第2話 両親の思惑
「美嘉叔母さん!」
「あら、美子ちゃん。早かったわね。まだ時間があるから、ゆっくりしてても良いのよ? ……あら、白鳥さんは?」
足早にホテルのロビーまで戻って来た美子は、全面ガラス張りのラウンジで談笑中の美嘉を発見するやいなや、鋭めの声で呼びかけた。それに反応して笑顔で振り返った美嘉が、怪訝な顔で自分の周囲を見回した事で美子は我に返り、慌てて自分を宥める。
(落ち着くのよ。こんな人目の有るところで、喚き散らす訳にはいかないんだから)
そして軽く息を吸って呼吸を整え、気持ちを落ち着かせた美子は、叔母達に向かって静かに詫びを入れた。
「叔母さん、田名部様。誠に申し訳ありませんが、今回のお話は無かった事にして下さい。それでは失礼します」
「え?」
余計な事は一言も口にせず、優雅に一礼し終えた途端、美子は踵を返してドアに向かって歩き出した。それを女二人は呆気に取られて見送ったが、付き添い人の立場を思い出した美嘉が慌てて友人に断りを入れる。
「あ、美子ちゃん、待って! 佳代さん、ごめんなさい。私、ここで失礼しますね」
「え、ええ……」
そして友人が慌ただしく姪を追いかけていくのを見送りながら、佳代は納得のいかない顔付きになって呟いた。
「美子さん、どうしたのかしら? それに白鳥さんも居ないなんて、一体どういう」
「田名部さん、お待たせしました」
「ちょうど良かったわ。たった今、美子さんが帰ってしまわれたんだけど……。白鳥さん? その袖はどうなさったの?」
背後からかけられた声に、佳代は愛想よく振り返ったが、明るいグレーのスーツの右袖がかなり広範囲に濡れている事を目ざとく見つけ、不思議そうに問い質した。対する秀明は(今日は服選びから失敗したな)と内心で苦笑しつつ、簡潔に事情を説明する。
「少々失敗をしてしまいまして。彼女を怒らせてしまったものですから」
秀明が美子から茶をかけられたなどと口にしなかった為、佳代も二人きりの時に何がおこったのかを根掘り葉掘り聞く様な真似はしなかった。その代わりに秀明に失望したという態度を隠そうともせず、顔を顰めながら皮肉を口にする。
「万事、そつがない様に見えるあなたが、そんな失態をするなんて思ってもいなかったわ」
「彼女から今回の話を断る旨の申し出はあったと思いますが、お詫びかたがた先方のご都合を聞いて、一度ご自宅にお伺いしようかと思います」
「何があったのかは分からないけど、そうして頂戴。私の顔が潰れかねませんからね」
渋面で居丈高に言いつけた佳代に、内心では(そんな心配なんかしなくても、最初から潰れてる顔だろうが)と思った秀明だったが、余計な事は口にせず、「申し訳ありません」と神妙に頭を下げて見せた。
その一方で、なんとか車寄せでタクシーを待っていた美子を捕まえた美嘉は、やって来たタクシーに同乗してから、慎重に姪に尋ねてみた。
「美子ちゃん、本当にどうしたの?」
「……少し、あの方に失礼な事を言われまして」
「そうなの?」
そこで美嘉は意外そうな顔になってから、心底申し訳無さそうな顔つきになった。
「ごめんなさいね、美子ちゃん」
いきなりの謝罪に、さすがに美子は当惑して、その理由を尋ねる。
「どうして叔母さんが謝るんですか?」
「だって、何事にも我慢強くて冷静沈着な美子ちゃんがそんなに怒るなんて……。相当腹に据えかねる事、白鳥さんに言われたんじゃない?」
「いえ……、今冷静に考えてみれば、そう目くじらを立てる程では無かったかと」
秀明の言葉を正直に伝えた場合、叔母も激昂するのは明らかであり、彼女にまで不愉快な思いをさせたくなかった美子は、ここは自分の胸の内に留めておこうと決めて曖昧に誤魔化した。しかし美嘉はここで痛恨の表情になる。
「失敗したわ。姉さんが言っていた見合い相手の条件にも合うし、白鳥さんだったら美子ちゃんも絶対気に入ると思ってたのに……」
ブツブツとそんな事を独り言の様に言い出した叔母に、美子は怪訝な視線を向けた。
