第2話 神崎さんは雨が嫌い
「うわあ、雨降ってる……」
昼休みに窓の外を見て、私は思わずため息をつく。バケツをひっくり返したような大雨が降っている。そのせいか、昼休みだというのに教室には人が多かった。
「学校来るときは晴れてたのに……」
「神崎さん、傘ないの?」
古海くんが、本から目を上げて言う。
「ううん、お母さんが傘持ちなさいって言ってくれたから、ちゃんとある……」
朝のひとときを思い出して、またため息をつく。確かに、お母さんも午後から雨だって言ってたっけ。
もうすぐ十月。暦の上ではもう秋だ。けれど、最近はまだ全然暑いし、今の時期にも台風が来ることが多い。
「傘持ってても、土砂降りだもん。裾とか濡れちゃうよ。降ってるときは暑いのに、止むと寒いしさあ……」
「神崎さんは、寒いの嫌い?」
「うーん……」
私は唸った。寒いのが嫌いというわけじゃない。冬に雪が降ったら率先して雪合戦とかしに行くし、走れば寒さは感じなくなる。
でも、雨は嫌いだ。
「雨の日って、前がよく見えないから……すべるし、転ぶし、濡れると気持ち悪いし……だから、あんまり好きじゃないかな……」
幼いころからそうだった。雨の日は頑として外に行こうとしなくて、お母さんはずいぶん苦労したらしい。私を連れて雨の日に買い物に行くのが一番ハードだったよ、と笑い話にされることがよくある。
申し訳ないなと思う反面、そりゃ嫌だっただろうな、とも思う。小さい頃のことなんて覚えていないけど、二歳くらいの私が玄関先で大の字になって、駄々をこねている姿は想像できる。なんなら今だって、雨の日は学校にも行きたくないくらいなのに。
「前が見えないから、嫌なの?」
「まあ、他にもあるけどね」
「確かに、せっかく目がいいのに、見えづらいのは危ないかもね」
私は首を傾げた。
「もったいない、じゃなくて?」
「いつも見えてるものがちゃんと見えなくなったら、危ないよ」
彼は、まっすぐに私を見ていた。その目が何もかもを見透かすようで、ちょっとだけ怖くなる。古海くんはきっと、親切で言ってくれているのに。
「でも、神崎さんは冷静だからね。いつもと視界が違っても、慌てないでいたら大丈夫だよ」
「うん……気をつけるね」
古海くんは少しだけ笑ったように見えた。珍しいな、と思った。
◇◇◇
「ねえ琥珀、いつの間に古海くんと仲良くなったの?」
雨がざんざか降る中で、一緒に帰っていたゆかりちゃんがそう聞いてきた。
私は思わず「えっ?」と呟く。なんでいきなり古海くんのことを?
「だって、隣の席だからいつも教科書見せてるのとかはわかるけど、好きにペアになってください、って言われたときも基本的に一緒じゃないのよ」
「んー、まあ、確かに……?」
「今までは私がペアになることも多かったのに……」
「それは、今は席がすごく離れちゃってるし……ていうか、ゆかりちゃんは私の他にも、友達いっぱいいるじゃん」
逆に、私にはあんまり友達がいない。私が鍵っ子で、基本的に家にまっすぐ帰るからか、休み時間に本を読んでいることが多いからか、私は基本的に一人だ。別に、それでもいいと思っているけれど……
ちなみに、古海くんは私以上に友達がいない。なんならクラスメイトと喋っているのをほとんど見たことがない。彰人くんが嫌がらせのために、クラス中で無視をしようぜ作戦とかやっていたこともあったけど(流石に馬鹿みたいだなと思う)、そもそも古海くんと話している子がほとんどいなくて撃沈していた。そんないじめの回避法ってあるんだ……と思った。
「あのね琥珀、そういうことじゃないの! あんな何考えてるかも読めない鈍感人間、いつどこで琥珀のことを傷つけるか分かんないでしょうが!」
「ええ……?」
「ああいう鈍感人間は気づいたらストーカーになってるのよ! あんまり距離近くなりすぎないようにしないとダメ!」
「ゆかりちゃん、絶対にドラマの見すぎだよ」
「琥珀が楽観的すぎるの! あーもう、今日みたいに、部活が休みになるくらいの雨だったら毎日一緒に帰ってあげられるのに……!」
