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第23話 三白眼の黒兎

 明るい照明の下で自然に目を開けた美子は、見慣れない天井を見て、あまり働いていない頭で現状を考えてみた。

(ええと……、ここはどこ?)

 目を擦って軽く眉根を寄せた美子に、ここであまり悪いと思っていない様な声音で、声がかけられる。


「ああ、起きたな。悪いがそろそろ身支度をして貰えるか? 近くにタクシーを呼んで、家まで送っていくから」

「……え? は、はい!」

 その声を聞いて一瞬にして覚醒した美子は、慌てて起き上がりつつ、自分の服装を確認した。そして寝た時と変わりない長襦袢姿な事に密かに安堵しつつ、先程の内容を頭の中で反芻して、恐る恐る反論してみる。


「あの……、タクシーを拾って、一人で帰れるけど?」

 その問いかけに、既にワイシャツとスラックスを身に着け、ネクタイを締めていた秀明は、苦笑いしながら告げてきた。

「社長の手前、一人で帰すのはな」

「お父さんには、美恵達が誤魔化してくれるって言ってたじゃない?」

「それとこれとは話が別だ」

 真顔で言い切られてしまった美子は、納得しかねる顔付きになって首を傾げる。


「そういう物なの?」

「そういう物だ。大人しく送らせろ」

「はぁ……」

 正直、理屈が良く分からなかった美子だが、どうやら本当に家に帰るまでは放して貰えないらしいと察した為、大人しく起きて顔を洗う為にバスルームへと向かった。そして化粧をして着物を身に着けて荷物を確認した美子は、手慣れた様子でドアの横に設置してある精算機で支払いを済ませた秀明の後に付いて、大人しく歩き出した。


 秀明は予め場所と時間を指定してタクシーを呼んでいたらしく、幹線道路の歩道に出て佇むとすぐにタクシーが目の前に静かに停車し、二人はそれに乗り込んで藤宮邸へと向かった。しかし秀明が鞄から何かの書類を出して黙って目を通し始めたのと、美子にしてみれば改めて話題に出す様な事も無かった為、車内が静まり返ったまま、そのタクシーは走り続ける。

 そして藤宮邸の門前にタクシーが停車した時、秀明は漸く書類から顔を上げた。


「それじゃあな」

「お世話様でした」

 短く声をかけてきた秀明に、美子も些か素っ気なく頭を下げて、車外へと降り立つ。再び走り出したタクシーの後部座席で一人になった秀明は、何気なく空席になった隣を見ながら、どうでも良い事に思い至った。


(考えてみれば……、女と一緒にホテルに入って、何もしないで出たなんて初めてだな)

 そんな事を考えて、「俺らしくない」と思わずくすくすと笑い出した秀明は、何とか笑いを抑えて窓の景色を眺めながら呟く。


「どうやら今朝は、俺にとっては記念すべき朝らしい」

 自嘲気味な呟きを含んではいたが、どこか満足げに微笑んだ秀明は、それからすぐに真顔になって再び手元の書類に目を通し始めた。


 一方で、早朝である事もあり、家族を起こさない様に慎重に家の中に入って足を進めた美子は、自室に辿り着くなり、一気に緊張が解けて床にへたり込んだ。

「疲れた……。一体、何だったのかしら?」

 茫然と座り込む事、数分。ここで美子は掛け時計で時刻を確認し、慌てて立ち上がった。


「いけない、ぼんやりしてる暇なんかないわ。急いで朝食の準備をしなきゃ。お父さんは今日まで仕事だし」

 それから猛烈な勢いで着物を脱いで片付け、手早くセーターとジーンズを着込んで台所へと向かった美子は、そのままの勢いでエプロンを付けて朝食の支度をしていると、いつもよりも早い時間に起きて来た美恵が、台所の入口で顔を顰めつつ声をかけてくる。