「お母さんが私のお見合い相手に、何か条件を出してたんですか?」
「ええ、一つだけ。『旭日食品とは関連の無い職業の方か、関係の無い職場で働いている人をお願い』って言われていたの」
それを聞いた美子は、益々要領を得ない顔付きになった。
「どうしてですか? だって叔母さん達や大叔母さん達は全員、旭日食品やその関連会社や子会社、もしくは取引先とかに所属している方と結婚しているじゃないですか?」
「確かにそうなんだけど。叔母さん達はともかく、私も妹の美音も恋愛結婚だって言ったら信じる?」
「……微妙です」
「でしょうねぇ……」
代々女系の藤宮家での、ここ二・三代の娘の嫁ぎ先を頭の中に思い浮かべた美子は、明らかに疑念に満ちた表情になった。現に結婚相手が、旭日食品グループの中核を成す企業の副社長に就任している美嘉は、自分が言っても説得力はなさそうだと思いつつ、話の内容を微妙に変える。
「姉さんはお義兄さんと学生時代から熱烈交際の挙げ句、父さんの『旭日食品を継げる男でなければ、深美はやらん!』の一言で、お義兄さんはお父様の後継者になるべく秘書として走り回っていたのに、あっさり弟さんに実家を任せて、旭日食品に入社してしまったでしょう? 実はあの後、父が『倉田議員に睨まれて、政界と業界から圧力をかけられるかも』って真っ青になってたのよ? 家族みんなで呆れたわ」
そこで先年亡くなったばかりの母方の祖父を思い出しながら、美子は正直な感想を述べた。
「両親が結婚する時のいきさつは聞いていましたが、お祖父さん達も両親も淡々と話していたので、そんなに揉めたとは思っていませんでした」
「そうでしょうね。本当にお義兄さんには、感謝してもしきれないわ。あの偏屈な父に付き合って、宥めて、上手く転がしてくれたし」
「叔母さん……」
そう言ってクスッと笑いを零した叔母に、美子は呆れた様に声をかけた。するとここで美嘉が、急に真顔になって言い出す。
「あら、誉めてるのよ? それでそんなお義兄さんを見て、姉さんはずっと申し訳無く思っていたみたいなの。『私と結婚していなかったら、もっと別な人生を送っていた筈なのに』って」
「それは……」
さすがに否定しきれなかった美子は黙り込んだが、美嘉は小さく肩を竦めて若干呆れ気味に付け加える。
「でも私に言わせれば、昌典義兄さんは傍から見て恥ずかしい程、姉さんにべタ惚れだし、そんな事気にしないで良いと思うのよね。本人だって、自分の人生に満足してると思うし」
「私もそう思います」
思わず苦笑した美子だったが、ここで美嘉は再び真顔になって、深美の懸念を口にした。
「だけどね、美子ちゃんはあまりはっきりと自分の意見を主張しない子だから。『あの子は手がかからなくて物分りが良いと言えば聞こえが良いけど、言いかえれば周囲を気にして、そちらの立場や意向を優先するタイプなの。下手をすると自分の好悪の感情とは別に、旭日食品に対して有益か否かで結婚相手を選んだ挙げ句、相手や婚家に一生気を使い続ける羽目になりそうだわ』って、姉さんが心配してるのよ」
「そんな事は……。それなりにきちんと主張する所は、主張しているつもりですが」
若干心外そうに叔母に訴えてみた美子だったが、美嘉は難しい顔で首を振った。
「勿論、家の事や世間一般の事については、美子ちゃんはしっかりとした意見を持ってるし、他人の間違いだってきちんと指摘してるわ。姉さんが問題にしているのは、あくまで美子ちゃん自身に係わる事についてだもの。だから敢えて今回の見合い相手は、旭日食品とは関連の無い人を選んでみたの。親戚筋から持ち込まれる縁談は、殆ど旭日食品と関連のある方との話だし」
「そうでしたか」
そこで美子は、親戚関係から持ち込まれた縁談の数々を、何故美嘉が入院中の母親に代わって悉くシャットアウトしていたかが、漸く腑に落ちた。ここで美嘉が気分を変えるべく、笑顔になって言い聞かせてくる。
