吾輩を知っているか
見ざる言わざる聞かざる。
これを聞いて、諸君はどう思う。
なるほど立派な教えだとでも思うか。
だが吾輩に言わせれば、実に曖昧である。
何を見ぬのか。
何を言わぬのか。
何を聞かぬのか。
そこが抜け落ちたままでは、戒めにも美徳にもなりきれぬ。
都合の悪いことを見ないのか。
余計なことを言わないのか。
嫌な話を聞かないのか。
前に何を置くかで、ずいぶん顔つきが変わるではないか。
人間どもは、こういう曖昧な形を好む。
収まりがよく、覚えやすく、しかも少し賢そうに見えるからである。
なるほど、たしかによくできている。
見ざる言わざる聞かざる。
語呂もよい。
いかにも教えらしい。
だが、うまくできていることと、正しいことは別の話だ。
主語を足してみるがよい。
都合の悪いことは見ない。
都合の悪いことは言わない。
都合の悪いことは聞かない。
どうだ。
急にありがたみが薄れたであろう。
つい先ほどまで立派な処世訓に見えていたものが、たちまち言い訳くさくなる。
ではこうしてみるか。
余計なものは見ない。
余計なことは言わない。
余計な話は聞かない。
これなら少し賢そうである。
無駄を省き、心を乱さず、穏やかに生きる知恵のようにも聞こえる。
だが吾輩は思う。
それがうまくいくのは、まだ何も起きておらぬ時だけではないか。
危機というものは、たいてい余計なものの顔をして近づいてくる。
妙な物音。
場にそぐわぬ沈黙。
いつもと違う気配。
そのとき、これは余計なものゆえ見ない、聞かないなどと決めこんでいて、間に合うものか。
平穏な暮らしの知恵は、土壇場ではそのまま盲目の作法にもなる。
だから吾輩は、三猿を見るたびに少々首をかしげるのである。
人間どもはあれを賢そうに語るが、本物の猿はそんなふうには生きておらぬ。
吾輩は見る。
とにかく見る。
上も見る。
下も見る。
横も見る。
仲間の顔色も見る。
藪の揺れも見る。
枝の先も見る。
視線というものは、命綱である。
ニホンザルは視覚を中心に五感を使って生活すると案内されているが、まあ当然である。見なければ危ういものが多すぎる。
聞くのも同じだ。
吾輩は聞く。
とにかく聞く。
葉擦れの音、遠くの騒ぎ、仲間の声、近くの異変。
ニホンザルは群れのまとまりを保つために鳴き交わしをするという報告もあるが、これもまた当然である。聞こえねば、気づけぬ。気づけねば、遅れる。
話すほうはどうか。
これも、まあ、それなりにはやる。
人間ほど器用に飾れぬだけで、知らせるべき時には声を出す。
黙ってばかりで群れが回るほど、世の中は甘くない。
そもそも吾輩らは、教訓になるために生きておらぬ。
ありがたい顔で木の上に座り、処世訓を背負うために生まれたわけでもない。
生きるために見る。
危ういものを聞く。
必要なら声を出す。
ただそれだけの話である。
だが、ただそれだけのことが、案外いちばん難しい。
見ないことが慎みになることもあろう。
聞かないことが平穏を守ることもあろう。
言わないことが争いを避けることもあろう。
それは否定せぬ。
だが、何を見ず、何を聞かず、何を言わぬのか。
そこを取り違えれば、美徳はたちまち怠慢に変わる。
賢さは臆病に変わる。
沈黙はただの先延ばしに変わる。
人間どもは、言葉の形を整えるのがうまい。
中身が少々危うくとも、うまい言い回しに包めば、立派な教えに見せられる。
まことに便利なことである。
だが猿である吾輩には、そういう余裕はない。
見ねばならぬものは見る。
聞かねばならぬものは聞く。
言わねばならぬ時は言う。
それでようやく今日を越える。
さて。
見ざる言わざる聞かざる。
まことに収まりのよい言葉である。
だが、もしその主語をひとつ取り違えたなら。
三猿の主語を取り違えた時、吾輩に明日は来ると思うか。




