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半世紀の契約  作者: 篠原 皐月


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第26話 面倒臭い男

 正月気分もそろそろ抜けようかと言う時期の、月曜日の午後。自宅の固定電話にかかってきた電話に出た美子は、かなり当惑する事になった。


「美子、ちょっと頼まれて欲しいんだが」

「何? お父さん。忘れ物か何か?」

「江原君なんだが、今日休んでいるんだ。会議に出て来ないから部署に尋ねたら、土曜日から風邪をひいて、こじらせて寝込んでいるらしい」

「あら……」

(細菌だろうがウイルスだろうが、弾き返すか捻り潰すイメージしかないんだけど、意外ね)

 咄嗟に言葉が出なかった美子が黙って話を聞いていると、昌典は予想外の事を言い出した。


「彼は一人暮らしの筈だし、面倒を見てくれる家族もいないだろうから、食べる物を持ってちょっと様子を見に行ってくれないか?」

 その依頼に、美子は幾分皮肉っぽく言い返す。

「一社員の事を、随分気にかけるのね?」

「彼の事は、深美も随分気に入っていたからな。少し位世話をしても良いだろう」

 全く動じることなく言ってきた昌典に、美子は小さく溜め息を吐いて応じる。


「分かったわ。早めに夕飯の支度を済ませてから、夕方彼の様子を見に行って来るから」

「頼んだぞ」

 それほど抵抗なく請け負ったものの、現実的な問題で美子は一人考え込んだ。


(土曜日からとなると、丸二日? まだ熱が下がっていないのかしら? 回復期だったら良いけど、困ったわね。今の体調が分からないと、どんな物を持っていけば迷うわ……)

 仕事で忙しい筈の父に電話をかけて尋ねるのも、かけても詳細までは知らないだろうと思って躊躇われ、美子は直接秀明にメールしてみた。しかし数分待っても返信が無かった為、情報収集を諦める。


「応答なし、か……。熟睡してるなら電話をかけて起こすのは悪いし、取り敢えず適当に見繕って行ってみましょう」

 そして美子は手早く必要な物を買い揃え、夕飯の支度も済ませてから、帰宅した美野や美幸に後の事を頼んで、必要な物を持って秀明のマンションへ出かけた。


 住所だけは把握していたそこに迷わずに到着した美子は、入口を通ってエレベーターに向かい、目的階まで上がった。そして廊下に足を踏み出した美子は、進行方向を見て軽く首を傾げる。

「……あら?」

 その視線の先には、美子が目指すドアの前で「ちょっと、秀明! 居ないの?」と声を張り上げつつ、玄関ドアを叩いたり、インターフォンのボタンを押し続けている女性の姿があった。それに色々思うところがあったものの、美子は何食わぬ顔で足を進める。


「……誰? あなた」

 さすがに至近距離まで来た相手に気が付いたらしく、その目鼻立ちの整った女性が不審そうに尋ねてきた為、美子は淡々と答えた。

「こちらの住人を訪ねて来たんですが、あなたはお知り合いですか?」

「ええ、恋人だけど。あなたは? 単なる知り合い?」

 堂々と宣言し、更に美子を上から下までジロジロと眺め回した挙句、優越感に満ちた眼差しを向けて来た相手に、美子は溜め息を吐いて言い返した。


「そうですね。ですが合鍵の一つも貰っていない、自称『恋人』さんよりは、よほど上手く人を使えると思います」

「何ですって?」

「取り敢えず邪魔なので、そこをどいて下さい」

「ちょっと! 何するのよ!?」

 途端に相手は目つきを険しくしたが、美子は彼女を押しのけてドアの横に設置してあるインターフォンの前に立った。そしてドアの前でムッとしている彼女には構わず、バッグから携帯を取り出す。


(さてと。もの凄く馬鹿馬鹿しいけど。これで起きなかったら、この場で登録情報を抹消してやるわ)

 表面上とは裏腹に、かなり腹を立てながら美子が秀明の携帯に電話をかけると、暫く待たされたものの不機嫌そうな声が返ってきた。


「……何だ?」

 それに美子が、面白がる様な口調で応じる。

「あら、ごめんなさい。ひょっとして寝ていた? ここで一つクイズです」

「ふざけるな。切るぞ」

「今私は、どこのお宅の玄関前に居るでしょうか?」

 そう言い終るや否や、美子はインターフォンの呼び出しボタンを押すと、その場に「ピンポ~ン」と言う軽やかな電子音が響いた。そして若干のタイムロスを生じさせながら、電話越しに同じ音が聞こえてくる。


「答えが分かったら、直接答えて」

 短く答えて問答無用で通話を終わらせた美子が、携帯をバッグにしまい込む。それから無言で待っていると、すぐにドアの向こうで焦った様に開錠する音が聞こえたのと同時に、もの凄い勢いでドアが開いた。そしてその前で待っていた女性にまともに激突し、当然の結果として彼女が廊下に転がる。


