すまいる
年が開け四日から大学の講義が始まる。
新年初日の最後の講義を教室の窓際に座り受け終わって窓から外を見ていると親友であるノッチこと野地が声を掛けてきた。
「マイル、相変わらず浮かない顔をしているな」
「ほっとけよ」
「それより驚いたぞ。家族の命日に記憶喪失になるなんて」
「俺の方が驚いたよ。でも不思議なんだ。イヴの前後の記憶は殆ど無いのだけど家族の事は覚えているし辛かった事も苦しかった事も……」
「それって感情が戻ったって事だろ」
「多分な。俺の中ではとっくに整理がついてることだけどな」
「じゃ、無愛想な顔をしてないで笑ってみろよ」
「それが出来れば苦労はしないよ」
それが事実だった。
何があったのかさえ思い出せない。
何処に居てどうやって家に帰ったのかも覚えていないし、もしかしたら家に居たのかもしれない。
それすら覚えがなく目覚めると記憶が無くなっていた。
けれど判る事もある。
それは確実に俺の中では何かが変わっていたと言う事だ。
それと……
「なぁ、その腕のブレスってペアだろ。どう言う意味だそれ」
「さぁな、記憶が無くなっている事に気づいた朝に腕に嵌まっていたんだ。
それとこれがコートのポケットに」
何処かのチケットをノッチに見せる。
「何それ。花やしきの回数券じゃん、今度それで一緒に遊びに行こうぜ」
「はぁ? 3枚しか無いのに? 男2人で?」
「当然お前の奢りで」
「ふざけるな、1人で行って来い」
「あのな、1人でシュミレートするのって寂しんだぞ」
「やっぱりしてたのか」
「やっぱりって。俺、お前に話した事あったっけ」
ノッチに言われてちぐはぐで不可解な事を言っている自分に気付いた。
聞いた覚えがないのに何処かで聞いた事がある様な気がする。
「それとそのブレスだけど何が刻印されてるんだ? もしかしてお前……彼女の名前とかじゃないだろうな」
「そんな筈はないだろ見てみろ」
ブレスを2つとも外してノッチに渡した。
するとノッチがブレスから何かを知ろうと穴が開くほど見ている。
「No smile. No happy.の方はお前の名前のKeitaだな。でDreams Come True.の方は何だこれ? Si40nって名前ですらないな。何なんだ、この番号? 宇宙人かなんかの認識番号か」
「認識番号? SI40N? 名前……」
「おいおい、マイルって言うか啓太お前マジで大丈夫か? 顔色悪いぞ。まだ調子が悪いんじゃ。俺の名前が判るか?」
俺が眉間に皺を寄せて頭を抱え込むとノッチが心配そうにしている。
頭の中に濃い霧が掛っているようでそれが何なのかが判らない。
「えっとノッチの名前は確か……」
「病院に行った方が良いんじゃないか?」
「野地だろ。それくらいは判るよ」
「ビビらすなよな。マジで焦ったぜ」
イヴの前後が記憶にない様にある部分だけに濃い霧が掛っている。
何かを思い出そうとすると頭に鈍い痛みが走りとても不快な感じがする。
それ以外は至って普通で痛みや不快を感じる事は無く寧ろすっきりしている。
俺とノッチが話している教室の入り口からノッチを呼ぶ声がした。
「ノッチン、先月分を集めて来たよ」
「悪いな、手間かけさせて」
その女の子はノッチの友達以上彼女未満の幼馴染だった。
「でもな、俺にも一つだけはっきりお前が変わったのが判るぞ」
「俺は何も変わってないよ」
「いや変わったよ。お前のその青い瞳が活き活きしているよ。まるで新鮮な鮮魚みたいだぞ」
「嫌な喩だな。それに新鮮な魚を鮮魚って言うんだろうが」
「そんな事はどうでも良いんだ問題はだな。百聞は一見にしかずだ。おーい、こっちこっち」
入り口で黒いポーチを持ってノッチを訪ねてきた女の子にノッチが声を掛けて手招きをすると彼女が教室に入ってきた。
「あいつの目をその瞳で見つめてみろよ」
ノッチが訳わからない事を俺に言う。
「なぁに、ノッチン?」
「啓太の顔を見てみろよ何か変わっただろ」
「えっ? マジで?」
「良いから見てみろよ」
