第27話 面倒臭い女
美子が台所で料理をしている一方で、寝室では秀明がこめかみに青筋を立てた淳に、みっちりと説教されていた。
「お前と言う奴は! 何でいきなり美子さんを、台所で押し倒してんだよ!?」
「……やりたくなったから」
視線を逸らしながら、如何にも面白く無さそうにぼそりと告げられた内容に、淳は相手の髪の毛を掻き毟りたくなった。
「お前……。本当に熱で脳細胞の半分がやられてるぞ! 幾ら彼女に本気で相手にして貰えない上に、他の男が纏わり付きそうだからって、拗ねるな! 怒るな! 切れるな! もう本気でダチを止めるぞ!?」
「…………」
ブスッとしたまま黙り込んだ友人を見て、常にはないその態度に、淳は本気で頭を抱えた。
(全く。俺がこのタイミングで顔を出さなかったら、どうなってたんだ? 怖過ぎて想像できん。最悪、美実に殺されてたぞ。本当に勘弁してくれ)
そして最悪の事態を想像して、淳は心底肝を冷やしていると、軽いノックの後、ドアを開けて美子が姿を現した。
「あら、ちゃんと大人しく寝てたのね。食べられるかどうか分からないけど、口に入れてみてくれる?」
「ほら、秀明」
彼女が何やらトレーに乗せて持って来たのを見た淳は、秀明を促して上半身を起こさせた。そして食べ難いかと考えて、九十度身体をずらしてベッド脇に座って床に足を下ろさせる。そしてその膝の上に持参したトレーを乗せた美子は、深皿に入れてある黄色い物体について、簡単に説明した。
「はい、すっぽんスープの卵雑炊。一応塩と生姜で味は付けてあるけど、足りなかったら小皿の塩や薬味を足してね。今、明日の朝の分を下拵えしながら、果物を用意してくるから」
「お願いします」
横に添えてある小皿の説明を済ませると淳が頷いたのを見て、美子はすぐにキッチンに戻って行った。そしてその間無言で深皿を見下ろしていた秀明が、ボソボソと恨みがましい口調で呟く。
「すっぽん……、絶対嫌がらせだ……」
「何ぶつぶつ言ってんだよ。ほら、さっさと食え」
半ば叱り付ける様にして淳がスプーンを握らせると、秀明はそれ以上ごねる事は無く、大人しく食べ始めた。そして黙々と食べているうちに、美子が同じ様な深皿を手にして寝室に戻って来る。
「ちゃんと食べられるわね。じゃあ食後にこれね」
殆ど食べ終えた状態の皿を見下ろして、美子が満足そうに言いつつ手元の皿を秀明に見せると、彼は若干当惑した様に美子を見上げた。
「桃缶? どうして?」
その問いに、美子は軽く片眉を上げながら、不審そうに問い返す。
「どうしてって……、病み上がりの時には、普通桃缶でしょう? それとも桃缶は黄桃じゃなくて白桃だとか、ふざけた事を言うつもりじゃないでしょうね?」
それを聞いた秀明は、真顔で首を振った。
「いや、俺の母も黄桃派だった」
「それは良かったわ」
「病み上がりに桃缶? そういう時は、パイナップルの缶詰じゃ無いのか?」
思わずと言った感じで淳が口を挟んだが、その途端二人が素早く彼の方に向き直り、揃って冷たい口調で吐き捨てる。
「貴様はそれでも日本人か」
「寝言は寝て言いなさい」
「何で缶詰一つで、そこまで言われなきゃならないんだよ!?」
当然淳は盛大に文句を言ったが、その叫びを二人は完全に無視した。
「この様子なら、これも全部食べられるわね。はい、どうぞ」
「…………」
美子は空になった深皿を床に置き、代わりに桃の入った器を秀明の前に置いたが、何故か秀明は無言で美子を見上げる。
「何? どうかしたの?」
「食べさせてくれ」
「……はぁ?」
真顔で淡々と言われた内容に、美子は盛大に顔を引き攣らせ、淳は慌てて頭を下げた。
「美子さん、すみません! もう今のこいつは俺から見ても、もの凄く馬鹿になってるんで!」
「しょうがないわね……」
深々と溜め息を吐いた美子は、立ったまま再び器を持ち上げてフォークでドーム状の桃を一口大に切り分け、そのうちの一つをフォークに挿した。
「はい、あ~ん」
半ばやけっぱちでそう呼びかけながら、フォークを秀明の口元に持って行き、パカッと開けた口の中にそれを差し込む。すると桃を舌と歯で抜き取った感触があった為、美子が彼の口からフォークを抜き取ると、半ば呆然とした表情の淳と目が合った。
「……マジでするとは思わなかった」
そんな理不尽過ぎるコメントに、美子は本気で腹を立てた。
「さっき、あなたがしろって言ったんじゃない!」
「いや、俺は『こいつが馬鹿な事を言ってすみません』の謝罪のつもりで言ったわけで、『して下さい』とお願いしたつもりでは」
「次」
そこで桃を咀嚼し終えたらしい秀明が、冷静にお代わりを要求してきた為、美子は無意識にフォークを掴んでいた右手を震わせた。
「本っ当にムカつくわね……」
