第9話 お母さんはケーキを食べない
近くにあるケーキ屋さんは結構遅くまでやっているので、ケーキもまだ残っていた。午後の三時くらいだったから、おやつを買いに来た人たちで、店はだいぶ混んでいたけど。
でも、その人たちも響さんを見かけるとぎょっとした顔でいなくなってしまった。まあ確かに、顔も腕も傷痕だらけだし、ちょっと怖いかもしれない。
「ね、響さん、言ったでしょ。バイク持ってこないほうが良かったって。響さん、ただでさえ怖いんだから、バイク乗ってたらさらに怖いよ」
「まあ、そうだな……俺の顔はそんなに怖いか……?」
響さんは首をひねっていたけど、確かにちょっと怖い。傷痕があるだけじゃなくて、なんというかこう、全身の雰囲気が。
二人は図書館に来るときにバイクに乗ってきたみたいで、響さんはライダースーツを着ている。なのでただでさえ全身真っ黒なのだ。一歩間違えたら不審者だと思う。
「これ以上、職質とか受けるの嫌だからね、僕」
「それはまあ……悪い。普通にしているだけなんだがな……」
古海くんって、響さんが相手だと、だいぶ遠慮なく話すなあ……
新発見をした気分になりつつ、私はショーケースを眺める。お母さんは何故かショートケーキがちょっと苦手みたいで、コンビニスイーツとかもあんまり食べない。たまにココアを飲んでいるくらいだ。私の誕生日にも基本的に、私のケーキしか買わない。
けれど、昔、一回だけケーキを食べていたような気がする。いつだったか忘れちゃったけど、なんだったか、オペラ? とかっていう名前だった気がする。ちょっと苦くて、私は苦手だった。
「オペラ……オペラ……これかな……?」
ショーケースの中に「オペラケーキ」と書かれたケーキを見つける。表面がつやつやしたチョコレートケーキで、中身はいくつかの層に分かれていた。多分、これだと思う。説明文を読むと、中にコーヒー風味のシロップが入っているらしい。苦かったのはこれかもしれない。
「神崎さんのお母さん、これが好きなの?」
古海くんが隣にしゃがみこむ。私は首をひねった。
「うーん、多分……? お母さんって、普段はケーキもお菓子もほとんど食べないんだけど、前にこれ食べてたような気がして……」
「オペラケーキか。いいんじゃないか、高級感があって」
響さんが顎に手を当てながらケーキを眺めた。
「ただ、スポンジにコーヒーを染み込ませているタイプのケーキだから、ロウソクを刺すと崩れるかもしれないな……」
「えっ」
それは考えてなかった。確かに、ロウソクは絶対に立てたい。
「まあ、最近は数字の形のロウソクもあるし、最小限の重みで済むだろう……店主。この店に軽いロウソクはあるか。このケーキに刺しても大丈夫かを知りたいんだが……」
さくさくと話が進んでしまって、私はあわあわした。そこまでしてもらうつもりじゃなかったのに。
ぽん、と不意に肩が叩かれる。古海くんだ。
「響さん、基本的にあんまり人の話は聞かないから、気遣ってるとかじゃないと思うよ。自分が気になったから聞いてるだけ。気にしなくていいよ」
「え、でも、悪いし……」
「本当に気にしないで。こうやって周りに気を遣わせてること、この人は気づいてないんだよね……」
やれやれ、とでも言いたげに肩をすくめる様子がなんだかおかしくて、私はちょっと笑ってしまった。普通は大人が子供の面倒を見るものなのに、この二人だとまるで逆だ。
「君! このケーキ、予約もできるそうだ。君の名前で予約をしたほうがいいだろう? 下の名前を教えてくれないか」
急に響さんに呼び止められて背筋が伸びる。そういえば名前を教えていなかったかもしれない。
「か、神崎、琥珀です」
「琥珀くんか。分かった。店主、神崎琥珀という名前で予約を。引き取りについては……」
「あ、あの、そこまで進めてもらわなくても……!」
ん? と響さんは首を傾げながらこちらを見る。いや、ん? じゃなくて。
ふと彼の手元を見ると、なぜか財布を開けていた。……待って、お金払ってる!?