「……姉さん? 何で居るのよ?」

「居たら悪いの? 暇なら、その茹で上がった物をだし汁で和えて頂戴」

 どうやら自分の代わりに朝食を作るつもりでいたらしい美恵が、思わずと言った感じで憎まれ口を叩いてきた為、美子もつい言い返してしまった。(こういうのが悪いのよね)とは思ってはいるものの、つい喧嘩腰になってしまう口調を美子が反省していると、美恵も憮然としながらも大人しく言う通りに手伝い始める。


「どうして美子姉さんが、朝ご飯を作ってるわけ?」

「じゃあ明日は、美実が作ってね。糠漬けと果物を、人数分切ってくれるかしら?」

 不審そうな顔で台所に顔を見せた美実に、すかさず美子が用事を言いつける。ここで逆らっては駄目だと瞬時に判断した美実は、大人しく包丁を握って切り始めた。


「え? どうして美子姉さんが……」

「朝から、幽霊を見た様な顔をしないでくれる? もうすぐご飯にするから、お茶碗とお皿と小鉢を人数分揃えてね」

 台所の入口で驚愕の表情で固まった美野に、美子は溜め息しか出なかった。そして美野も大人しく手伝い始めると、ひょっこりと美幸が姿を現す。


「あれ? 美子姉さん、昨日帰って来てたの? 予定、聞き間違ったかな……」

 首を捻っている美幸に、美子は怒鳴りつけたい気持ちを堪えつつ、押し殺した声で美幸に声をかけた。

「美幸……、ちょっと来なさい。皆、後は良いわ。ご苦労様」

 美幸の横をすり抜けて美子が廊下を歩き出すと、彼女は大人しく後ろに付いて歩き出した。そして二人で美子の部屋に入ってから、美幸が不思議そうに尋ねる。


「美子姉さん、何?」

 そこで美子はビニール袋に入れて持って帰って来た紙袋を取り出し、美幸に向かって差し出した。、

「これは何?」

「あれ? 使ったの? じゃあやっぱり泊まって来たんだよね?」

 きょとんとして尋ね返した美幸に、美子は忽ち怒りの形相になった。


「使ってません!! 大体中学生が、こんな物をどうやって入手したの!? 通販? 今度からあなたに届いた物は、全て開封検品するからそのつもりでいなさい!!」

「えぇ!? それってプライバシーの侵害!」

「お黙りなさい! さっさと質問に答える!!」

 盛大に訴えた美幸だったが、美子は問答無用で叱り付けた。それに美幸が堂々と言い返す。


「それはお店で買ったの! 怪しげな所じゃないもの!」

「中学生にこんなのを売るなんて、どんな店よ!」

「だから、ちゃんとした所だし! 店員のお姉さんに『奥手の姉が男の人と初お泊まりなので、男心をくすぐる物を、この予算内で選んで貰えますか?』ってお願いしたら、『まあ! お姉さん思いなのね。分かったわ、大サービスしちゃう』って言ってくれて、随分おまけして貰ったのよ?」