「もう本当に、重ね重ね申し訳ありません!」
再び当事者の代わりに土下座して詫びを入れた淳に盛大に舌打ちしてから、美子は秀明のふてぶてしい顔にフォークを突き立てたい気持ちを懸命に堪えつつ、大人しく桃を食べさせてやった。
それからシンクも綺麗に片付けてから、美子は大人しく寝ていた秀明の元にやって来て、明朝の食事についての説明をした。
「じゃあ明日の朝用に、具沢山の煮込みうどんの汁を作っておいたから、朝に軽く沸騰させてから冷蔵庫に入れてあるうどんを入れて、弱火で数分煮込んでから食べて頂戴。思った以上に元気そうだから、帰らせて貰うわ」
それに秀明は素直に頷いて、傍らの友人を見上げる。
「分かった。助かった。淳?」
「ああ、美子さんは俺が責任を持って、きちんと家まで送り届けるから。お前はちゃんと寝てろよ? 鍵は今度返す」
そう言い聞かせて、淳は美子と連れ立ってマンションを出た。そして淳が玄関のドアを施錠して歩き出したのを見て、美子はエレベーターの前で尋ねてみた。
「さっきの彼女は持って無かったみたいだけど、小早川さんはここの合鍵を持っているんですね」
それを聞いた淳は、丁度やって来たエレベーターに乗り込みながら、不思議そうな顔で尋ね返す。
「普段は持ってませんが、土曜日に電話で様子を聞いて無理やり医者に連れて行った時に、室内であいつが意識不明になってたら拙いと思って、帰る時に借りておいたんです。あの……、『さっきの彼女』って何の事ですか?」
激しく嫌な予感を覚えた淳だったが、不幸な事にその予感は的中した。
「来た時に、玄関前で女性に出くわしたのよ。日曜にデートをすっぽかされて、仕事帰りに様子を見に来たんですって。なかなか見栄えのする美人だったわ」
「そうですか……」
(何て間の悪い。確かにあいつが、未だに何人かの女と切れていないのは知ってるが)
美子が小さく肩を竦めて、淡々と告げたまさかの鉢合わせ話に、淳は全身から冷や汗を流した。そんな淳の心中を知ってか知らずか、美子はマンションの一階に足を踏み出しながら、他人事の様に話を続ける。
「人の事を、上から下までじろじろ眺めて鼻で笑ってたけど、あの人が出て来た時に勢い良く開けたドアで全身を強打されて転がった挙げ句、『失せろ』とか言われてたわ。とんだ鬼畜っぷりよねぇ、いっそ感心しちゃうわ」
「口の悪い奴ですみません」
「あら、小早川さんが謝る筋合いでは無いでしょう?」
神妙に謝罪の言葉を口にした淳を振り返った美子は、おかしそうにクスクスと笑ったが、淳は愛想笑いも出来なかった。
(駄目だ。ここで下手に秀明を庇う発言をしようものなら、容赦なく俺まで切り捨てられる)
ここで気を緩めたら更に状況が悪化する気がして仕方が無かった淳は、失言を防ぐ為に美子の顔色を窺いながら口を噤んだ。それからは美子も無言のまま歩き続け、淳が近くのコインパーキングに彼女を誘導した。
「あの……、美子さんは、秀明から具合が悪い事を聞いて、様子を見に来てくれたんですか?」
停めておいた愛車に彼女を乗せて藤宮邸に向かって発進してから、淳は恐る恐る事情を尋ねてみると、助手席の美子は前を見たまま素っ気なく否定してきた。
「いいえ。父から連絡を貰ったの。社内で、土曜日から寝込んで休んでいる話を聞いたから、様子を見て来て欲しいと言われて」
「……そうでしたか」
(てっきり本人から泣き言でも聞いて、様子を見に来てくれたのかと思ったんだが……。俺が甘かったな。あいつが女に弱味を見せる筈もないか)
少し気落ちしながら淳が運転を続けていると、少ししてから美子が淳の方に顔を向けながら口を開いた。
「ねえ、小早川さん」
「何でしょうか?」
「今夜は帰りたくないわ」
「は、はあぁあ!?」
驚きのあまり思わず助手席に顔を向けた上、手に変な力が入って盛大に蛇行した車は、後続車や並走車から派手にクラクションを鳴らされた。それで瞬時に我に返った淳は慌てて前方に向き直ってハンドルを切ったが、動揺著しい彼の横顔に、美子の冷たい視線が突き刺さる。
「……危ないわね」
「すっ、すみません!」
「そう言われたら、小早川さんだったらどうするのかって話をしようとしてたんですけど?」
「そ、そうですか……。俺だったら相手を見て判断しますが」
前を見ながら、未だ狼狽しつつも何とか言葉を返した淳だったが、それを聞いた美子は不愉快そうに眉根を寄せて感想を述べた。
「美実以外の女に、随分言われ慣れているみたいね」
体感気温は氷点下のその声音に、カーブに差し掛かっていた為に淳は横目で精一杯訴える。
「いいいいえっ!! 一般論を口にしただけで、決してその様な事はっ!」
「軽い冗談です」
(頼むから、この場面でそんな冗談は止めてくれ!!)
