第15話 自己満足の陰で
「あの……、お母さん。驚かないで聞いて欲しいんだけど……」
「何?」
病室を訪れた美子は母が書いていた手紙を纏め、リストにチェックする作業を一段落付けてから、思い切った様に言い出した。そして不思議そうに首を傾げた深美に向かって、控え目に申し出る。
「その……、江原さん……、じゃなくて、秀明さんと結婚しようかと思っているの……」
「あら、まあ……」
そう言ったきり、目を丸くして黙り込んでいる母親に、美子は若干不本意そうに尋ねた。
「驚かないの?」
しかしそれに深美は、至極冷静に答える。
「勿論、驚いているわよ? だって美子ったら、秀明君の事を何かにつけて『狡賢くて抜け目がない』とか、『傍若無人で人を人とも思っていない』とか、『目的の為には手段を選ばないろくでなし』なんて言っていたのに、どういう心境の変化かと思ったから」
それを聞いた美子は、内心で挫けそうになった。
(確かに、これまで散々あいつの事を貶していたわね……。やっぱり無理があるかしら? でもここで引き下がったら、全ての準備が水の泡になるんだから!)
そう自分自身を叱咤しつつ、美子は慎重に言葉を選びつつ弁解した。
「確かに秀明さんについて、これまで色々言っていた自覚はあるけど、さっき言った様な事って要は『頭の回転が早くて目端が利く』とか、『それだけ自分に自信がある』とか、『事を成し遂げるために全力で集中するタイプ』って事だと思うし」
「……物は言いようねぇ」
(う……、やっぱり無理があったかしら?)
何やら生温かい視線を受けてしまった美子は、密かに冷や汗を流した。しかし深美はそれ以上追及はせずに、話を先に進める。
「それで? いつ頃入籍するの?」
その問いに美子は内心で動揺しながらも、予め用意しておいた答えを口にした。
「ええと……、挙式の前後で考えてるの。でも江原さんの立場を考えると、それなりに招待客を呼んできちんと式と披露宴をするべきだと思うし、そうなるとその準備に二・三ヶ月はかかるでしょう?」
「そうねぇ……。ちょっと出るのは無理かもね。それにお式の最中に、ぽっくり逝きたくも無いわねぇ。皆に迷惑をかけるし」
如何にも残念そうにそんな事を言い出した母を、美子は軽く叱りつけた。
「そういう事を言ってるんじゃないわよ! だから江原さんにお願いして、私のドレス姿を見て貰おうと思って! 折角だから江原さんも、衣装を合わせてくれるって言ってるし!」
それを聞いた深美は、嬉しそうに微笑んだ。
「あら、そうなの? 嬉しいわ」
「今度の水曜の午後の予定だから、楽しみにしてて」
「ええ、分かったわ」
そして第一段階を首尾良くこなした美子は、更に慎重に言葉を継いだ。
「それから、この事は、他の皆には秘密にしておいてね?」
「どうして?」
「その……、皆には先生から言われた事を、まだ伝えていないの。この事がバレたら絶対『どうしてそんな事をしたのか』って詮索されるから」
秀明とは偽装について了承済みであっても、もしこれが妹達に知られたら、寄ってたかってからかわれた挙句に既成事実化されかねないという、美子が保身に走った故の申し出だったのだが、一応それらしい理由を挙げてみた。すると深美は真顔で考え込んでから、穏やかな笑顔で頷く。
「確かにそうね。まだ他の人には知らせないで欲しいと言ったのは、他ならぬ私だし。分かったわ。私達だけの秘密ね?」
「ええ。事情を知ってる看護師さん達にも『妹達には内緒でお願いします』って頼んであるし」
「徹底してるわね。ひょっとして秀明君が言ったの?」
「……ええ」
「さすがに抜け目がないわね」
くすくすと小さく笑った深美に、美子は憮然とした表情になった。しかし母の前でそんな不機嫌な顔のまま居られるわけはなく、気力で笑顔を保つ。そしてやるべき事を全て終えてから、美子は荷物を纏めて立ち上がった。
「それじゃあ、また来るわね」
「ええ。来週、楽しみにしてるわ」
そして笑顔で娘を見送った深美だったが、その姿がドアの向こうに消えるなり、苦笑しながら呟く。
