。それを横から覗き込みつつ、昌典が話しかけてくる。
「美子。“あれ”だと思うか?」
「こんな事をするのは、あの傍迷惑な男以外に考えられないわ」
無表情のまま、日時と場所のみが簡潔に記された便箋をぐしゃりと握り潰した美子を見てから、昌典は弟にすまなそうに声をかけた。
「和典、お前に一々言っていなかったが、実は少し前から美子にちょっかいを出してる男がいる。そいつの事は、深美が結構気に入っていたんだが、それを送りつけたのは恐らくそいつだ」
「そんな相手が居たのか? 言ってくれれば、照江には釘を刺しておいたのに……」
痛恨の表情になった和典に向かって、昌典は説明を続けた。
「因みにそいつは、例の白鳥議員の三男だ。今は江原と名乗って、うちの課長職を務めている」
それを聞いた和典は、本気で驚いた顔つきになった。
「確か美子ちゃんに頼まれて、何年か前に調べたあの男の事か? 自分の家の内紛に美子ちゃんを巻き込んだ上、最近また手を出してきてたのか? しかも旭日食品に入社していたなんて、聞いていないぞ?」
「手を出すまでには、いっていない。なあ、美子?」
「…………」
思わせぶりに声をかけてきた昌典を、美子は綺麗に無視した。すると黙り込んでいる彼女に、和典が恐縮気味に声をかけてくる。
「美子ちゃん。その……、指定の日時には」
「勿論、出向きます」
「それなら申し訳ないが」
「叔父さんの立場上、人を配置せざるを得ない事は分かっています。気にしないで下さい」
「……本当にすまん。宜しく頼む」
和典の言わんとする事は、美子には十分に分かっていた為、不必要にごねたり文句を言わずに了承した。そんな彼女に和典が心底申し訳無さそうに頭を下げる姿を見て、美子の中でふつふつと怒りが込み上げてくる。
(あのろくでなし野郎……。無視し続けてたら、嫌でもこちらが無視できない様にしたわけね? どこまで大事にすれば気が済むのよ。迷惑極まりないわ!!)
そして取り敢えず話を済ませた和典と清原を見送ってから、美子は一応秀明に連絡を取ろうと試みた。
しかしこれまでの意趣返しのつもりか、自分からの電話もメールも受け付けない設定になっている事が分かり、悔しそうに歯軋りする。
(どうあっても直接顔を合わせないと、まともに話をする気は皆無みたいね。良いわよ、そっちがその気なら、出向いてやろうじゃない!!)
そんな風に日々戦闘意欲を漲らせながら、美子は秀明から指定された日までを過ごした。