「えっ、えっ!? ケ、ケーキ代は私が払います!」
「いやいい。オペラケーキは高いからな」
高い……? と思って値段を見ると、なんと他のケーキの二倍くらいの値段だった。私はびっくりして思わず固まる。
「安いものもあるが、きちんといちから手作りしているケーキ屋だったらこんなものだろう。小学生が払うには高い」
「で、でも……!」
「蓮と仲良くしてくれている子の母親なら、俺からも礼を言うべきだ。同級生の父親からの祝いだとでも言っておいてくれ。ほら、君の母親はいくつになる? ロウソクは選んだほうがいい」
「え、えっと、お母さんは三十……いやそうじゃなくて……!」
流されそうになって慌てて首を横に振る。なんだかんだでお母さんの年まで言っちゃうところだった。危なすぎる。
というか、問題はそこじゃない。確かに、ケーキがこんなに高いだなんて知らなかったけど、だからって払ってもらうためについてきてもらったんじゃないのに……!
すると再び、私の肩に古海くんがぽんと手を乗せた。
「響さん、こういうところ無駄に頑固だから諦めた方がいいよ。気を遣わせるなっていつも言ってるのに、ごめんね」
「お、お母さんみたいなこと言ってる……」
私たちがわちゃわちゃしている間に、響さんは代金を払い終えていた。早い……
「そうだな……蓮も好きなのを選んでくれ。今日は俺の用事に付き合ってもらったからな」
「響さん、そういう気遣いはできるのに、なんで神崎さんへの気遣いは皆無なの? しおしおになっちゃってるよ、神崎さん」
「は? 待て、俺はまた何か間違えたのか」
「響さんは大体いつも間違えてるよ」
やっぱり古海くんは響さんには当たりが強い。でもケーキは好きなのか、ショーケースのほうにとてとてと寄っていく。
ちょっと可愛いなと思ったところで、私のスマホから着信音が鳴った。
びくっと肩を跳ねさせながら、慌ててスマホを見る。
「わっ、えっ、お母さん……!?」
反射的に空を見ると、少しだけ薄暗くなってきていた。まずい。よく考えたら、もうすぐ日が暮れる。すぐに帰るって言ったのに。
「こ、古海くん、ちょっと外で電話してくるね……! お母さんから電話来ちゃって……!」
「ああ……うん、わかった。じゃあ神崎さん、ちょっと待って」
きょとんとした私の前に古海くんがやってきて、今ちょうど私が足を踏み出そうとしていた地面を、なぜかダァン! と力強く踏みしめた。ぽかんとする私の前でぐりぐりと足を地面にこすりつける。
「よし、いいよ」
「……待って絶対に今そこに何かいたよね!?」
「うん」
「うんって言った!」
「気をつけてね、外にも何人かいるから。今ちょうど僕が踏み潰したの見てただろうから、滅多に襲ってこないとは思うけど」
「踏み潰したって言った!」
もう何があったのか聞くのはやめよう。怖すぎる。ていうか地面にいすぎじゃないかな、幽霊っていうものは!