「色々頑張ってたみたいだけど、途中から『江原さん』に戻ってたわよ? なんて指摘をするのは、野暮って物よね」
何もかも分かっているかのような表情で独り言を漏らした深美は、そこで溜め息を吐いた。
「本当に困った子。姉妹の中で一番落ち着いていて、一番物分かりが良い様に見えて、実は一番何をしでかすか予想ができなくて、一番頑固なんだから。……秀明君も苦労するわね」
そこで心底同情するように呟いた深美だったが、美子に対する物か秀明に対する物か、はたまた両者に対する物か、彼女の顔には深い慈愛の表情が浮かんでいた。
決行日の水曜日。病院の正面玄関で待ち合わせた美子は、待ち合わせた時間ギリギリにやって来た秀明を見て、改まって頭を下げた。
「あの……、今日は色々と、ありがとうございます」
「時間が勿体ない。行くぞ」
「え、ええ……」
挨拶もそこそこに、ブリーフケースと大きな縦長の紙袋を手に提げた秀明に促され、美子は無言のままエレベーターへと向かった。そして八階で下りて自動ドアの向こうの病棟エリアに足を進めると、来客リストへの記入をしながら、ナースステーションにいる看護師に声をかける。
「すみません、今日はお世話になります、藤宮です」
その時間は医師の回診に付き添っているのか、スタッフは人数が少なかったが、中の一人が心得た様に立ちあがって、笑顔で挨拶してきた。
「引き継ぎは受けています。藤宮さん、810室をお使い下さい。スタッフも物品も、もう揃っていますから」
「ありがとうございます」
愛想よく礼を述べて歩き出した秀明に、美子も慌てて頭を下げて後に続いた。そして指示された病室は、深美の病室とは廊下を挟んで斜め向かいの位置にあり、秀明が満足そうに呟く。
「ここなら移動しても、それほど人目につかないな。こっちの方は個室エリアだし」
「そうね。助かったわ」
美子が同意して頷くと、秀明が軽く笑いかけてから目の前の引き戸を開けた。
「すみません、今日はお世話になります」
「お気になさらず。準備万端整えてあります」
秀明に続いて入った美子は、そこに面識がある女性の姿を発見して驚いた。
「若松さんが来て下さったんですか? その恰好は、まさか休暇を取って頂いたわけでは……」
来店した時の制服であろうスーツ姿では無く、シンプルな白いブラウスとスラックス姿の彼女を見て、美子は申し訳なく思ったが、彼女は美子の懸念をあっさりと打ち消した。
「いえ、れっきとした業務ですが、そのスーツ姿で病棟に出入りしますと目立ちますので、できれば私服で来て頂きたいと江原様から申し出がありまして。それは正しかったですね。こちらが専属カメラマンの結城と申しますが、私共がこの格好で台車を押していても、患者の方やお見舞いの方に、興味本位な目で見られませんでした」
そう言って手振りでジーンズ姿の男性を紹介し、彼が自分達に向かって笑顔で頭を下げた為、美子は面食らった。
「カメラマン?」
「折角だから、深美さんと一緒に、写真を撮ろうと思って。言ってなかったか?」
「聞いてないから!」
何気なく見上げた秀明にさらりと言い返されて、美子は半分呆れた。そんな彼女に、どうやらメイク担当らしいカットソーとスキニージーンズの女性が、折り畳み式の机の上で大きなメイクボックスを開けながら、テキパキと仕事を始める。
「さあ、新婦様。時間が勿体無いですから、急いで仕上げましょう!」
「すみません、カーテンを引きますね」
「了解です。俺は機材のチェックと組み立てをしてますので」
どうやら邪魔になるベッドはどこかに一時的に搬出してあるらしく、支度をするのに十分なスペースは確保できていた。そして若松がカーテンを引いて男性陣からの視線を遮りながら、秀明の衣装一式を手渡す。
「江原様の衣装はこちらになります」
「分かりました」
「新婦様は、前開きのお洋服ですね? それではこのままメイクとヘアメイクを始めます。若松主任、衣装の方は宜しくお願いします」
「ええ、分かったわ」