「きゃあっ! 痛っ!!」

「邪魔だ、五月蠅い。そんな所で何をやってる?」

 彼女の身体が邪魔でドアが全開にならなかった事で、パジャマ姿で出て来た秀明はドアの裏側を覗き見て不機嫌そうに顔を顰めたが、彼女は憤然として立ち上がりながらまくし立てた。


「何を、って! 秀明が昨日のデートをすっぽかしたから、心配して昨日から何度も電話をかけたけど繋がらなくて。やっと朝に電話が繋がって寝込んでるって聞いたから、仕事帰りに様子を見に来て」

「用は無い。失せろ」

 まともに話を聞く気も無いらしく、冷たく言い捨てた秀明を怒りの形相で見上げた女性は、手に提げていたビニール袋を彼に投げつけて走り去った。


「もう二度と来ないわよ! この最低野郎っ!!」

(激しく同感だわ……)

 彼女の捨て台詞に共感しながら、美子はたった今見事な鬼畜っぷりを披露してくれた秀明を、しげしげと見上げた。伸びたままの無精髭と、乱れた上に汗で額に張り付いている前髪で、どうやら熱を出して寝込んでいたのは本当らしいと分かったが、とても秀明を擁護する気分にはならなかった美子を、秀明が不審げに見やる。


「で? お前はどうしてここにいる?」

 その問いに、美子は思わず溜め息を吐いた。

「父に様子を見て来てくれって頼まれたの。あなた今日、会社を休んだんでしょう? とにかく、中に入れて貰える? ろくに食べてないと思うし、何か作るから」

「……分かった」

 一瞬顔を顰めたものの、気だるげに前髪をかき上げた秀明は場所を譲って玄関に入る様に促し、美子は廊下に落ちたビニール袋を拾って、秀明のマンションに上がり込んだ。


(レトルトのお粥に、スポーツドリンクとゼリー飲料か。彼女なりにコンビニで買える物で、それなりに考えてくれた筈なのに……)

 廊下を歩きながらさり気無くビニール袋の中を覗き込み、その中身を確認した美子は、多少嫌な思いをさせられたものの相手の女性に軽く同情すると同時に、秀明に対する嫌悪感を募らせた。そして部屋の配置から1LDKの間取りらしいと判断しながらキッチンに入った美子は、台の上に持参した食材を置き、床に置いたバッグの中からエプロンを取り出して身に着け、戸棚や冷蔵庫の扉を開けて確認し始める。


「さて、作りますか。……だけど、やっぱりろくな食材は無いわね。ご飯も、念の為に炊いてきたのを持って来て良かったわ」

 独り言を呟きながら頭の中で算段を立てていた美子に、ここで声がかけられた。


「……美子」

「気安く名前を呼ばないで欲しいんだけど?」

 てっきりすぐ寝室に戻っていると思っていた秀明が、キッチンの入口のドアに背中を預けてもたれかかる様に佇んでいた為、美子は渋面になりながら言い返した。しかし彼女以上に苦々しい顔付きで腕組みをしていた秀明は、常よりも若干低い声で確認を入れてくる。


「本当に、社長がお前に『様子を見に行け』と言ったのか?」

「そっき、そう言ったけど?」

「あの陰険親父……」

 美子が不審そうに見返すと、秀明は組んでいた腕を解いて拳を握り、舌打ちしながら苛立たしげに背後のドアを叩いた。その行為に、美子ははっきりと軽蔑の視線を送る。


「何? 父は親切心から言ったのに、そんな事を言うならもう帰らせて貰うわ」

「誰が帰すかよ!!」

「え? ちょっ……」

 本気で腹を立てた美子が、食材をそのままに帰ろうと床に置いてあるバッグに屈んで手を伸ばしたところで、素早く距離を詰めた秀明に肩を掴んで突き飛ばされ、床に仰向けに転がった。


「いったぁ! いきなり何するのよ!?」

 流石に盛大に抗議の声を上げた美子だったが、秀明はすかさず彼女の身体を跨ぐ様に四つん這いになり、更に上から両手で彼女の両手首を押さえて拘束しながら怒鳴りつける。


「ふざけるなよ!? 狼の巣穴に食材付きで羊を送り込むなんて、どんな嫌がらせだ。人の足元見やがって!!」

 そこで漸く何やらまずい状況になったのを悟った美子は、なるべく相手を刺激しない様に言葉に気を付けながら、先程の発言について尋ねてみた。


「取り敢えず狼と羊の関係は分かったけど、それがどうして嫌がらせになるのよ? 狼の巣穴に虎を送り込んだら、文句なく嫌がらせでしょうけど」

 それに対し、秀明は軽く歯軋りしてから、押し殺した声でとある事情を説明した。


「あの性悪親父、お前との交際について形だけ申し込みに行った時、『遊びで美子に手を出したら殺すし、本気なら婚前交渉は禁止だ』と、笑顔でほざきやがったんだ」

「はい? どうして父がそんな事を?」

 思わず今現在の状況も忘れて、美子が目を丸くしながら問い質すと、秀明は忌々しげにその理由を告げた。


「同じ条件を、社長がお前の祖父さんに出されて、それを律儀に守ったそうだ。だからお前もそうしろとさ!」

「……祖父が意外に意地悪で心が狭かった事と、父が結構根に持つタイプで辛抱強かったのが再認識できたわ」

(お父さん……、要するにお祖父さんにされた分を、この人に八つ当たりしてるのね)