「だけど勿論、旭日食品の社員でも、美子ちゃんと本気で好き合う人ができたら、姉さんも私も大賛成よ? そこのところは誤解しないでね?」
「分かりました。色々とありがとうございます。美嘉叔母さん」
本心から笑顔になって礼を述べた美子に、美嘉も微笑みながら話を纏めにかかる。
「今日の話は残念だったけど、美子ちゃんの気が乗らないなら、私からも先方にきちんと断りを入れるわ」
「すみません。ご面倒をおかけします」
「気にしないで。要は私も姉さんも、美子ちゃんが本当に好きになって、一生この人と一緒に居たいと思える人に出会えれば良いと思ってるんだから。美子ちゃんはまだ二十代半ばなんだし、まだまだこれからこれから」
そう言って力強く頷いた叔母に、美子は思わず失笑した。
「美嘉叔母さんって、めげない方だったんですね」
「当然よ。知らなかったの?」
そこで顔を見合わせて笑って、先程の見合いについての話題を打ち切る事にした二人は、それから世間話をして、それなりに楽しい一時を過ごした。
「ただいま」
無事帰宅した美子は、叔母を乗せたタクシーを門前で見送ってから敷地内に入り短い小道を歩いて玄関に辿り着いた。そして引き戸を開けながら奥に向かって申し訳程度に帰宅の挨拶をすると、それが直接聞こえてはいない筈だが、車の停車音や気配で察知したのか、廊下の奥から妹達が駆け寄って来る。
「美子姉さん、お帰りなさい! お見合いどうだった!?」
「美幸、五月蠅いわよ、黙りなさい。美子姉さん、お疲れさまでした。お茶が飲みたかったら淹れるけど、どうする?」
子供らしく、一番下の美幸が嬉々として、そのすぐ上の美野は妹を窘めつつも好奇心に満ち溢れた表情でお伺いを立ててきたが、靴を脱いで上がり込んだ美子が彼女達に何か言う前に、新たな声が割って入った。
「美野、お茶なんてお腹が膨れる程飲んできたわよ。この場合、祝杯でしょ。シャンパン冷えてるわよ? それともワインが良いかなぁ?」
「美実、未成年が酒云々言ってないで、『お赤飯を炊こう』位にしておきなさい。私にならともかく、姉さんにあんな好条件の話が来るなんて、殆ど奇跡だったんだから」
明らかに面白がっている三番目の美実と、揶揄する様に言ってきた自分のすぐ下の美恵を見て、美子はどうでも良いと言わんばかりに肩を竦めた。
「そんなにあの人が欲しいならあげるわよ、美恵。あなた、未だに何でもかんでも私の物を欲しがるのね。子供じゃないんだから、いい加減に周りの目を考えたら?」
そう言ってスタスタと奥に向かって歩き出した美子を見て、驚いた妹達は互いの顔を見合わせた。
「え? あげるって……、美子姉さん、今日お見合いした人と結婚しないの? だってすっごいイケメンで三男の、東成大出身のキャリア官僚でしょ? お買い得でしょ?」
四人を代表して、美幸が美子を追いながら尋ねたが、素っ気ない返事が返ってくる。
「幾らお得感があっても、腐ってる物に手を出す気はないわ。大体、誰が結婚するって言ったのよ。今回は美嘉叔母さんの顔を潰さない為に、出向いた様なものだしね」
「そうなの?」
「嘘……」
「勿体ない」
「これだから身の程知らずって、怖いわよね」
背後でボソボソと呟いている妹達に苛立った美子は、歩きながらこれからの予定を淡々と告げた。
「お父さんは、今の時間帯は書斎ね。着替えてから、今日の話をしてくるわ」
暗に邪魔をするなと釘を刺すと、自室まで追って来てあれこれ聞き出そうとする気は無かったらしく、背後で妹達が散って行く気配を察した美子は、人知れず溜め息を吐いた。
(本当に、皆、勝手な事ばかり言って……)
心底うんざりしつつ、客を招き入れる日本家屋風の母屋から洋風のプライベートスペースの別棟に入った美子は、自室でスーツから普段着に着替えて、父の書斎に向かった。
「お父さん、美子です。今戻りました」
「ああ、入って来なさい」
ドアをノックしてきた長女に気安く許可を出し、ぐるりと座ったまま肘掛け椅子を回してドアの方に向き直った昌典は、さっそく歩み寄って来た娘に首尾を尋ねた。
