Sand and Baked
翌朝、目覚ましではなくキッチンから聞こえる物音で目が覚めた。
キッチンに行くとAラインのモコっとしたグレーのワンピース姿の女の子が料理をしていて俺に気付き振り返った。
「あっ、あの。おはようございます」
「俺の名前は啓太だよ」
「啓太さん、勝手に使わせて頂いてます」
「構わないけれど何もないでしょ」
「任せてください」
俺の朝飯と呼べるものは牛乳と食パンにジャムを塗ったものくらいだ。
冷蔵庫にも食材と呼べるようなものは殆ど入っていないはずだ。
でも、テーブルに並んだ物はちゃんとした朝ご飯だった。
トーストにカフェオーレ、それに冷凍ホウレンソウ入りの卵焼きに小腹がすいた時に俺が良く食べる魚肉ソーセージが炒められて添えてあった。
「凄いな、久しぶりにまともな朝ご飯を見たよ」
「私、料理だけは得意なんです」
「そうだ君の名前を教えて欲しいのだけど」
「名前ですか?」
「うん、呼ぶ時に困るだろ」
何故か俺の質問に彼女が首を傾げている。
そして俺を見て教えてくれた。
「えっと、SI40N-7974154です」
「それが君の名前なの?」
「すいません。私達見習いには認識番号しか無いんです。天使になって初めて名前をもらえるんです」
「それじゃなんて呼べばいいの?」
「SI40N-7974154と」
「SI40Nって物じゃないんだから」
認識番号で呼んでくれと言われても困ってしまう。
俺の世界で人を番号で呼ぶなんて、知る限り塀の中ぐらいなものだろう。
「シフォンじゃ嫌かな」
「シフォンですか?」
それはSI40Nの語呂合わせで、俺のバイト先で扱っている商品の名前の一つだった。
昔読んだ漫画で370(みなわ)や337(ななみ)なんて言う語呂合わせのアンドロイドが出てくる漫画を読んだ覚えがある。
「あの、啓太さんが呼んでみてください」
「俺が君の名前を?」
「はい」
「シフォン」
「は、はい。何だか名前ってくすぐったいです」
彼女が顔を赤らめて嬉しがっているのが良く判る。
すると彼女が俺の顔を見て目を伏せた。
「ゴメンね」
「えっ、あの、何で啓太さんが謝るですか?」
「俺、無愛想で怖そうな顔をしているだろ」
それは俺を見た殆どの人が感じる事だと経験から知っている。
中には怖がって彼女の様に目を逸らして逃げていく人だっていた。
「そんな事は無いです。それにそれなら私と一緒です。不幸をくださいと言う私の事を気味悪がったり変な目をして逃げていったりする人が沢山います。でもそんな私を啓太さんは受け入れてくれました。だから啓太さんが優しい人だって知っています」
彼女が笑顔でそう言ってくれた。
そんな彼女を見ていると胸の奥がチリチリする。
それは言葉では表しようがない感じで。
俺にも普通に接してくれる友達が多くはないがいる。
そんな友達のあいつ等からは感じた事のない感覚だった。
時計を確認すると深く考えている時間はなさそうだった。
「俺、バイトに行かないといけないから留守番を頼めるかな」
「バイト? お留守番ですか?」
「一応、俺は大学生なんだけど小遣い稼ぎに仕事をしているんだ。今は冬休みで大学が休みだから早い時間から仕事に行っているんだ」
大学の冬休みなんて高が知れているしバイトをしなくても学費を納めても楽に暮らしていける。
そんな俺がバイトをする理由はただ一つ。
暇を持て余してしまうからと余計な事を考えなくて済むからだった。
「お仕事ですか。啓太さんの仕事場を見てみたいです」
「でも、仕事中は相手出来ないよ」
「はい、構いません。私は適当に時間を潰します。駄目ですか?」
試験の期日まで残り2日なのに適当に時間を潰すって、でも俺と一緒に居られないのなら彼女にとっては同じように無駄な事なのだろう。
それを無下に駄目だと断る理由は存在しなかった。
「それじゃ外は寒いから上着を持ってきて」
「はい」
素直で可愛くて凄く良い子だと思う。
でも俺の心は反応すらしなかった。
彼女が部屋に戻り襟がベージュのファーになっている茶色いコートを着てきた。
下に着ているワンピースはグレーで落ち着いた雰囲気になっている。
コートは大人っぽい姉貴の物でワンピースは可愛らしい物が好きな妹の物だった。
2人の物を合わせるとこんな風になるのかと感心してしまう。
