第7話 神崎琥珀には秘密がある
「ねえ琥珀、本当に一人で図書館行くの? 大丈夫?」
玄関先で靴紐を結んでいたら、廊下からお母さんに声をかけられた。顔だけで振り返ると、掃除中だったのか、手にビニール手袋をはめている。今日は土曜日だから、お母さんの仕事はおやすみだ。
私はなんでもないことのように笑う。
「大丈夫だよ〜! 本、借りっぱなしだったの忘れてただけだし、すぐ戻るから。二週間以内に返さないといけないんだよ、これ」
私は後ろに背負ったリュックをとんとん、と叩いた。なるべく心配をかけないように、にっこりと笑う。
「見た感じ、今日は大人しそうな人しかいないから、気づかないフリしてたら大丈夫だよ。お母さんもわかるでしょ?」
「そうだけど……日が暮れないうちに帰りなよ? あんた、何かに集中すると時間忘れちゃうんだから」
「分かってるよ、大丈夫」
お母さんは、私が一人でどこかに出かけるだけでも結構心配する。ちょっとそこのコンビニに、という程度でもついてきてくれるし、基本的に、学校から帰ってきたら外には出ないように言われている。
多分お母さんは、私から目を離して私が襲われたら、ということをずっと考えているんだと思う。昔はそういうこともしょっちゅうあって、私はあんまり覚えてないけど、引越しをしたのも一度や二度じゃないらしい。
だから、心配されるのが嫌だとは思わない。
思わないけれど、今日だけは一人で外に出ないといけないのだ。
「それじゃ、行ってきます!」
私は背負い慣れてないリュックを持って、玄関から飛び出す。お母さんが後ろで何かまだ言っていたけど、ごめんなさい! と心の中だけで叫んで、そのまま駆け出した。
周りの幽霊たちが、私に気づいてぱっとこちらを見る。目が潰れている人、腕がありえない方向にねじ曲がっている人、首がへし折れている人、色々いるけど、大半は私に近づこうとしない。私のほうをじっと見て、周りをきょろきょろ見回している。多分、古海くんがいないかを探してるんだろう。
私に何かしたらオートで古海くんから拳が飛んでくるようになっちゃったからなあ……
幽霊たちはそこまで頭が良くないので、すっかり私と古海くんをセットだと思いこんでいる。私がいたらそばに古海くんが隠れているとでも思っているのか、めちゃくちゃ警戒しているのだ。
正直、とても助かる。幽霊たちがまごまごしている間に大通りまで走ってしまえば私の勝ちだ。
とにかく今日の私には目的があるのだ。ここで幽霊なんかに捕まっているわけにはいかない。
私はわき目もふらずに走り続けて、図書館へ向かった。
◇◇◇
一人娘が大通りの向こうへ走って消えていくのを、神崎怜は気が気でない思いで見つめていた。娘を一人で送り出すとき、いつも、怜は心の臓を掴まれたような心地になる。
「大丈夫、大丈夫……」
図書館まではそう遠くない。家から最も近い大通りを進んで、人通りの多い信号を渡ったら、もうほとんど目の前だと言っていい。子供の足でも十分もかからず着くだろう。
だから、心配しなくてもいい。人通りの少ない裏路地は通らないだろうし、そもそも彼女は寄り道をしない。自分を心配させるようなことはしないだろう。自分の娘ながら、彼女は利発に育った。
だからこそ、怜は時折、とてつもない罪悪感に襲われる。
娘を自由に遊ばせてやることすらできない。一人ぼっちで寂しい思いをさせているのに、贅沢な暮らしをさせてやることもできない。唯一の味方だった夫はもういなく、親兄弟に頼るなど本末転倒だ。絶対にありえない。
そもそも、自分と同じ目を受け継いでしまったせいで、娘の人生は散々だ。幼い頃から追いかけ回され、襲われ、攫われ、大体の最悪な出来事は経験した。かろうじて娘は当時のことを覚えていないが、ここに定住するまで、本当にひどい道のりだったと言っていい。
