第6話 家族がいないのは寂しい
「こ、古海くん! 何してるの!?」
彼は心底不思議ですみたいな顔でこちらを見た。
「片面につき三分焼けってレシピに書いてあったから、その通りにしたんだけど……」
「弱火で三分だよ!」
ごうごうと燃えるガスコンロをみる。どう考えても最大火力すぎる!
私は慌ててボウルを放り出し、フライパンをひったくって濡れたふきんの上に置いた。じゅうううう、という音がして、フライパンから最後の煙が上がっていく。
「こ、これで大丈夫。多分……」
煙が収まってから、おそるおそるもう一度フライパンを火にかけ、今度はきちんと弱火でホットケーキを焼いた。さっきの煙が嘘みたいに、穏やかに生地が焼けていく。
私はほっと息を吐いた。
「ごめん、神崎さん」
古海くんがしゅんと眉を下げる。
「僕、料理あんまり得意じゃなくて」
「あ、ううん、いいの! なんとかなったし!」
「なんとかなったんじゃなくて琥珀がなんとかしたんでしょ」
ゆかりちゃんが横からひょっこり出てきて、古海くんを睨みあげる。
「どう考えても役割分担を間違えてるのよあんたたちは。ほら、こっちがあんたでしょ、古海蓮!」
ゆかりちゃんは私の手からボウルをひったくって古海くんに押し付けた。
「メレンゲ作りなんて体力勝負なんだから、どう考えても男がやったほうが早いに決まってんの。琥珀の細腕に何やらすのよ」
「分かった。僕がやるね」
「ゆ、ゆかりちゃん」
「んで、琥珀が火を見といたほうがいいに決まってるでしょ。あんたのほうが明らかに料理するんだから」
ああ、こうなったら止められないな、と私は諦めた。フライパンの前に立って生地を見つめ、大人しくホットケーキを焼く係に移動する。
古海くんはボウルの中に入った卵の白身を見つめながら、意外と手馴れた動きでメレンゲを作り始めていた。
十五分も経てば、人数分のホットケーキが焼けていた。なんとメレンゲもできていた。どう考えても液体だったのに、ふわふわの生クリームみたいになっている。男の子ってすごい。
「さ、食べよ食べよ!」
焼けたホットケーキを手に、何故かゆかりちゃんは私の向かいの席に座った。調理実習のときは一つの班全員が同じテーブルにつくけれど、ゆかりちゃんは別の班のはずだ。
「え、ゆかりちゃん、自分の班のとこ行かなくていいの?」
「いいの。誰と食べるかは自由でしょ。あんたの班の人と席は交換しといたから問題ないわよ」
見れば、いつのまにか、私の班の人たちは古海くんを除いて、全員ゆかりちゃんの班の方でホットケーキを食べていた。ね、根回しされてる。
「ほら、古海蓮も座る!」
「ゆかりちゃん、なんで古海くんのことフルネーム呼びなの……?」
「そういう生き物に見えるからよ」
「ええ〜……?」
「僕は別にどんな呼び方でもいいよ」
あっけらかんとしながら、古海くんも席に着いた。ホットケーキの上にメレンゲをぽてぽてと乗せている。古海くんはちょっと気にしなさすぎだと思う。
ゆかりちゃんもじとっとした目で彼を見つめる。
「あんた本当になんにも気にしないわね……呼ばれ方くらい気にしなさいよ……」
「本当になんでもいいよ、呼び方は」
「……そういえばあんた、父親のことも変な呼び方してるものね。なんで『古海さん』呼びなのよ。あんたも古海なのに紛らわしいでしょ」
確かになあ、と思っていると、古海くんは首を傾げて私を見た。
「神崎さんもそう思う?」
「えっ!?」