「それじゃ行こうか」
「宜しくです」
姉貴と妹が珍しく共同で買ったスエードのロングブーツを箱から取り出した。
ダークブラウンで履き口に折り返しがあり可愛いボンボンが二つ付いていた。
歩いてバイト先まで向かう。
この辺りは学園都市として再開発され多くの高校や大学が集められている。
その為か駅前にはカジュアルな飲食店からファッショナブルなお店が立ち並んでいる。
大通りに出るとその先に大きな駅が僅かに見える。
「そうだシフォン」
「何ですか?」
小柄なシフォンが背の高い俺の顔を見上げた。
「大丈夫だと思うけれど俺以外には天使の話をしたり力を使ったりするのは無しにしてくれないかな」
「判りました。でも力って言っても願を叶える事と少しだけ飛ぶことが出来るくらいですから」
「そっか。じゃなるべく飛ばないようにね」
「はい」
シフォンが楽しそうに腕を後ろに回して俺の横を歩いている。
俺の鉄の鎧が浸食されてきている事なんて気付く術もなかった。
しばらくすると『Sand and Baked』と言う看板が出ている俺のバイト先が見えてきた。
バイト先はサンドイッチと焼き菓子がメインのカフェになっている。
もちろんテイクアウトも可能だ。
無愛想な俺が接客なんて出来るはずもなくキッチンで働かせてもらっている。
中々バイトが見つけられなかった時に半ばあきらめ気味で面接を受けて、ここの店長は俺の事情も判った上で雇ってくれたとても良い人だ。
「それじゃ仕事をしてくるから」
「はい、判りました」
中抜けの様な長めの休憩時間と仕事が終わる時間をシフォンに告げて俺は店の裏口に向かった。
着替えを済ませてタイムカードを押す。
この店の制服は黒で統一されている。
今の時期は黒の開襟シャツにキッチンは黒いズボンで黒いエプロン。
ホールの女の子は黒いスカートにショートタイプのこげ茶色のカフェエプロンをしている。
夏場は開襟シャツがポロシャツに変わる。
「おはようございます」
「おい、マイル。あの子ってマイルの彼女か?」
「違いますよ。事情があって明日まで俺が預かる事になった女の子です」
「まぁ、マイルなら間違いなんて事ないからな。でも凄く可愛い子だな」
「そうですね」
「相変わらずだな、お前は」
キッチンに入ると店長が駆け寄ってきてシフォンの事をいきなり聞かれてしまう。
この店は通り側が大きなガラス張りになっていてキッチンもオープンスタイルになっている。
それ故に通りから焼き菓子をオーブンから取り出すのが見えたりサンドイッチを作る作業が見れたりする。
そして客席も通りから見える造りになっている。
因みにマイルは俺のニックネームだ。
俺の仕事は基本店長の補佐で焼き菓子を焼いたりサンドイッチを作ったりする。
臨機応変にと店長が教えてくれたとおり何でもする。
結構な人気店でそれなりに忙しい。
波が一段落して時計に目をやると休憩までにはまだ一時間ちょっとの時間だった。
「おい、マイル。今日はもう休憩に行け」
「えっ、まだいつもの時間まで1時間くらいありますよ」
「良いから、ほれ」
店長がガラスの外の通りに目をやっている。
俺が通りを見るとシフォンが店の前でガードパイプに腰掛けて微笑んでいる。
すると2人組の男がシフォンに近づいていき何か話しかけている。
お決まりのナンパイベントだろうと容易に想像がつく。
何処かの大学生だろう。
ナンパされていると言うのにシフォンは常に笑顔で対応している。
「少し前からずっとあの状態の繰り返しだ。見ている俺の方が冷や冷やするぞ」
「あいつなら大丈夫ですよ」
「どうしたらそんなにクールになれるんだ。良いから俺の言う事を聞いて休憩に行って来い」
「はい、判りました」
店長に尻を叩かれてバックヤードのロッカー室に入り黒いダウンコートを着て裏口から大通りに出ると2人組がまだシフォンに食い下がっていた。
「シフォン!」
「啓太さん、どうしたの?」
俺がシフォンの名を呼ぶと2人組が驚いた様な顔して足早に立ち去った。
明らかに俺の顔を見てギョッとしていた。
するとシフォンが駈け出して来て俺の腰の辺りに抱き着いてきた。
「どうしたんだ。時間を潰すんじゃ」
「ブラブラするのに飽きちゃいました。それでここで啓太さんを待ってようと」
