緑の爪
かつて果てしない砂の海を「死の世界」と嘆いた男がいた。科学者の名はチャド・モリタニア。彼は砂漠の復興を夢に描き、その夢を実現した。生涯をかけてある装置を作り上げたのだ。
それは成層圏近くを自在に遊泳し、大気中の水分を強制的に凝結させて雨を降らせる、空飛ぶ気象制御ユニットだった。
彼はそれを「砂漠の守護者」と名付け、決して壊れることのない堅牢な装甲を与えて空へと放った。
最初の十年は奇跡のようだった。乾ききった大地に雨が降り、緑が芽吹き、人々に希望の花を与えたのだ。しかし時を経るにつれ、その祝福は呪いへと堕ちることになる。
数十年後、黄金色だった大地は鬱蒼とした緑に覆われていた。急激な湿潤化が乾燥に適応していた砂漠の生態系を根底から破壊してしまった。
サボテンは根腐れを起こして溶け、砂に潜む昆虫や爬虫類は湿気による疫病で死滅した。代わりに蔓延ったのは異常成長した湿地帯の植物と、湿気を好む外来の害虫たちだった。
かつての守護者は今や終わることのない豪雨を撒き散らし、生態系を蹂躙する移動要塞と化した。悪意さえ持たず、ただひたすらにプログラム通りの雨を降らせ、砂漠に破壊をもたらし続けた。
ニーリはチャドと同じ血を引く砂漠の民だ。生態学者としての知識と砂漠で育った直感を併せ持つ彼は、この異常な緑化がもたらした真の被害を正確に理解していた。
古い研究ノートを見つめる。そこには先祖の絶望と、未来への切なる願いが記されていた。
『もしも守護者が破壊者へと堕ちたなら、必ず砂漠の民が止めてくれ。私はただ花を咲かせたかったのだ』
私は、砂漠を殺したかったわけではない――。
若きニーリが今、飛行船《テネレ=サハラ》の操縦桿を握っている。
ニーリもまた砂漠を取り戻すことを夢に描いている。ただしそれは無秩序な雨によってではない。
彼は先祖に報いるため、そして未来のため、この過剰な緑を排除し、かつての静寂なる砂漠を取り戻さなければならなかった。
目の前には分厚い積乱雲を纏い、威圧的に空に浮かぶ影がある。スーパーブルームは想像を絶する巨大さだった。
テネレ=サハラが暴風雨の中を突き進む。雷鳴が轟き、移動要塞の自動防衛システムが侵入者を排除しようと高出力の熱線を放つ。ニーリは巧みに操縦桿を操り、要塞の死角へと滑り込んだ。
「クロー射出!」
船体が激しく揺れ、鋼鉄製の巨大な爪がスーパーブルームに食らいつく。先祖が遺した数々の設計図を基に作り上げたシリコンカーバイドの爪だ。
移動要塞の堅牢な外殻を貫き、内部回路にウイルスプログラムを直接流し込む、深緑のハッキング・クローだった。
F=ma――単純かつ暴力的な物理法則に従い、爪は移動要塞の側面装甲へと激突する。火花が散り、金属が悲鳴をあげる。
決して壊れないと人が謳った装甲に、同じ人の執念が亀裂を入れる。鈍い音が響き、緑の爪は要塞の装甲深くへと食い込んだ。
「データリンク確立。システムへの侵入を開始」
ニーリの指がキーボードを叩く。要塞の回路図を頭に描きながら、彼は要塞の中枢システムへと侵入した。防御プログラムの激しい抵抗に遭いながらも這うように要塞の弱点を探り当てる。
いくら堅牢を誇っても、その要塞はあくまで「砂漠の守護者」として作られたものだった。自身への物理的干渉に反撃する手段は持っていたが、内部からの《停止命令》に対する防御は甘かったのだ。
「眠れ、我らが砂漠の父の夢よ。お前の使命は……終わったんだ」
最後のコマンドが入力された瞬間、スーパーブルームの重力制御システムが停止した。一度も止まることなく砂漠の空を飛び続けてきた移動要塞が遂に力尽きた瞬間だった。
巨大な機体はバランスを失い高度を下げ始める。金属の軋む音はさながら堕ちる巨鳥の断末魔であった。ニーリは急いでワイヤーを切断し、急旋回してテネレ=サハラを退避させた。
ニーリは窓越しに守護者の最期を見届けた。かつて砂漠に雨をもたらし、そして砂漠を殺した機械の神は、自らが生み出した鬱蒼たる緑の森へと向かっていた。
やがて轟音と共に大地に激突し、地響きが空まで届いた。数百年を生きた巨木たちがなぎ倒され、土煙と水蒸気が混ざり合った爆風が広がる。
要塞は森をえぐり、その体を埋没させて沈黙した。
墜落した移動要塞の残骸は、周辺の集落の人々によって解体され、貴重な資源として回収された。かつての守護者の部品は、今度は人々の生活を支える道具として生まれ変わったのだ。
しかしすべてが消え去ったわけではない。
要塞が墜落したその場所には巨大なクレーターが残されていた。中心部に、あの日ニーリが射出した緑の爪だけが、回収されることなく墓標のように佇んでいる。
いつかこの爪も錆びてゆくだろう。そして人が空を操った傲慢と、それを砂に還した執念の象徴として、いつまでも在り続けるだろう。
ニーリは時折その場所を訪れては爪に手を触れる。過剰な緑が徐々に鳴りを潜め、爪の周囲から懐かしい砂の色が広がる光景を描く。もはやそれは夢ではなかった。
「約束は果たした。安心して眠ってくれ」
風が頬を撫で、遠くから聞こえる砂の歌が彼の言葉に応えるようだった。
砂漠は長い時間をかけて、本来の静寂を取り戻そうとしていた。