半泣きになりながら自動ドアを抜けて、私は外で電話を取った。
「も、もしもし、お母さん?」
『琥珀、何やってるの? もうそろそろ日が暮れるよ?』
「ご、ごめん。本選んでたら遅くなっちゃって……でももう終わったから、今帰ってるとこだよ」
『あんた、もうちょっと遅かったら迎えに行くとこだったんだからね? ていうか今からでも迎えに行こうか? スマホのGPS見たら、どこにいるかは分かるし……』
やばい! GPSを見られたら、私がケーキ屋さんにいることがばれてしまう。このケーキ屋さんがある道は行き止まりになっていて、地図を見たら一発で「あ、ケーキ屋目当てでこの道に入ったんだな」というのが分かる作りになっているのだ。
私は慌てて首をぶんぶん横に振った。別に電話向こうのお母さんに見えるわけじゃないのに。
「い、いいよ! すぐ帰るから! 五分くらいで着くんだから、お母さんが準備している間に家着いちゃうよ!」
『それもそうだけど……』
まずい、このままだとお母さんはGPSを確認してしまう。一瞬、ケーキ屋さんから離れたほうがいいかもしれない。
私はさっと周りを見た。二人くらいの幽霊が路地裏から私を見ているけれど、襲ってくる感じはしない。古海くんがさっきまで一緒にいてくれたからだろう。
古海くんと響さんには心配をかけちゃうかもしれないけど、ここでお母さんにバレるほうがまずい。全部が台無しになってしまう。
やっぱりちょっと離れよう。一番近くの大通りまでは、角を曲がればすぐだ。
ケーキ屋さんは少し奥まった道路沿いにある。歩道と車道の距離が近くて、境目も分かりづらいような道だ。そんな道の端に、黒い車が一台停めてあった。ケーキ屋さんの駐車場はいっぱいだったから、とりあえずここに停めたのかもしれない。
私はさくっと判断した。大通りに出るには、車と塀の間にできた隙間を通るのがたぶん一番早い。
ごめんなさい、と心の中で謝りつつ、車と塀の間に体をすべりこませた。ギリギリ通れる隙間で良かった、と思う。
そのとき、ふと、無意識にその車の窓を見た。ガラスが曇ったようになっている。スモークガラスってやつかもしれない。
だけどその瞬間、車の助手席側の窓が、内側からばん! と叩かれた。いや、叩かれたなんてものじゃない。顔と手をべったりと窓に貼り付けるようにして、真っ青な顔の女の人が、クマだらけの目で私をじっと見ていたのだ。
思わずひゅっと喉が鳴って、体の温度が一気に下がった。
これ、幽霊だ。しかも、多分死んでからそんなに時間が経ってない。
ついさっき、死んだ人の魂だ。
一瞬固まってしまった私の前で、女の人はぎょろぎょろと目を動かす。私は細く息を吐く。大丈夫、車を内側から叩いたってことは、この人は多分、中から動けないんだ。そういう幽霊はたまにいる。
早く逃げよう。こういうのは長く見ちゃダメだ。
そう思って、視線をどうにかドアから逸らそうとしたときだった。
女の人の、唇が動いた。
に、げ、て。
「え?」
私の目の前で、後部座席のドアがするりと開いた。スライド式のドアだったからか、音がほとんどしなくて、気がついたときにはもう開いていた。
スモークガラスはもうないのに、なぜかドアの中は真っ黒だった。思わずぽかんと見つめて一拍、私はとんでもないことに気づいた。
これ、明かりがなくて暗いんじゃない。
人だ。
何人もの女の幽霊が、まるで物のように詰め込まれている。その人たちの髪の毛で、中が真っ黒だったのだ。
「あ――」
ひしめきあった黒い髪の毛の隙間から、ごつごつした腕が伸びてきた。それが私の胸ぐらを掴む。あ、これは人間の手だ、と思ったけれど、だからって何ができるわけでもなかった。
スマホが手からすべり落ちる。カシャン、という音と共に、お母さんの声が遠ざかっていく。
『琥珀? ちょっと、琥珀? ……待って、ねえ、どうしたの、琥珀!』
お母さん、という声は出なかった。口をふさがれたからだ。
車の中に引きずり込まれる。見られた、という声が聞こえた。何が? 私、何を、見ちゃったんだろう?
「おい、車出せ、早く!」
「分かってるよ!」
あ。
ドアが閉まっていく。
どうしよう、スマホは落とした。私を押さえる力が強い。怖い。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
ドアが閉められながら、車が動いた。完全に閉まる直前、車が路地裏のそばを通る。そこに、私をじっと見ている幽霊の姿があった。
私はハッとした。気力を振り絞って、自分の口を塞いでいる手を思いっきり噛んだ。悲鳴と同時に少しだけ力が緩む。
「たすけて……っ!」
私は精いっぱいの大声で叫んだ。
「古海くんを呼んで!! 助けて!!」
幽霊の目が、確かに光った。それと同時に扉が閉まって、私の視界は、完全に黒く染まった。