「そうしたら男達が声を掛けて来たと」
「はい、あれって何ですか?」
俺が思った通りシフォンはナンパなんて事を知らなかった。
「英語で言うとピックアップかヒットオンかな」
「私はピックアップなんかされません。啓太さんが居ますから」
少し怒ったような顔でシフォンが見上げる様に俺の顔を見ながらそんな事を言う。
彼女の瞳は何処までも真っ直ぐで調子が狂ってしまう。
通りからキッチンを見ると店長が『グッジョブ!』と親指を立てて真っ白い歯を出して笑っている。
溜息をついてシフォンの手を取り店の前から早々に離脱する。
とりあえず歩き出すと通りの向こう側から声を掛けられた。
「マイル君! 後からね」
「うわぁ、彼女?」
そんな事を言いながら2人のOLさんが手を振っている。
愛想笑いすら出来ない俺は軽く会釈して手を振って全否定しておいた。
「啓太さん、あの方は?」
「お店の常連さんだよ」
「でも、啓太さんの事をマイルって」
「ああ、それは俺のニックネームだよ」
「まるで外人さんみたいで格好良いです。それに黒髪に黒い服に青い瞳って凄く素敵です」
シフォンの言葉で自分の格好を見ると確かにカラスの様に真っ黒だった。
唯でさえ碧眼の俺は目立つので普段から地味な色合いの服しか着ない、黒のダウンコートは偶々出る時に手にしただけだ。
長い黒髪に黒い衣装を着け青い瞳で体に傷跡のある女の子のキャラがネットで話題になっていたような気がするがそれは放置する。
「なぁ、シフォン。格好良いとか素敵とか平気で言うけど恥ずかしくないか?」
「恥ずかしくは無いです嘘じゃありませんから」
「まっ、冗談半分で聞いておくよ」
「天使は決して嘘は付きません。天使の禁止条項第一条の一は『天使は人を欺いてはならぬ』ですから。まだ見習いですけど」
「それじゃ、天使の決まりごとに人を喜ばすって決まりがあるのか?」
「それは……ありません。天使の見習いは人の望みを存在の力で叶えるだけです。ただ」
「ただ?」
「私は感じたままを素直に口に出しただけです。この感じが何なのかは私には判りません」
少し寂しげに俺の顔をシフォンが見上げている。
俺には微笑んでやる事も出来ず、ただシフォンの頭の上に手を置いて撫でてやった。
「啓太さんの手って温かいです」
「他にはどんな禁止事項があるのかな?」
「第二条の叶えられる願いを断ってはならないとか、ええっと」
シフォンが気まずそうな感じで何かを考えているように見えた。
「まぁ、良いや。飯でも食うか」
「はい、ご飯ですね」
天使の見習いも天使も純粋で真っ直ぐな存在なのだろう。
今の俺にはそれくらいの事しか頭に浮かんで来なかった。
学園都市は綺麗な街でおしゃれな店が多いけど学生の街なので通りから一本裏道に入ると安い定食屋や飲み屋が点在している。
小奇麗な店に行こうかと思ったけど俺とシフォンでは目立ちすぎるし恥ずかしいのでいつもの定食屋に向かった。
「いらっしゃいませ。お2人さんこちらへどうぞ」
店員のいつものおばちゃんが直ぐにテーブルに案内してくれる。いつもより早い時間なのでそれほど混雑はしていなかった。
「メニューから食べたい物を注文して」
「はい、判りました」
シフォンが頼んだのはなす味噌炒め定食で俺は定番で一番人気の生姜焼き定食を小ライスで注文した。
お店に来る客は学生がメインなのでほとんどの店が安くて美味くてボリューム満点をうたい文句にしている。
そんな店の中でも上位に入るのがここで男子学生でもそのボリュームから小ライスを頼む奴が結構いる。
シフォンにも小ライスを進めたが普通のでと言い切られてしまった。
目の前には大盛りのキャベツの千切りに乗せられた皿から溢れんばかりの生姜焼きとなす味噌炒めがあり、俺の前には小ライス(普通の茶碗)と普通のライス(大きな茶碗)に入れられたご飯とみそ汁が湯気を立てていた。
「「いただきます」」
2人同時に手を合わせて箸を伸ばした。
「ん! ふごくおいひいでふ」
「凄く美味しいのは良く判るから食いながら喋るな」
「ふぁい」
凄く可愛い顔をした女の子が嬉しそうに男も負けそうな勢いでガツガツ食べている。
隣で食事をしている学生が少し驚いた様な顔をしてこちらを伺っている。
男子学生だけじゃなく女の子も良く来る店だが、シフォンの様に男勝りな食べ方をする女の子なんて先ず居ない。