サラッと流してしまった美子に、淳は心の中で盛大な悲鳴を上げたが、彼女の話は容赦なく続いた。
「それで、今日“あれ”から聞いたんだけど……」
「何を、でしょうか?」
(秀明……。お前とうとう“あれ”呼ばわりだぞ。どこまで株を下げてやがるんだ。もうろくでもない話の予感しかしない)
何やら思わせぶりに黙り込んだ美子に、淳は戦々恐々としながら話の続きを促してみると、美子は淡々とある事について言い出した。
「“あれ”が家に出向いて、私の父に改めて交際を申し込んだ時、『遊びなら殺すし、本当に結婚する気なら婚前交渉禁止だ』と言われたそうなの」
「はいぃ!?」
ぎょっとして思わず助手席に顔を向けてから、慌てて前方に向き直った淳を見て、美子は静かに問いかけた。
「あなたがこれまで家に来た時、父からそんな事を言われた覚えは?」
「いえ、全く」
「それなら良かったわね、父に殺される心配が無くて。美実にとっくに手を出してるのは知ってるわ」
「はぁ、どうも……、恐縮です」
容赦のない指摘に淳は身の置き所が無くなったが、次の美子の台詞を聞いて、本気でハンドルに頭を打ちつけたくなった。
「それを不愉快そうに喋った後、『最後までやらなきゃセーフだから、ちょっと味見させろ』って言いやがったのよ。あのろくでなしは」
(全っ然フォローできねぇぞ、秀明!)
本当にろくでもない話に、完治したら絶対一発はぶん殴ると固く決意した淳だったが、次の美子の台詞で思わず笑いを誘われた。
「それで思わず足で抵抗して、あの状態だったってわけ。取り敢えず助かったわ。ありがとう」
「いえ、どういたしまして。しかしそこで『思わず足で』って台詞が出てくるのが、美子さんらしいですね」
口元を緩めて感想を述べた淳だったが、その和やかな空気は長くは続かなかった。
「そういう場合って、普通は大人しく味見されるものなのかしら?」
「……え?」
(という事は、美子さん的には、手を出されても構わなかったって事なのか? いや、それにしては……)
独り言の様に口にされた言葉に、淳は一瞬聞き間違いかと思ってから、慌てて横目で美子の様子を窺った。そして一見いつも通りに見える美子の真意を探ろうとしたが、急に彼女は不機嫌そうに顔を背けて面白く無さそうに告げる。
「……悪かったわね。男性経験が皆無の、面倒臭い女で」
そのまま窓の外に視線を向けて微動だにしない彼女を見て、予想外に怒らせてしまったかと淳は焦って声を上げた。
「いえいえいえ、大変結構なんじゃないでしょうか!」
「…………」
しかしそのまま黙り込み、もう完全に何を考えているか分からなくなった美子の横顔を見て、淳は本格的に頭痛を覚えた。
(これ以上、迂闊に下手な事が言えん。秀明、お前頭を完全に元に戻してから、何とか自分で始末を付けろよ!?)