「うん」
彼女が首を傾げて俺の顔を覗き込んでいる。
俺が少し顔を上げると彼女の顔が真っ赤になった。
「う、うわぁ。け、啓太。そんな目で見ないでよ。ドキドキしちゃうじゃん。私には心に決めた人が居るんだから駄目だよ」
「おいおい、藪から棒に。誰なんだよ、心に決めた人って」
「ノッチンじゃないから安心しな。それよりもスマイル貯金だよ」
彼女が笑いながら黒いポーチを置いて駈け出し教室から飛び出して行った。
スマイル貯金と言うのは毎月行われている賭け事の様な物で元々は貯金ではなかった。
高校の時に俺の親友であるノッチと数人の仲間が冗談半分で始めた事で、誰が俺を笑わせる事が出来るかと言うものだった。
俺を笑わせた奴が独り勝ちと言う単純明快な賭けだ。
そして俺を笑わそうと必死になっていたが笑いを忘れた俺が笑う事などなく賭け金が持越しされていった。
大学に入るとキャリーオーバーが積み重なりかなりの金額になっていると言う噂が独り歩きし、参加者が急増してしまいノッチに強制的に俺名義の預金通帳を作らされてその月に集まったお金をノッチが翌月に入金していた。
それがスマイル貯金と言う訳だ。
いつもはノッチが集金しているのに年末年始で忙しくって彼女に頼んであったのだろう。
因みに預金額はノッチすら把握していない。
本人曰く毎月集まる金額すらかなりの額になっていて冗談半分で始めたのに大事になってしまい怖くて見る事が出来ないそうだ。
まぁ賭けの対象者である俺がそれを手にする事はあり得ない話なので放置してある。
「完璧に振られな」
「完璧にとか。振られたとか言うな。まだ確定してないだろ」
「でもノッチじゃないって」
「お前にだって恋人のこの字も無いだろうが」
「まぁな、恋人ね。カップルか」
時々こうしてキーワードの様な感じの言葉を聞くと胸騒ぎがして頭が重くなる。
そんな事を知らないノッチは話し続けている。
「自覚が無いのなら忠告しておく。生き返った様なお前のその青い瞳は非常に危険だ。特に男達は危機感を募らすだろう。何故か? お前の瞳で見つめられたら大概の女の子はキュン死するからだ」
「そんな事」
「無いと思うか? 目の前で見ただろうが」
確かに今まで怖がられて逃げられる事はあったがドキドキすると言われた事は無いが彼女1人では何とも言えないのが本当だ。
「ははん、半信半疑だな。俺はお前の先の先まで読んでいるからな。あいつを実験台にしたのは被験者を募るためだ」
「実験って人体実験じゃないか。あほかノッチは」
「題してチキチキ女の子は啓太の青い瞳で恋に落ちるか作戦だ」
「恋ね……ノッチ、恋って何だ? 教えてくれ」
「あのな、啓太。それが判れば俺もお前も苦労はしないだろ」
また頭が重くなってきた。
恋と言う言葉に反応したみたいだ。
こんな事が続き悪化すれば色々な言葉を聞いただけで反応を示し生活が成り立たなくなってしまうかもしれない。
違う事を考えようと頭を切り替えると俺より先にノッチが話題を変えてくれた。
「そうだ、啓太。聞いたか最近の噂を」
「噂? なんだそれ」
「何でも近くの大学に出たんだってよ」
「例のあれか?」
「違う違う、女の子だよ」
「女の子? どこの大学にも普通にいるだろう」
「普通じゃないんだよ。何でも行き交う人みんなに同じ事を聞いて回っているらしんだ」
「同じ事って何を?」
「それはだな、あれだ」
「はっきりしない奴だな。俺が奥歯に物が挟まった様な良い方が嫌いなことぐらい知っているだろう」
自分で話を振っておいて肝心なところで口ごもるノッチのケツを叩いた。
「悪かった。実はな『笑わない人を知りませんか』って聞いているらしい。まるでお前の事を探しているみたいだろ。気を付けろよ」
「気を付けろって言われてもそれだけじゃ、どんな女の子かすら判らないじゃないか」
「そうだよな確かに。でもその女の子を見たって言う目撃情報は凄く多いんだよ」
「まるでひと昔前の都市伝説みたいだな」
例のあれ?