そして余計な汚れが付かない様に、若松はまず台車から大きな箱を下ろし、その中の敷物を床に広げた。それから細心の注意を払って、ドレスの点検をしつつ取り出し、ベッド脇に位置する棚のフックにハンガーをかける。それから次々に靴、手袋、ブーケなどの小物を抜かりなく揃えていく様子に、美子は内心で(さすがはプロだわ)と舌を巻いた。
そうこうしているうちに、美子の髪はきっちりと結い上げられ、わざと軽くしておいた化粧を落として貰ってから、しっかりとファンデーションを乗せ、常とは異なるはっきりと目立つ感じで目と眉を整えて貰う。手鏡で出来栄えを確認し、それから用意した衣装を二人がかり着せて貰って、最短の時間で支度を終える事ができた。
「お支度が終わりました。我ながら、惚れ惚れする出来映えですね」
「まずは江原様に見て頂きましょう。カーテンを開けても宜しいですか?」
「構いません。どうぞ」
満足げな二人がカーテンの向こうに声をかけると、秀明の落ち着き払った声が聞こえた。そして静かにカーテンが引かれると、当然美子よりも早く着替えを済ませていた秀明が、顔を向けてくる。
「さあ、どうですか?」
軽く身体を捻って秀明と視線を合わせた美子は、自分と色を合わせた白のタキシード姿に内心密かに狼狽したが、秀明は余裕で微笑んだ。
「完璧です。こんな所まで出張して頂いた甲斐がありました」
「新婦様、大きな姿見が手配できなくて、申し訳ありません。ですがとってもお綺麗ですよ?」
「いえ、とてもそこまでは……。素敵に仕上げて頂いて、ありがとうございます」
「こちらこそこういうお仕事をさせて頂いて、嬉しいです。きっとお母様に喜んで頂けますから」
手で持てる大きな三面鏡を広げながら、満面の笑みで言われた為、美子は感謝の言葉を口にしながら、目の前の女性まで騙している事に気が咎めた。するとここで若松が声をかけてくる。
「さあ、それではお母様に、お二人のお姿をご覧になって頂きましょう。私が裾を持つので、二人にはドアの開け閉めをお願いして良いですか?」
「分かりました」
「じゃあ一足先にお母様の病室に行ってます」
そしてカメラマンの男性が機材を運びがてら部屋を出て行った為、秀明は美子がハイヒールを履いたのを確認して、彼女に手を差し出した。
「じゃあ、行こうか」
「ええ」
若松から受け取ったブーケを左手に持ち、右手は秀明の手に乗せる感じで、美子は慎重に歩き出した。そして廊下に出た途端、直線の廊下をやや離れた所で行き交っている何人かの視線を感じ、その人達があまりにも場違いな自分の姿を見て、例外なく驚いた様に足を止めているのが見て取れる。
(う……、さすがに恥ずかしいわ。やっぱり幾らかは人の目が有るし)
しかし美子はそれを見なかった事にして母の病室まで移動すると、ベッドの上で上体を起こしている深美に出迎えられた。
「失礼します。体調はどうですか?」
秀明がまず声をかけると、深美は如何にも嬉しそうに笑った。
「とっても良いわ。それに秀明君がいつもより二割増し男前で、眼福ね」
「ありがとうございます」
思わず秀明が苦笑すると、深美は娘に声をかけた。
「とても素敵よ、美子。そのドレス、良く似合ってるわ。秀明君が選んだの?」
それに美子は軽く頭を振った。
「ううん、自分で選んだのよ。種類がたくさんあって、かなり迷ったけど」
「それなら披露宴の時には、何回かお色直しをすれば良いわね」
「……ええ、そうね」
楽しげに言われた美子だったが、咄嗟に何と返せばよいのか分からなくなり、口を噤んだ。そんな彼女の様子を見て、年長者らしく微妙な空気を察したらしい若松が、さり気なく話題を変える。
「お嬢様に良いお婿様が来て下さる事になって、良かったですね」
「ええ、安心しました。一時はどうなる事かと思いましたが」
そう言って穏やかに微笑んだ深美に、若松は意外そうな顔になった。
「何か問題でもございましたか? ご主人がこのお話に、快く思われなかったとか」
「いいえ、最初娘が彼の事を毛嫌いしていまして。なんでも見合いの席で蹴散らした挙句、彼が自宅を訪ねて来た時にはシュート対決に持ち込んで追い払おうとしたり、婚約指輪を持参した時は庭に投げ捨てたとか」
苦笑交じりに説明された内容に、秀明は笑いを堪え、若松は唖然とし、若手二人は嬉々として食いついて来た。