どうして俺が八つ当たりされて神経を擦り減らす羽目になるんだと、淳は内心で腹を立てつつも安全運転を心掛けて、無事藤宮邸に美子を送り届けてから去って行った。
「ただいま」
「お帰りなさい、美子姉さん」
「先に食べてたからね。江原さん、大丈夫だった?」
「もう治りかけていて、無駄に元気だったわ」
「そう、良かった」
「二人で心配してたの」
食堂に顔を見せた美子に、出かける前に秀明の話を聞いていた美野と美幸が、少し心配そうに尋ねてくる。それに微妙に引き攣った笑顔で応じていると、安堵したらしい美野が笑顔で立ち上がった。
「美子姉さん、座って。今姉さんの分を揃えるから」
しかし美子は一瞬考えてから、美野に断りを入れる。
「やっぱり夕飯は要らないから。もう寝るわ。おやすみなさい」
「え? おやすみなさいって……」
「美子姉さん?」
素っ気なく就寝の挨拶をして、夕飯を食べずに食堂を出て行った美子を、二人は唖然として見送った。そして自室に入った美子は、ドアを後ろ手で閉めると同時に、それに背中を預けながらずるずるとその場に座り込む。
「……何を考えてるのよ。あの馬鹿」
恨みがましく呟いた後、少しの間ボソボソと立て続けに文句を言った美子は、バッグから自分の携帯を取り出して秀明の携帯の番号とメルアドの着信拒否設定を、無言のまま済ませた。そしてバッグと同様にそれを床に放り出した彼女はまっすぐベッドに向かい、着替えもせずに頭から布団を被って、未だ混乱している自分の思考から逃れる様に、眠りに付いたのだった。
そんな見舞い騒動から、約半月後。自宅マンションに後輩を招き入れた秀明は、手元の書類や写真を睨み付けながら、唸るようにして確認を入れた。
「光……。ここに書いてある内容は、本当だな?」
それを聞いた篠田は、如何にも心外と言わんばかりに言い返す。
「当たり前じゃないですか! 俺がどれだけ駆けずり回って、かき集めたと思ってるんですか?」
「その様だな」
その訴えに、秀明は眉間の皺を深くしながら書類を捲って確認作業を続けたが、そんな彼を篠田は上機嫌で褒め称えた。
「いやぁ、しかしこんな美味しいネタを嗅ぎ付けるなんて、さすがは白鳥先輩。先輩からのネタで、白鳥議員の時にはかなり儲けさせて貰いましたが、これもなかなかですよね?」
「そうだな。しかしお前の鼻の効き具合もなかなかだぞ、光。正直この短期間で、ここまで調べ上げられるとは予想していなかった」
「それが、偶々幾つかの幸運に恵まれまして。しかしこのネタ、倉田議員の事務所に持ち込んでも良いですが、これはどちらかと言うとマスコミの方ですかね? うん、交渉相手と話の持って行き方によっては、かなりの金になりそうだ」
ウキウキと今後の算段を立てる篠田の台詞を耳にした秀明は、ピクリと片眉を上げてから重々しく言い聞かせた。
「盛り上がっている所を悪いが、これを表に出すつもりは無い。調べて貰って悪いが、そのつもりで居てくれ」
その宣言に、篠田は忽ち驚愕の顔付きになる。
「はぁ? 何の冗談ですか。倉田議員を脅すネタが何か無いか、探ってたんじゃ無いんですか!?」
「それはちょっと違うんだ。誤解させていたなら悪いが、とにかくこれはお蔵入りだ」
「そんな殺生な……」
未練がましく訴えた篠田だったが、秀明が心の底から申し訳無さそうな顔をしながらも、この件に関しては一歩も引かない気迫を醸し出していた為、これまでの経験上引き際を心得ていた彼は、あっさり両手を挙げて降参した。
「そう言えば、倉田議員は彼女の縁戚でしたね。了解しました。それは先輩の好きにして下さい。データのコピーは廃棄しておきます。今回は、先輩に一つ貸しですね」
「悪いな」
軽く頭を下げた秀明を見て、無念そうな顔をしていた篠田は、小さく溜め息を吐いてから幾分楽しそうに笑った。
「そういうレアな先輩の困り顔を見られただけで、良しとしますよ。それに先輩に貸しを作るなんて、滅多にできる事じゃありませんからね。ただし、かかった経費は請求しますし、貸した借りは後から倍にして返して下さいよ?」
「ああ、勿論だ。経費は色を付けて払うし、借りは十倍にして返してやる」
「期待してます」
「取り敢えず前払いだ。未開封のマッカランの五十年物が有るんだが、持って行くか?」
「勿論、頂いていきます!!」
途端に満面の笑顔になって勢い良く頷いた篠田に、秀明は苦笑しながら立ち上がり、土産に渡すべくそれをしまってある戸棚に足を向けた。
「全く、ふざけた男だな。こんな迂闊な男が、彼女の従弟とは……」
そしてホクホク顔の篠田を見送って一人になった秀明は、如何にも不愉快そうに酒を飲みつつ、再度書類を眺めた。そして携帯を引き寄せて、美子に電話をかけてみる。しかし相変わらずの反応だった為、すぐに耳から離して静かにテーブルに戻しながら、誰に言うとも無く呟いた。
「相変わらず繋がらないか。あれで、完全にへそを曲げたらしい」
自分の側に非がある事はきちんと認識していた為、秀明は直接美子に文句を言うつもりは無かったが、この間の鬱屈した思いは、真っ直ぐ目の前の不幸な獲物へと向けられる事になった。
「気に入らんな……」
そして何枚かある写真のうち一枚を取り上げた秀明は、憂さ晴らしの様に無言で縦に二つに裂いてから乱暴に丸め、離れた場所にあるゴミ箱に向かって放り投げた。