「どうだった?」
「お断りするつもりです。美嘉叔母さんにも、その旨はお話ししました」
「そうか。分かった」
目の前に立つ美子の無表情での報告を聞いて、昌典も身体の前で両手を組みつつ小さく頷いた。しかしそのあっさりとし過ぎる反応を、美子が不審に思う。
「それだけですか?」
「ああ。お前の判断だからな。間違いは無いだろう」
再び静かに頷いた昌典に、美子は尚も尋ねた。
「話を断って来たのに、お父さんはどうして、そんなに平然としているんですか?」
それを聞いた昌典は、面白そうにニヤリと笑う。
「うん? どうしてこんな良い縁談を断るんだと、叱って欲しいのか? お前にそんな自虐趣味があったとは知らなかったな」
父の発言で疲労感が増した様に感じた美子は、溜め息を吐いて部屋を出て行こうとした。
「……もう良いです。失礼します」
「だがな、美子」
「何ですか?」
「お前がそんなにはっきり断ると口にする位だから、見合いの席で何かあったな?」
足を止めて振り返ると、昌典が探る様な視線を自分に向けていた為、美子は気を引き締めつつしらばっくれた。
「だったらどうだと言うんですか?」
「お前が本気で怒りを露にするのは、珍しいなと。良くも悪くも、お前はあまり感情を面に出さないタイプだ」
互いにニコリともせずに腹の探り合いをした二人だったが、先に音を上げたのは美子の方だった。
「……もう行って良いですか?」
「ああ、今日はご苦労だったな」
昌典も徹底的に問い詰めるつもりは無かったらしく、苦笑しながら頷いた。そしてドアの向こうに美子の姿が消えてから机に向き直った昌典は、難しい顔付きになって、暫くの間何やら考え込んでいた。
当事者双方にとって、全く異なる感想を抱いた見合いから、ちょうど一週間後の日曜日。
藤宮家では家族全員が食堂に揃って朝食を食べていたが、殆ど食べ終えたところで、何気ない口調で昌典が美子に声をかけた。
「美子、今日は一日、外出する用事は無いな?」
「ええ、特には無いけど……、それがどうかしたの?」
「十時半に、白鳥さんが家に来る」
「どちらの『白鳥さん』ですか?」
(『白鳥』って……、まさか先週の見合い相手の、あいつの事じゃ無いでしょうね?)
父親の口からまだ記憶に新しい、不愉快極まりない名前が出て来た途端、美子は顔を引き攣らせつつ現実逃避を図ったが、娘のそんな様子を見た昌典は、笑いを堪える様な表情になりながら追い打ちをかけてきた。
「もう忘れたか? 先週のお前の見合い相手が、お前に対しての失礼な言動を謝罪しに出向きたいと、私に連絡を取って来たんだ」
「そう言う事は早く言って欲しいし、謝罪なんて一切必要無いと言って頂戴!」
普段冷静沈着な美子には似合わず、思わず声を荒げた為、彼女の妹達は一様に驚いた顔になったが、昌典は淡々と確認を入れた。
「私が個人的に彼に興味があったから、快諾した。訪問の目的が目的だから、お前が不在だと意味がない。お前はさっき、今日は終日用事は無いと言ったな?」
「…………」
「美恵達は出かけて良いぞ」
反論できずに黙り込んだ美子を余所に、昌典がさり気なく他の娘達に声をかけると、四人は互いに顔を見合わせてから、即座に予定を変更する。
「気が変わったわ。映画は今度にするから」
「ショッピングはいつでも行けるわね」
「図書館は通学路沿いだし、明日行きます」
「友紀ちゃん達と遊ぶ約束、キャンセルしなきゃ! 電話電話!」
そこで嬉々として声を上げながら勢い良く立ち上がった美幸に向かって、美子の鋭い叱責が飛んだ。
「美幸! 食事の途中で席を立たない! 走らない!」
「は――い!」
しかしそんな叱責もなんのその、美幸は明るく返事をしつつ、食堂を出て元気一杯に廊下を駆け出して行った。それを見送るしかなかった美子は、思わず額に手を当てて呻く。
「……全然分かって無いじゃない」
そんな彼女に家族達は、それぞれ苦笑したり興味深げな視線を向けていたのだった。