なんで私? と思いつつ、なんとか返す。
「ええと……確かにちょっと紛らわしいかも。名前で呼ばないの?」
「呼ぶこともあるよ。響さんって」
「あ、響さんっていうんだ」
何気に初めて聞いたかもしれない。
「へえ、綺麗な名前じゃないの。せめて名前で呼びなさいよ。ていうか、パパとかお父さんって呼ばないわけ?」
私もこくこくと頷く。古海くんはちょっと首を傾げた。
「そういう呼び方はやめたほうがいいって言われてるから」
「は? お父さんって呼ぶなってこと? やっぱあんたの父親ちょっと変よね」
「そうかな」
「そうよ! うちのパパなんか、私が『パパ』って初めて呼んだときに号泣したらしいんだからね! 録画も残ってるんだから!」
元気だなあ、と思いながら、私もメレンゲをホットケーキに乗せて食べる。そういえば味つけてなかったんじゃ? と思いきや、意外と甘かった。あのあと砂糖も入れたのかもしれない。
すると、埒が明かないと思ったのか、ゆかりちゃんが私を見た。
「琥珀! 琥珀も変だと思うでしょ!?」
「えっ」
「養父だかなんだか知らないけど、父親なんだから、パパとかお父さんとか呼ばれたほうが嬉しがるに決まってるわよね!?」
普通。
そう言われて、私はぴしりと固まった。ゆかりちゃんもハッとして「しまった」という顔をした。
私たちは互いに固まって、その場には気まずい沈黙だけが流れる。
ちょっと変な空気になってしまったところで、古海くんが口を開いた。
「神崎さんのお父さんも、神崎さんに『お父さん』って呼ばれたら嬉しそうだった?」
「ちょっ、この馬鹿!」
突然の罵倒にびっくりしたのか、古海くんはきょとんと動きを止めた。私は思わず苦笑する。
そうだよね、意味、分かんないよね。
そう思ったら、すんなりと言葉が口から出ていた。
「うち、お父さんいなくて。だから、そういうのは、よく、わかんない」
ゆかりちゃんが目を見開いて硬直した。
古海くんもぴたりと動きを止めて、私をじっと見てきた。そんなに見られても何も出ないよ、と思う。
ゆかりちゃんは、だいぶわかりやすいレベルでおろおろとしていた。なんとか言いなさいよ、という視線を古海くんに向けているけれど、彼は何かを考えるようにじっと私を見つめている。
そうして、きっかり五秒の沈黙が流れたところで、古海くんが口を開いた。
「お父さん、いないんだ。お揃いだね」
「……お揃い?」
「僕も母さんいないから」
私は一瞬きょとんとした。何を言われたのかを数秒後に理解して、びしりと固まる。
そういえば、古海くんはいつも、お父さんの話しかしていない。
頭のてっぺんを殴りつけられたくらいの衝撃が走って、何も言えなくなってしまう。
ゆかりちゃんも、向かいの席でかこんと顎を落としていた。
私たちが衝撃を受けていることに気づいたのか、気づいていないのか、古海くんは平然と続けた。ぽて、とメレンゲが再び、ホットケーキに乗せられる。
「本当のお母さんはだいぶ前に、こう、いなくなっちゃったから。それに、僕の育ての親は古海さ……響さんだけだからね。他にはいないよ」
ゆかりちゃんが、困惑と心配をないまぜにした顔で眉を下げていた。私も何も言えなかった。てっきり今までは、なんとなく、お父さんもいるんだからお母さんもいるんだろうと思っていたのだ。それが、実の母親にしろ、育ての親にしろ……
でも、そうじゃなかった。こういうときって、どうすればいいんだろう?