ゆかりちゃんは、たまにお母さんみたいなことを言う。三年生くらいのときから毎回クラスが一緒で、帰り道もそこそこ被っていたから、結構長い付き合いなのもあるかもしれない。私があんまり強く言えないタイプだからと(というより、ゆかりちゃんが相当ずばずば言うタイプなのだけど)、色々助けてくれることも多かった。
ゆかりちゃんは弟と妹がひとりずついて、お姉ちゃんとしての責任感が強い。だから、一人っ子の私を放っておけないんだと思う。
私はなんとか考えて、古海くんのいいところを順に上げていった。真面目なところとか、知らないことを教えてあげるとちょっと嬉しそうにお礼を言うところとか、ペアになるときにちゃんと「僕とペアでもいい?」って了承を取ってくれるところとか。
ゆかりちゃんは「何それ、真面目すぎじゃない……?」ってちょっと引いた顔をした。真面目すぎて悪いことってないと思うけどな。相変わらず変な人だから、ちょっと対応には困るけど……
「まあ、変なことされてないんだったら良かったけど」
「しないよ、古海くんは……」
「わかんないでしょ、男子ってのは。彰人みたいなバカもいるんだし」
男の子だからってひとくくりにするのは良くないよ、と思ったけれど、そこでゆかりちゃんは足を止めた。ちょうど、帰り道が別れる三叉路にさしかかるところだ。
「じゃあね琥珀、私こっちだから! 古海くんに何かされたら言うのよ!」
「あっ、うん、またね」
雨の音がただでさえ大きいから、いつもより声を張って、彼女は三叉路の向こうへ消えていった。古海くん多分そういうことはしないよ、と言う暇もなかった。
多分、ゆかりちゃんも雨は嫌いなのだ。靴下を見ながら、「びしょびしょじゃん!」と叫んでいたし、いつもより歩くのも早かった。私はそれがありがたい。こんな日は、早く帰るに限る。
私はすうっと深呼吸をして、息を整えた。ゆかりちゃんの弾けるような笑い声がないだけで、なんだか静かな気がする。雨がこんなに降っているのに。
背筋に、氷でも入れられたかのように寒い。
なるべく目を伏せて、地面だけを見るようにしながら歩き始める。大丈夫、ここから家までは五分くらいで着くし、雨っていっても、台風くらいひどいわけじゃない。
一歩踏み出す。
ぱしゃぱしゃっと足元で水が跳ねる音がする。大丈夫。
私の鳴らす足音に混じって、ばしゃ、べしゃ、と、大きな泥が地面を打つような音が、する。
大丈夫。
「ねえ」
大丈夫。
「ねえ、ねえ、きいてる? ねえ」
大丈夫、大丈夫。
「ねえ、ね、ねえ、ねえぇぇええええええ」
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
学校を出たときからずっと、真後ろからついてくる人がいても、大丈夫だ。
だってこれは無視をすればいいやつだから。ゆかりちゃんは何も言ってなかった。多分彼女には聞こえていなかったのだ。じゃあ、後ろにいるモノは人間じゃない。
大丈夫、大丈夫。
こんなの、いつものことじゃないか。
三階の教室の窓に外からへばりついている人がいても、先生の背中に全身でしがみついてる人がいても、道に立っている人が体の縦半分を失っていても。
体育館の天井から生首がぶら下がっていても、トイレの花子さんと呼ばれている人がどう考えても裸の成人男性にしか見えなくても、開けようとした扉の磨りガラスに、赤い手の跡が唐突についても。
私は目がいいから、全部、全部、見えてしまうだけなのだ。だから、無視をしていればいい。
無視をして、見えないふりをして、聞こえないふりをして、気づかないふりをする。
それだけ。
ただそれだけでいいのだ。
たとえ、視界の端にちらちらと長い黒髪が見えていても、頬に触れている指の感触がしても。
無視をしていれば、こういうものはいつも勝手に離れていくのだ。
それでも、私は咄嗟に足を早めていた。早く帰りたくて仕方がなかった。