都市伝説?
胸がざわつく。
そこに飛び出して行ったはずのノッチの幼馴染の女の子が飛び込んできた。
被験者でも連れて来たのかと思ったがそうではなさそうだ。
息を切らして気が動転しているようだ。
「ノッチン、大変だよ。出たの。出たんだよ」
「はぁ? 便秘でも出たのか?」
「マジで一回死んでみる? そうじゃなくて例の女の子だよ」
「ああ、今その話を啓太にって。本当か?」
「うん、中庭で大騒ぎになってる」
「啓太!」
ノッチの声で2人して窓から身を乗り出した。
ここの窓からは少し離れているが中庭が見渡せた。
中庭では数人の学生が何かを遠巻きに見ている。
その真ん中には白い服を着た女の子が1人の学生の腕を掴んで何かを必死に訴えていた。
着ている白い洋服は所々茶色く汚れている。
まるで地に落ちてしまった真っ白い小鳥がもがき苦しんでいるように見えた。
翼には力なく綺麗な羽は薄汚れ、周りには抜け落ちてしまった羽が舞っているみたいだ。
何なんだ、この焦燥感は?
心臓が早打ちし呼吸が浅く荒くなっていく。
頭の中の濃い霧が突風に流される様に急速に動き出している。
「まるで堕天使だな」
「堕天使……」
「おい! 啓太! 行くな!」
ノッチの叫び声など俺には届かなかった。
『堕天使』と言う言葉を聞いた瞬間にダウンコートを掴んで訳も判らず走り出していた。
心の奥で誰かが叫んでいる。
彼女に会いに行けと。
彼女の名前を叫べと。
突き動かされる様に校内を走り抜け階段を駆け下りる。
何事かと周りの奴らが驚いている。
そんな事はどうでも良い。
ただ中庭に全力で向かっていた。
中庭に走り込むと彼女が泣き叫んでいた。
「誰か教えて! 笑わない人を教えて! もう時間が無いのに判らないの!」
小さな体で地面に両方の拳を叩きつけている。
「教えて。お願いだから。判らないの……」
今度は頭を抱える様にして泣き崩れてしまった。
周りにいる学生はどうする事も出来ずにただ遠巻きに見ているだけだった。
このままだと警備員が来るか警察を呼ばれてしまうだろう。
訳が判らず飛び出してきてしまったが俺にも為す術が無かった。
すると後ろからノッチの声がした。
「なぁ啓太。彼女はやっぱりお前を探しているんじゃないのか? 笑わない奴なんてお前ぐらいだろう。それにこのブレスの片割れはあの子のじゃないのか?」
「でも、俺は……」
「無理に思い出せとは言わないせめて彼女の側に行ってやれ、ほら」
そう言ってノッチがあのペアブレスを俺の手に握らせた。
手を開くと赤茶色に輝くリングの刻印が目に入った。
「SI40N……シ・フ・オ・ン?」
「おい、あれ!」
男子学生の声で顔を上げると目の前で信じられない事が起き始めていた。
彼女が項垂れたまま立ち上がり彼女の体から無数の光の粒子が舞い上がっていく。
悲鳴とも驚愕とも言えない声が周りから上がった。
その瞬間、俺の頭の中を失った記憶が駆け巡りる。
酔っ払いに絡まれる女の子。
宙を飛ぶ少女。
美味しそうにホットミルクを両手で持って飲んでいる姿。
料理をしている彼女の後姿。
ナンパされているのにニコニコ顔の彼女。
なす味噌を男顔負けでガツガツ食べている。
可愛らしい寝顔。
浅草ではしゃぎ回る彼女。
拗ねた顔。
何時でも真っ直ぐに俺を見つめている瞳。
大観覧車から見た景色。
大きなクリスマスツリー。
ライトアップされたレインボーブリッジ。
切なすぎるクリスマスソング。
別れの時。
最後の……キス。
弾ける様に飛び散った光の粒子。