「ねえ、晃。あの子のこと、守ってやってね……」
視線を、寝室の隣にある、こじんまりとした部屋に向ける。その中には小さな小さな仏間があって、自分の夫が、琥珀の父が、眠っている。
「あんた、綺麗にいなくなっちゃったけどさ……せめて、琥珀の前には出てきてやってよ。あの子、あんたの顔だって覚えてるか怪しいよ」
答えはない。あるはずもない。夫はちょうど七年前に死んで、それからずっと、怜と琥珀の前には空白だけがある。霊として現れることさえ、ない。
仏間の遺影で薄く微笑む夫と、怜はしばらくの間、じっと目を合わせていた。
娘が危ない目に遭いませんようにと、祈っていた。
◇◇◇
頭のてっぺんよりも背が高い本棚が並ぶ中を、私はゆっくりゆっくり歩いていた。一つひとつの棚に書いてある本の分類を、見逃さないように確認していく。
地理・歴史・伝記。――違う。
社会。――違う。
自然科学。――違う。
「技術・工学・家庭……家庭、家庭……あった!」
小さくガッツポーズを作る。そのまま、いくつかの本を取り出して腕に抱えた。本当はこの棚の本を端っこから順番に読みたいけど、そんな時間はないし、一度に借りられる本も十冊までだ。
とりあえずささっと読んで、借りる本を選ばないといけない。
そんなに分厚い本ばかりじゃないけど、私の腕だと持つのは七冊くらいが限度だった。とりあえずテーブルのある場所へ行こうとして、小走りで通路に出る。
そのとき、体がどんっと何かにぶつかった。
「わあっ!?」
びっくりして踏ん張ることもできなくて、当たり前のように後ろに倒れた。
視界がゆっくり上を向いて、天井が見える。
あ、まずい、頭打つ。
「っ、危ない……!」
そのときだ。手首をがしっと誰かに掴まれて、腕がぴんと伸びた。そのまま勢いよく前に手を引かれて、ぐるんと視界がいつも通りに戻る。
ばさばさっと、本が落ちる音がした。
「君、大丈夫か」
穏やかだけれど、平坦な声だった。誰かが手を掴んでくれたんだ、とそこで気づく。一拍遅れて、どっと冷や汗をかいた。心臓がばくばく鳴っている。あのまま倒れてたら、絶対に怪我をしていただろう。
「あ、ありがとうございま……」
私は顔を上げて、ぎょっとした。
目の前にいたのは大人の男の人だった。それはいいんだけど、何故か、その人は傷痕だらけだったのだ。
頬や額には何かでスパッと切ったような痕があるし、私を掴んでくれた腕にも、火傷みたいな痕や、治りきらなかったアザの痕、えぐられたみたいな傷痕もある。
私は唖然とした。何をどうしたらこんなに傷だらけになれるんだろう? ちょっと転んだり、料理で火傷しちゃったみたいな傷痕じゃない。なんなら、犬か何かに噛まれたとしか思えないような傷痕だってある。
「おい、君、大丈夫か」
私の腕をぱっと離して、男の人がその場に片膝をついた。そのまま私の肩を横からとんとんと叩く。
「……まさか強く引っ張りすぎたか? すまない、脱臼してないか? どうも力加減が分からなくてな……」
私はハッとして、首をぶんぶんと横に振った。
「だ、大丈夫です! ごめんなさい、本が……」
私は床に散らばった本を見た。私が持っていた本に混ざって、古めかしい本が何冊か混ざっている。落ちた拍子にページが開いたのか、変な怪物みたいな絵が描かれていた。
多分、この男の人が持っていた本だ。私がぶつかったから落ちてしまったのだ。
慌てて拾おうとした私を、男の人がやんわりと止めた。
「いや、気にするな。破れたりはしていない。まあ、破れたら買い取ればいいだけの話だしな。というか君は本当に大丈夫か? 俺は力加減が昔から下手でな……肩が抜けたりしていないか?」