 真顔で主張した美幸だったが、ここで美子の顔が盛大に引き攣り、怒りの声を上げた。


「何を馬鹿な事をしてるの! こんなくだらない物に使うなら、暫くお小遣いは無しですからね!!」

「えぇぇぇっ!! 酷い! 美子姉さん、横暴!!」

「黙りなさい!! ご飯にするから、話はもう終わりよっ!」

 激怒した美子が足音荒く部屋を出て行くと、この間こそこそと様子を窺っていた美恵達が美子の部屋に入って来る。


「うぅ……、酷いよぅ。年始客が来ないから、今度のお正月はお年玉だって貰えないのに……」

 項垂れて涙ぐんでいる美幸と、美恵が袋から引っ張り出した物を交互に見ながら、彼女の姉達は溜め息交じりに感想を述べた。


「美幸、気持ちは分かるけど、これは無いと思うわ」

「まだ大人しい奴で良かったわよ。もっと際どいのだったら寒空の下、家から叩き出されてたから」

「しょうがないわね。何か欲しい物があったら、私が買ってあげるわ。姉さんの怒りが治まるまで、少し我慢しなさいね」

「うん……、美恵姉さん、ありがとう」

 そうして一気にテンションが下がった美幸を宥めつつ、美恵達は揃って食堂へと向かった。


 その日、一家の主たる昌典が食堂に顔を見せると、既に娘達は全員顔を揃え、朝食も揃えられて食べるばかりの状態になっていた。

「お父さん、おはよう。今日はだし巻き卵にしたわよ?」

「……ああ」

 いつもと同様にご飯茶碗や汁椀を目の前に揃える美子を、席に着いた昌典は何とも言い難い顔付きで見上げる。


「その……、美子?」

「何?」

 不思議そうに尋ね返した美子に、昌典は何か言いかけようとして、結局いつもと同じ台詞を口にした。

「いや……、何でもない。じゃあ食べるか」

「はい。いただきます」

 美子の挨拶に妹達も唱和し、藤宮家の朝の光景は、表面上はいつもと変わらない物だった。


 その後朝食を食べ終え、台所も片付け終わって一仕事終えた美子は、自室に戻ってバッグの中に入れてあった封筒を取り出した。

「さてと、手紙を読んでみましょうか」

 そして椅子に座った美子は、机の引き出しから鋏を取り出して慎重に端を切り、どきどきしながら中に入っている、折り畳まれた便箋を取り出す。


「どんな事が書いてあるのかしら?」

 そしてそれを広げた瞬間、真っ先に目に入って来た一文に、美子の目が丸くなった。


『美子。困った事に、秀明君は三白眼の黒兎なの』

「……はぁ? いきなり、何?」

 全く予想外だった言葉の羅列に、美子は呆然となりながらも目で文章を追った。


『見た目はそんなに悪くないんだから、お愛想振り撒いて耳と尻尾を揺らしていれば、皆に可愛がられる筈なのに、世の中を斜めに見ちゃってて、それが出ている目つきの悪さで台無しになっているのよね』

「世の中を斜めに見てるとかは、納得だけど……」

 頭痛を覚えながら、思わず考えを声に出してしまった美子だったが、気を取り直して読み続けた。


『だけど誰かが構ってくれないと、寂しくなって死んじゃうから、狼の皮を被って周りにちょっかいを出して、驚かせては喜んでいる困った子なのよ』

 そこまで読んで、美子は両手で便箋を持ったまま、がっくりと項垂れる。

「お母さん……、狼の皮を被ってるんじゃなくて、狼そのものだと思うんだけど? それに構って貰えないと死んじゃうって、ありえない……」

 自分の母親は何をどう考えていたのかと、正気を疑いかけていると、次の文で美子は盛大に溜め息を吐いた。


『だから美子に、秀明君の躾をお願いしたいんだけど』

「あのね……、躾って何?」

 思わず突っ込みを入れた美子だったが、誰も答えてくれる者はなく、静かな室内に彼女の声が虚しく響く。


『妹が多いから、美子にはお手の物でしょう? 良い事をしたら誉める。悪い事をしたら叱る。基本的な事で良いから。大丈夫。まだまだ矯正は効くわ』

「……狼皮の兎の躾なんて、やった事は無いわよ」

 妙に自信ありげな書き方に、美子はふて腐れた様に呟いた。そして早くも、深美の残した文章が終わりを迎える。


『それじゃあ、後の事は宜しく。秀明君と仲良くね』

「……ええと、これだけ?」

 バサバサと便箋を捲っても、他に書いてあるものは見当たらず、そもそも最後に日付と署名がある事から、そこで終わりだと明白になっている事で、美子は半ば呆然となった。


「殆ど……、と言うか、全部あいつに関する事じゃない。何なのよ、これ。本当に私宛?」

 納得いかない顔付きで黙り込んだ後、美子は不意に表情を緩めて、吹っ切れた様に小さく笑った。

「まあ、良いわ。でも三白眼の黒兎って……」

 そう呟いて「ぷふっ」と小さく噴き出した美子は、笑いを堪えながら携帯を手に取った。


「せっかくだから、登録名を『黒兎』にしちゃいましょう」

 そう言って秀明の登録名を『黒兎』に訂正した美子は、これで着信がある度に笑えるだろうなと思いながら「これで良し」と満足げに呟いたのだった。



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