無意識に何かに突き動かされるのではなく。
確かに俺は俺の意思で彼女の名前を叫んでいた。
「け、啓太?」
「シフォン、ゴメンな遅くなって」
「啓太!」
シフォンの小さな体が俺の中に飛び込んできた。
不思議な事に周りの学生達は平然としている。
そして口々に……
「また、あいつか」
「マイルじゃん」
そんな事を言っている。
「シフォン、もう泣くな。な」
「ぬ、主様が……お前は2つの物を手に入れたって」
「2つの物?」
「うん、合格と恋だって。どちらかを選ぶように言われえ……どうしても啓太に会いたくて」
「で、合格を取り下げたと?」
「うう、らって。どうしても会いたかったの。主様が恋を取るなら条件があるって」
「条件?」
「私の中にある啓太の記憶と引き換えだって猶予は3日って言われて」
「それで笑わない人なのか随分と厳しい試練だな」
「恋って苦しくて胸がキュンってするもんなんだね」
「さぁな、俺にも判らないよ。俺が恋したのはシフォンが初めてだからな」
「ふぇ? 啓太の願って忘れる事じゃ」
「違うよ、もう一度シフォンに会いたいって」
シフォンの瞳から涙が溢れてまるで子どもの様に泣きじゃくっている。
別れの言葉ではなく。
これから先に続くことに。
「シフォン、大好きだよ」
そう言ってキスをした。
シフォンはまだしゃくり上げている。
「バカだな。こんなに汚しちゃって」
「啓太?」
顔に付いた汚れをハンカチ代わりに持っているバンダナでシフォンの顔を拭くと驚いた様な顔で俺を見ている。
「ふふ、どうしたんだ?」
「け、啓太が笑った」
「ええ、だってシフォンお前まるで遊び回ってきた子犬みたいだぞ」
「もう、ペットじゃないです」
「ふふふ、あはははは」
「もう、恥ずかしいです」
「へぇ?」
シフォンにそんな事を言われて顔を上げると学生達の体が硬直している。
そして……
「あいつが笑ったぞ!」
「見た! 見た?」
「ま、マイルがスマイルになった!」
などと口々に叫んでパニックになった蟻んこの様に動き出した。
すると後頭部に何かが当たった。
「啓太、さっきの閃光みたいのは何だ?」
「ノッチ?」
俺の後ろにはノッチが立っていて手にはポーチを持っている。
そのポーチで俺の頭を小突いたのだろう。
「まぁ、良いや。今日でスマイル預金も終わりだし。誰が独り勝ちするのかと思ったら、その子だろ柴又に行きたいって言っていた子は」
「えっ? ああ、俺の一番のシフォンだ。シフォン、こいつが俺の親友の野地だよ」
「よろしくお願いします」
シフォンが深々とノッチに頭を下げると、ノッチの目には毀れそうになっているものが光っている。
「うう、先を越されたか……それもこんなに可愛い子だったなんて俺も一緒に行けばよかった」
「まぁ、それは今更だしな。悪いな振られたばかりなのに」
「振られた言うな!」
シフォンが声を上げて笑っている。
天使のご加護か。
はたまた主様のいたずらか。
ノッチの記憶にも変化が起きている事が判る。
「あのう、すいません。お腹が空いて」
「そうだね。あっ、給料日前で」
「ほら、持ってけよ。啓太にじゃないからな。唯一啓太を笑わせる事が出来るシフォンちゃんにだからな」
そう言ってノッチがポーチを放り投げて踵を返して歩いていく。
クールを気取って片手を上げて手を振って……
あ、走り出した。
それも腕で顔を擦りながら。
「啓太、大好き!」
シフォンがありったけの力で俺に抱き着いてきた。
俺が笑顔と共に手に入れられたものは掛け替えのない存在だった。