「だ、大丈夫です! 元気です!」
肩をぐるんぐるん回してみせると、男の人はちょっと笑って、私に本を差し出してきた。
「ならいい。……君、その年で料理をするのか? ずいぶんと料理本を持っているな」
男の人が渡してくれた本は、確かに全て料理本だ。簡単なものから本格的なものまで、一通りの料理が作れるくらいある。
「あ、えっと……そんなに料理は得意じゃないんですけど……その、来週、お母さんが誕生日だから……」
かあっと頬が熱くなる。なんでこんなことを言っているんだろう、と思ったけれど、男の人は馬鹿にするでもなく、薄く笑った。
「そうか、それは君のお母さんも嬉しいだろう。それならこれとこれがいいんじゃないか。初心者向けと書いてあるし」
「やっぱりそう思いますか……? もうちょっと難しいのとか作ってみたかったんですけど……こっちに書いてある、この、テ、テリーヌ? とか」
「いや無理はやめたほうがいい」
なぜかとてつもなく真剣な顔で、男の人は首を横に振った。
「料理というのはな、一歩間違えると凶器だ。切られるし焼かれるぞ」
「焼かれたことあるんですか……?」
ありそうだ……と、腕の火傷を見ながら思う。ていうか、絶対に事故レベルではなさそうな傷もあるけど、こんなに傷だらけになるまで何をしたんだろう?
そこでふと、あれ? と思った。傷だらけの人の話を、前にどこかで聞いたような……
「とにかく、子供がやるなら料理は簡単なものにしたほうがいい。そもそも君は料理をしたことがあるのか? 小学生……くらいだろう?」
はっと顔を上げる。思わず「はい」と答えそうになって、口をはっしと手で押さえた。あ、危ない。
「ん? どうした?」
「あ、えと……知らない人に、自分の個人情報は教えたらダメなので……」
男の人はびしりと固まって「考えたこともなかった」という顔をした。自分の顎を撫でつけ「知らない人……」と呟いている。
「不審者の可能性もあるし……」
「ふ……!? いや、俺は決してそういうのでは……いやまあ、怪しいかもしれないが……!」
表情はあまり変わっていないのに、明らかに慌てている。正直こんな嘘がつけなさそうな不審者は多分いないんだけど、お母さんからの言いつけは守りたい。それに、確実に変な人ではあると思うので、個人情報は教えちゃいけないのだ。
「いやでもそうか……知らない人だよな……ちょっと待ってもらえるか、確かここに……」
男の人は唸りながら、自分のジャケットの内側をごそごそと探り始めた。そのときふと、彼の首元がきらりと光る。見れば、銀色の薄い金属の板のようなものが、ネックレスみたいに首にかかっている。
私は目を見開いた。これ、見たことある。
「……ドッグタグ……?」
男の人は驚いたように顔を上げた。
「まだ子供なのによく知っているな。俺はこういう仕事をしているから、命の危険もまあ、ないではないんだ」
言って、名刺を一枚差し出してくる。
「考古学者、及び古物研究家をやっている、古海響だ。名乗りもせずに悪かった。よければ見知っておいてくれ」
「古海……響?」
私はぽかんとして、名刺に目を落とす。白地に深い夜色のインクで「古海響」と書かれている。
私の頭の中で、彼の声が蘇った。
『古海さんはなんか……頑丈な人だよ』
『古海さんは普通だよ。全身傷だらけだけど元気だし』
『見えてるんだったら殴ってみたらいいんじゃないかって言ってくれた人だよ』
『呼ぶこともあるよ。響さんって』
私は呆然としたまま顔を上げる。自然と口は動いていた。
「こ……古海蓮くんの、お父さんですか?」