 思わず遠い目をしてしまった美子だったが、それを見下ろしながら秀明は盛大に舌打ちした。


「全く……、俺が手を出せないのを知っててあの親父、今頃絶対、社長室で残業しながらほくそ笑んでやがるぞ!!」

「……そうかもね」

(そうすると……、この人、本気で私との結婚を考えてるの? でも最近はそんな事、全然言われて無いし、第一さっきの様な人だって居るじゃないの)

 釈然としないまま美子が色々考え込んでいると、秀明がその瞳に剣呑な色を浮かべながら、忌々しげに宣言した。


「止めた。馬鹿馬鹿しい。誰がくそ真面目に、言う事を聞くかってんだ。送り込んだのはそっちなんだから、味見ぐらいさせて貰うぞ」

「ちょっと! 何する気よ!?」

 何やら勝手に割り切ったらしい秀明は、美子の手首を掴んだまま床に両肘までを付けて、一気に距離を詰めて来た。美子は思わず顔色を変えて非難の声を上げたが、秀明は如何にもふてぶてしい顔で言ってのける。


「要するに婚前交渉禁止と言っても、最後までやらなきゃセーフだろ」

 秀明が当然の如く主張してきた内容に、美子は呆れるのを取り越して本気で怒った。

「勝手に決めないでよ!! しかも何馬鹿な事を、真顔で言ってるわけ!?」

 そして素早く右足を折り曲げ、膝から下で秀明の身体を上に押し戻しつつ、左足で彼の太腿や膝裏をドカドカ叩いて抵抗し始める。


「おい、この足退けろ、邪魔だ。それに蹴るな。本当にお前は、足癖が悪いな」

「女癖が悪いあんたにだけは、言われる筋合いは無いわっ!!」

 そう美子が叫ぶとほぼ同時に、玄関の方から鍵を開ける音が聞こえて来た。


「え?」

「何?」

 そしてそのままの体勢で二人が固まっている間に、ビニール袋片手に大声で寝室に向かって呼ばわりながら、上がり込んだ淳が姿を見せる。


「お~い秀明~? まさかくたばって無いよな~? 食いもん持って来たぜ? 熱はちゃんと下がって……」

 寝室に向かう途中で、開けっ放しになっていたキッチンのドアから何気なく中を見やった淳は、その中の光景を見た途端固まった。そして淳と目が合った瞬間、二人は同時にそれぞれの主張を繰り出す。


「淳、邪魔だ。とっとと失せろ」

「ここで見て見ぬふりなんかしたら、未来永劫、我が家に出入り禁止よっ!!」

 そして、双方の意見を耳にした淳の判断は早かった。


「ぐはぁっ!」

 微塵も迷わず淳は秀明の脇腹に容赦のない蹴りを入れ、友人を文字通り蹴り転がした。秀明はその衝撃と痛みで、少し美子から離れた所で脇腹を押さえて蹲る。その隙に美子はスカートの乱れを整えつつ身体を起こして床に座り込んだが、その前で淳が持って来た袋を放り出して、勢い良く土下座した。


「こいつに代わって謝ります。大変、失礼を致しました!」

「てめっ……、淳。俺を殺す気か……」

「寧ろいっぺん死ね! この馬鹿がっ!!」

 呻き声を出した秀明を、顔を上げて盛大に叱りつけた淳は、再び床に頭を擦り付ける様にして謝罪した。


「すみません、美子さん。こいつ土曜から高熱が出てて、頭のネジが何本か抜け落ちてる状態なんです。ここは一つ俺に免じて、勘弁してやって下さい」

 その訴えを聞いた美子は、冷え切った目を秀明に向けてから、呆れ気味に応じた。


「……確かに、脳細胞の半分位が、一気に機能停止した様な感じね」

「そうですね」

 他に言い様も無く淳が冷や汗を流していると、早々と気持ちを切り替えたらしい美子が、冷静に指示を出した。


「取り敢えず邪魔なので、あの病人もどきをベッドまで連れて行って、寝かせてくれませんか? これから食べる物を準備しますから」

「お任せ下さい」

 真顔で請け負った淳が早速立ち上がり、秀明に歩み寄ってかなり強引にその身体を引き上げる。そして肩を貸しながら、秀明と一緒に寝室に向かって歩き出した。


「ほら、行くぞ。キリキリ歩け、このど阿呆が」

「病人になんて言い草だ。少しは労われ」

 心底呆れているらしい淳に、ぶつくさ文句を言いながら秀明は連行されて行き、その姿が完全に見えなくなってから、美子は相変わらず床に座ったまま、両手を付いて茫然自失状態で呟いた。


「……びっくりした」

 衝撃のあまりそのまま数分経過してから、漸く我に返った美子は、何とか気持ちを切り替えてやるべき事に意識を集中する。

「取り敢えず、作りましょうか」

 そして手早く調理器具と食材を揃えた美子は、それから少しの間、調理に専念する事にした。


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