「うわ……、それはなかなか強烈ですね」
「それで!? それでどうやって結婚まで持ち込んだんですか!?」
「もう、お母さん! そんな事、こんな所で言う必要無いじゃない!」
「あら、だって本当の事でしょう?」
じゃれ合っている様な母娘の会話を、少しの間、他の者は微笑ましく見守ったが、頃合いを見て秀明が声をかけた。
「じゃあ、美子。お義母さんも疲れるし、そろそろ撮影をしないか?」
「あ……、ええ、そうね。お願いします」
「はい、お任せ下さい!」
そして気合い満々のカメラマンの指示で、秀明との二人での立ち姿と、深美を挟んでベッドに三人で座った写真を撮って貰った。
正直、深美を騙しているという罪悪感から、笑顔を作るのは難しかったが、美子はなんとか周りが違和感を感じない程度の笑顔を浮かべて乗り切った。
「それじゃあ、お義母さんが疲れない様に、そろそろ失礼するか」
そう提案した秀明に、美子は素直に頷いて椅子からゆっくり立ち上がる。
「そうね。じゃあお母さん、写真はでき次第持って来るわ」
「ああ、秀明君は少し残ってくれない? ちょっと話があるの」
「お母さん?」
訝しげな顔になった美子だったが、深美は笑って尚も告げた。
「花嫁と比べて花婿の着替えなんて、簡単なものでしょう?」
「……確かにそうですね。じゃあ少しお付き合いします」
そう応じた秀明が目線で促した為、美子は若松達に連れられて、先程の部屋に戻って行った。
そして室内に二人きりになった途端、深美が申し訳無さそうに秀明に話しかける。
「ごめんなさいね、秀明君」
「何がです?」
「あの子の気休めと、茶番に付きあわせてしまって」
一瞬、何か言いかけた秀明だったが、真剣に自分の顔を見上げてくる彼女を見て、観念した様に小さく首を振った。
「やっぱり分かってましたか……。でもこれ位、どうって事ありませんよ。深美さんの為なら」
しかし深美は、少し無念そうに言い出す。
「そうじゃなくて、秀明君はまだ若いのに、二回も見送らせる事になってしまうもの」
それを聞いた秀明は、一瞬驚いた様な顔になってから、小さく笑った。
「少し早くなっただけですし、年齢順じゃないですか。逆だったら親不孝と言われるところです」
「それもそうね」
「それに……」
「それに、何?」
秀明の言葉に表情を緩めた深美だったが、ここで何故か秀明が不自然に黙り込んだ為、不思議そうに見やった。すると秀明が真顔で言い切る。
「俺は二度目ですから、他の人間よりは耐性があるかと思いますよ?」
「こう言う事になれちゃ駄目って、言うべきなんでしょうね……」
呆れた様に呟いてから、深美は彼に向かって言い聞かせた。
「あのね? 会社の事に関しては主人に任せておけば大丈夫だし、家と家族の事については美子に任せておけば大丈夫だと思うの」
「そうでしょうね。あの二人に任せるなら、俺も問題はないと思います」
深く同意して頷いた秀明に向かって、ここで深美がさり気なく告げた。
「だから秀明には、美子の事だけをお願いするわね?」
初めて呼び捨てにされた秀明は、内心で驚いて軽く目を見開いたまま黙っていたが、深美は相も変わらずにこやかに微笑んでいた。それを見た秀明は苦笑し、静かに語りかける。
「……ええ、分かりました、お義母さん。安心して下さい」
それから深美に挨拶をして先程の病室に戻った秀明は、手早く着替えを済ませた。何とかドレスから私服に着替えた美子をよそに、若松が手際良く、しかし慎重に大きな箱に元通りドレスや小物を詰め終え、台車に乗せて挨拶の後に病室を出て行く。
メイク担当者やカメラマンも後片付けを終え、ゴミもきちんと集めて持ち替える徹底ぶりで、美子はその作業をおろおろしながら見守るだけだった。そして秀明と共に病室を出て、ナースステーションに顔を出すと、美子も顔なじみの看護師が歩み寄って来た。
「ああ、藤宮さん、終わったんですね」
「はい、病室を使わせて頂いて、ありがとうございました」
「いえ、藤宮さんは病室の室料をきちんと自費で一日分お支払いになってますし」
(え? そんな事までしてたの?)