情けないことに、お父さんいないんだね、と言われることには慣れているけれど、お母さんいないんだよ、と言われることにはちっとも慣れていなかったのだ。
私はぐるぐる考えて、絞り出すように尋ねた。
「お母さん、いなくて、寂しくないの?」
古海くんは不思議そうな顔をして、私は一瞬で後悔した。寂しくないわけない。私だって、お父さんがいないことに何も思わないわけじゃないのに。
けれど、古海くんの返事は、予想していたものとちょっと違った。
「寂しくないよ。響さんもいるし、姉さんも兄さんもいるから」
「えっ」
「あんた兄弟いたの!?」
ゆかりちゃんが身を乗り出す。私も驚いた。勝手に一人っ子だと思っていたのだ。
「あ、でも、姉さんも兄さんも子供っていう年じゃないよ。響さんの実の子でもないし」
「あんたの家どうなってんの!?」
私もぽかんと口を開けて、どういう家族なんだろう、と思ってしまう。
けれど、古海くんはまたしても不思議そうな顔をした。
「姉さんは響さんの養子で、姉さんに旦那さんができたから、その人が兄さんになったんだよ」
私はゆかりちゃんと一緒に絶句してしまった。もう何がなんだか分からない。
「ええと……古海くんの家は四人家族だけど、四人全員、誰とも血が繋がってない、ってこと?」
「うん」
今の今まで出会ったことのない家庭だった。それって家族というか、もはやルームシェアに近い気がする。
けれど、古海くんがあまりになんでもないような顔でホットケーキを食べているので、そんなことはどうでもいいのかもしれないな、と思った。
「……そっか。血が繋がってる人がいなくたって家族だもんね」
「そうだね。でも、じゃあ母さんがいなくてもいいかっていうと、ちょっと、違うなって思う」
古海くんが私を見て、ホットケーキに視線を落とす。同時にふっと、言葉がとぎれた。その互い違いの目に一瞬、かすかなゆらぎが走ったような気がする。
ああ、と私は納得した。ほんの少し、ほんの少しだけ、瞳の奥でロウソクがゆれているような、そんなささいなゆらぎだけれど、それがきっと、古海くんにとっての「寂しい」という気持ちなんだ。
そうだね。血が繋がってなくたって家族だけど、血が繋がってるのも家族だもんね。
「家族がいなくなったら寂しいよね、古海くんも」
「寂しい?」
何故か古海くんはぽかんとした顔をして、考えこむように虚空を見つめる。
「違う? 寂しくないの?」
「……分からない。ただ、響さんや姉さんや兄さんがいても、母さんのことを思い出すときがあるってだけで……そのときはこう、心臓のあたりがぐるぐるする感じ」
「それが寂しいってことだと思うよ。私もお父さんのこと思い出すと、そういうふうになるもん」
それ以上は、ちょっとまだ言えなかった。お父さんがいない理由とかは、やっぱり話すのに勇気がいる。
「……そっか。確かに、そうなのかもしれない」
古海くんは理解したのかしていないのか、私に一つ頷くと、再びホットケーキを食べ始めた。
「古海蓮、あんたって何考えてるかよく分かんないと思ってたけど、今分かったわ。そりゃ、あんた自身が自分の気持ち分かってないなら、そうもなるわよね」
ゆかりちゃんが呆れと感心をまぜこぜにしたような顔で言う。
「まあでもちょうどいいかもね。なんでか分かんないけど、琥珀にはあんたの気持ち分かるみたいだし。琥珀、教えてあげれば?」
「え、私?」
びっくりして思わずフォークを取り落とす。いきなりどういう風の吹き回しだろう。今の今まで古海くんに近づくな、みたいな感じだったのに。
「そりゃ私も、最初は古海蓮が何のつもりで琥珀に近づいてるのか突き止めてやろうと思ってたけど、なーんも考えてないことが分かったからもういいわ。なんか、琥珀もこいつと登下校し始めてから、最近元気みたいだし」
ぎく、と肩がこわばった。さすがゆかりちゃんだ。彼女は幽霊が見えないし、私が幽霊を見ちゃう体質だって話もしたことないのに、なんかうっすらバレてる。
どうしよう、と助けを求めて古海くんを見た。まさか幽霊が見えるので古海くんに殴ってもらってますとは言えない。
彼は決心したようなまなざしでこくりと頷き、そして。
「よろしくお願いします、神崎先生」
「なんで頭下げるの!?」
それはもう綺麗なお辞儀だった。勘弁してほしい。
私が慌てふためいている間に、先生から「早く食べなさいね〜」という号令がかかった。時計を見ると、片付けの時間まであと五分もない。
結局、半分くらい残っていたホットケーキを詰め込むのに集中しないといけなくて、それ以上、突っ込んで話は聞けなかった。
ならば下校中にと思ったのだが、そういう日に限って何故か最悪全裸男幽霊が出る。殴りかかろうとする古海くんを止めるのに忙しくて、結局、何も聞けずじまいだった。今日は金曜日だから、来週にまた聞かないとなあ、と家の中で思う。
古海くんはもしかして、自分が怒っていたり、悲しんでいたりしても、気づけないんだろうか?
……それって多分、すごく悲しいことだ。