まるで子どもの様にしか見えなかった。
「美味しかったです」
「ほら、ほっぺにご飯粒が付いてるぞ」
指でシフォンのほっぺに付いているご飯粒を指でとって口に放り込んだ。
「啓太さん、お手数をお掛けします」
「俺の事は呼び捨てで良いよ」
「でも」
「俺が良いって言ってるんだから良いんだよ。シフォンって俺と同い年か一つ下位だろ」
「あの、天使には年齢はありません。でも人で言えば私は180年位生きてます」
思わず飲みかけていたお茶を吹き出すところだった。
「げふぉ、げふぉ。180年?」
「はい」
周りはかなり騒々しいのでシフォンとの会話なんて聞いている奴は居ないだろう。
それでも驚いて声を上げてしまった。
「なぁ、シフォン達って成長するの?」
「失礼です。啓太さん。あっ、啓太は。私達だって成長します確かに時間の流れが違うからとてもゆっくりですけど」
「ゴメンゴメン、そうだよね、最初から大人になんてなれないもんな」
普段なら店に戻りバックヤードで昼寝をするのだがシフォンが一緒なので定食屋を出て街中を少し歩くことにする。
「啓太、あれは何ですか?」
シフォンはまるで子犬の様に色々な物に興味を示し、その度に繋いでいる俺の手を引っ張って突撃していく。
一つ一つきちんとシフォンに判る様に説明していく。
デートってこういう事を言うのかな。
そんな事が頭の中を過る。
でも、彼女すら出来た事のない俺には良く判らなかった。
シフォンに聞いてもたぶん同じ答えが返ってくるだろう。
それともう一つシフォンに啓太と呼ばれるとまた胸の奥がチリチリした。
一頻り歩き回り休憩時間が終わるので店に戻る。
「それじゃ終わりの時間にな」
「はい、判りました。今度は少し遠くまで歩いてみたいと思います」
「気を付けろよ」
「大丈夫です。一応、見習いですから」
「そうだったな」
店の前で別れてロッカー室でコートからエプロン姿になりキッチンに向かう。
店長が見当たらないので店内を見渡すと窓際の席に店の前で別れた筈のシフォンが座っていて店長と談笑している姿が目に飛び込んできた。
「店長、いったい何を?」
「マイルはまた彼女を独りぼっちにするつもりなのか?」
「いや、俺は仕事ですから仕方がないじゃないですか」
「そこでだ、彼女にはここでゆっくりしてもらう事にした。それと店長権限で彼女は好きなだけ飲んだり食べたりして良い事にする」
「意味がわからないす」
「まぁ、良いじゃないか。マイルも彼女がここに居た方が安心だろ」
「そうですけど」
完璧に店長に押し切られてしまった。
それに店長が言おうとしている事も理解できる。
いつまたピックアップされるか判らないし、中には強引な奴もいるからだ。
するとシフォンが聞かなくても良い事を店長に聞きだした。
「店長さん。啓太は何でマイルなんですか?」
「マイル、彼女の名前は?」
「シフォンです」
「可愛い名前じゃないかハーフかな?」
「そんな感じです」
俺がシフォンの名前を店長に告げると店長がシフォンに笑顔で質問した。
「シフォンちゃんは一番長い英単語って何か知っているかな?」
「英単語ですか?」
「そう、英単語で」
「Pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis(*1)ですか?」
「へぇ?」
「あっこれは肺の病気の名前です」
「そうなんだ」
「因みに地名ならTaumatawhakatangihangakoauauotamateapokaiwhenuakitanatahu(*2)で、ニュージーランドにある高さ305mの丘の名前です」
「……シフォンちゃんって博学なんだね」
「店長、仕事をしてください」
「マイルが仕事をしろ。俺は小休憩中でシフォンちゃんと楽しいお喋りタイムだ」
呆気に取られている店長に声を掛けると切り捨てられてしまった。
*1ニューモノウルトラマイクロスコーピックシリコヴォルケーノコニオシス
*2タウマタファカタンギハンガコアウアウオタマテアポカイフェヌアキタナタフ
溜息をついて仕方なく仕事を開始する。
一通りの事は教え込まれているので次の段取りはだいたい判っている。
店内はお客さんも疎らで店の奥にあるドリンクカウンターでは3人の女の子スタッフが俺と店長のやり取りを見て笑っている。