笑顔で応じた看護師の話に、美子は内心で驚いた。しかしそんな彼女を半ば無視したまま、秀明は笑顔で相手に持っていた紙袋を差し出す。
「私用で使わせて頂くのですから、当然です。それに一応きちんと後片付けはしましたが、夕方に新しい患者が入るんですよね? その前の整備や消毒などの手間を考えれば、当然の事ですし。そのお詫びの意味もあるので、どうかこちらをお納め下さい」
そこで秀明が差し出した紙袋や、その中に入っている箱の包装紙に印刷された有名洋菓子店のロゴを見た彼女は、慌てて手を振って辞退した。
「あら、藤宮さん、こういうのは困ります。病院としては、患者様やご家族の方からは、一切金品を受け取らない事になっておりますので」
「ですがこれは、治療に関する付け届けでは無く、純粋な感謝の気持ちですので。病室の使用もそうですが、何人かの患者の方や見舞客には、私共が移動した時に姿を見られています。それに関してスタッフの方々が尋ねられて煩わしい思いをしたり、そういう治療以外の行為に病棟を使って良いのかと抗議された時の対応に対する、ささやかなお詫びの気持ちと思って頂ければ」
神妙な顔付きの秀明が、重ねて申し出た為、相手は少し考えてから了承の返事をした。
「そういう事であれば、ありがたく頂戴いたします。休憩時間の時にでも、皆で頂きますので」
「そうして頂けると、私共も嬉しいです」
「この度は、無茶な願いを聞いて頂きまして、ありがとうございました」
この間、話に割り込めなかった美子がここで慌てて頭を下げると、看護師は「いえ、お母様に喜んで頂けたのなら何よりです」と温かい声をかけて貰って、美子は思わず涙が零れそうになった。しかしそのタイミングで、秀明が声をかけて歩き出す。
「それじゃあ、行こうか」
「……ええ」
そして再度ナースステーションの奥に向かって一礼し、自動ドアを抜けてエレベーターの前まで来た美子は、何気なく気になった事を尋ねてみた。
「あの……、荷物は?」
「レンタル品だから、そのまま店に引き取って貰ったが? クリーニング作業も店側で施すから、心配要らない」
「そう」
内心でやっぱりレンタル品だったのねと納得しながら、美子は素直に感謝の言葉を口にした。
「あの……、今日はどうもありがとう」
「どういたしまして。深美さんが喜んでいたし、君がそこまで恐縮する事は無い」
しかし何故か秀明は、些か素っ気なく言ってよこし、美子は次の会話の糸口を掴めないまま一階へと下りた。そして正面玄関から外に出た直後、秀明は断りを入れてタクシーの待合所に足を向ける。
「じゃあ、ここで」
「え? 電車で来たんじゃなかったの?」
慌ててその背中に声をかけると、足を止めた秀明は少しだけ背後を振り返って告げた。
「五時から商談だから、先方に直接向かう。ここから電車だと、乗り換えが面倒で時間がかかるしな。それじゃあ」
そう言って再びタクシーに歩み寄った彼は、先頭車両に乗り込んであっという間に去って行った。
「これから商談って……、休みを取った訳じゃなかったの?」
そして美子は呆然としながら、その光景を見送るのみだった。