このお店のスタッフ達は俺の事情を知っているので怖がったりしない。
それでも人付き合いが苦手な俺はそこまで彼女達と打ち解けていないのが事実で忘年会や新年会を店長が開いてくれても正直戸惑ってしまう事が多い。
「シフォンちゃん、これはなぞなぞだよ」
「なぞなぞですか?」
「そう、答えはSMILESだよSとSの間が1マイルも離れているからね」
「本当だ、凄いです。そのマイルが啓太ですか?」
「う~ん。シフォンちゃんは啓太の家族の事は」
「啓太から聞きました」
「そうか、啓太は家族を失ってから全く笑わなくなってしまったらしいんだ。それで啓太の友達が付けた渾名と言うかニックネームが笑顔から一番遠い男マイルになったんだよ」
「そうだったんですか。私が啓太に『辛かったんだね』って訊ねると『どうなんだろう』って言ってました」
「大き過ぎる傷が全ての感情を切り取ってしまったのかもしれないね。シフォンちゃんには啓太の側にずっと居てもらいたいな」
「でも、それは無理です。約束の日は明日までですから」
「そうか、無理なお願いをしてゴメンね。好きな物を注文してくれて構わないよ。支払いは気にしなくて良いから」
「ありがとうございます」
店長がシフォンに話していた事は俺にとっては今更な事だった。
あの日に全て終わってしまったのだから。
店長がキッチンに戻ってきてしばらくすると店内が慌ただしくなってきた。
シフォンは窓際の席で自分の名と同じ名のシフォンケーキに添えられた特性生クリームを付けながら頬張りオレンジティーを優雅に飲んでいる。
いつもより数段忙しく焼き菓子を追加で焼いたりサンドイッチを急いで仕込んだりしているうちに終わりの時間が迫ってきていた。
「疲れた」
「流石、シフォンちゃんの集客率は抜群だな」
「ああ!」
気付いた時には既に遅しと言うあれだ。
何故、店長がシフォンを目立つ窓際に座らせて無料で飲み食いさせたのが判った瞬間だった。
普段は女性客が多いお店なのに今日はカップルには見えない男性客と女性客の組み合わせがやたら多かった。
窓際に座っているシフォンを見て気になった男達が女友達を誘って普段は入りづらいこの店に来ていたと言う構図なのだろう。
女友達にしても男友達に誘われれば当然の様に奢ってもらえて尚且つ人気の店に来られるのだから喜んで一緒に付いて来る筈だ。
まぁ、今日一日限定の裏技の様なものだと思った。
「マイルも辞めないでくれよ。うちの看板男子なんだから」
「お疲れ様でした。お先で~す」
項垂れて店を後にする。
俺が看板男子ね、まるで何々系男子とか言われているみたいだ。
確かに俺も目立つ日本人には珍しい碧眼だし背は高いし。
で、マイルなんて呼ばれればまるで日本語がバリバリのちょっとシャイなハーフにしか見えないのだろう。
これも気付いた時にはって言うやつだ。まぁ、大変だけどそれなりに楽しくは感じているから良しとしよう。
笑えないけど……
夕飯を済ませ風呂に入るとシフォンも風呂から上がってきて自分でホットミルクを作って俺が居るリビングのソファーにやってきた。
「啓太、隣に座っても良いですか?」
「構わないよ」
シフォンがちょこんと俺の隣に座り両手でマグカップを持ってホットミルクを飲んでいる。
カップをテーブルに置くと俺に凭れかかってきた。
「今日は沢山歩きました」
「疲れたね。部屋で早く寝な」
「ふぁい、啓太は優しい匂いがしまふぅ……」
「ふぅ……ってシフォン。自分の部屋で」
シフォンの体から力が抜けて俺の肩に頭を置いて眠りに落ちてしまったようだ。
温かくとても柔らかい物を全身で感じてしまう。
仕方なくシフォンの体を手で支えながら立ち上がり一旦シフォンの体をソファーに寝かせる。
シフォンが使っている姉貴達の部屋にあるベッドに連れて行くため起こさない様にそっとシフォンの体を抱き上げた。
すると鼻をくすぐる様な良い匂いがして胸の奥でカチンと何かが嵌まる様な音がしたような気がした。
でも今はそんな事に気を取られている場合ではなくシフォンをベッドで寝かせるのが最優先事項だった。
シフォンをベッドに寝かしつけ自分の部屋に戻ると仕事の疲れからかあの音が何なのか気にする間もなく俺自身も深い眠りに落ちた。