第18話 父は娘を見守るもの
夕暮れ時の空はもうだいぶ暗い。冬が近いんだ、と思いながら角を曲がって、家の窓を見る。
明かりがついていてほっとした。良かった、やっぱり家に、
「神崎さん、止まって!」
古海くんがいきなり腕を引いた。私はもちろん、イサーンお兄さんも驚いたように足を止める。
けど、イサーンお兄さんはすぐに顔をこわばらせて、私たちを庇うように前に出た。
「二人とも、絶対に僕の後ろから出ないで」
「え……」
お兄さんはひどく真剣な顔をしている。片膝をついて身を低くした彼の後ろから、うちの家の入口が見えた。
そこから、誰かがゆったりとした動きで出てきた。
知らない人だった。学ランを着ていて、背が高い、高校生くらいの男の子だ。
私はぽかんとした。
その人が手に抱えているのが、私のお母さんだったからだ。
「え……」
お母さんはぐったりと目を閉じていて動かない。ぴくぴくと腕が痙攣しているから、多分、気を失っているんだと思う。
……なんで? 誰?
この人は誰?
男の子がくるりと私のほうを見た。その口から、ぞろりと触手が生えているのが見えて、ざっと血の気が引く。
思わず駆け出そうとした体は、イサーンお兄さんに押さえられた。「お母さん!」と叫ぼうとした口は、後ろから古海くんに塞がれた。
どうして。
どうして邪魔するの。
お母さんが、お母さんが大変なのに!
「……娘もいる」
男の子の口が動いた。怖いくらいに抑揚がなくて、冷たい声だった。
「ねえ、あの娘も連れていこうか、父さん」
「いや、ガキは別にいらないかなあ」
男の子の後ろから、ずるりと誰かが顔を出した。
「連れていくのは怜だけでいいよ。ガキがいたってどうにもならないだろ」
また知らない男の人だった。三十代後半くらいで、猫背の、ひょろりとした人だ。面倒そうにこきこきと首を回してから、私を見てにこっと笑う。笑っているんだけれど、その目だけは冷えきっている。
ぞわぞわぞわぞわっ! と、一瞬で全身に鳥肌が立った。この場から走って逃げ出したくなるような嫌悪感がわきあがってくる。どうしてか分からない。でも、あの人の視界に入るのが本当に嫌だった。心の一番大事なところを、泥のついた手でぐちゃぐちゃにかき回されているみたいに気持ち悪い。ずっと見ていたら、気持ち悪さで吐いてしまうんじゃないかと思った。
すると、男の人は私の後ろにいる古海くんを見て、驚いたように顔をほころばせた。
「なあんだカミサマ、こんなところにいたんですか! こりゃ運がいい! あんたのことも探してたんですよ!」
「僕はお前たちなんて知らない」
すぱんっと切り落とすような声だった。けど、男の人はまだにやにやと笑っている。
「つれないこと言わないでくださいよ。連れ去られたあんたを探して、どれだけ全国を回ったと思ってるんですか」
「僕は連れ去られていないし、お前のやってることは犯罪だよ。神崎さんのお母さんを返せ」
「神崎? ああ……」
すっと笑顔を収めて、その人はお母さんの額を撫でた。
「こいつ、旦那の姓を名乗ってたんだったなあ、そういえば……」
馬鹿にするように鼻を鳴らして、男の人は笑う。
「残念ながらこいつをくれてやるわけにはいかないんですよ。ていうか、どうですカミサマ、俺たちと一緒に来てくれませんかね。あんたがいれば村の再興も夢じゃない。第二、第三のあんただって『降ろせる』でしょうし」
「……その村を、誰が壊したのか、忘れたのか」
急に、空気が凍った。
たとえじゃなくて、本当に。ぱき、ぱき、と、空気が氷になっていく。吐いたそばから、息が小さく凍っていく。
寒い。寒くて、痛い。私の口を塞いでいる古海くんの手が、氷水みたいに冷たくなっていく。
見上げた先で、古海くんが、今までにないくらい怒っているのが分かった。歯をギチギチと食いしばって、互い違いの瞳を見開いて、そして。
灰色の瞳の近くの肌が、ありえないくらい白くなっていく。ざわざわと肌が震えているのが分かった。何かが、皮膚の下にいる、みたいな。
空気がどんどんと凍っていく。吸い込んだ空気は痛いくらいだった。遠くで、雷鳴が響き始める。
男の人が、歓喜に震えた声で叫んだ。
「あはははは! やっぱりあんたはカミサマだ! そうですよ、俺たちの村を壊して、ぐちゃぐちゃにしたのはあんただ!」
ぎょっとするようなことを言った男の人に向かって、学ランの男の子がため息をつく。
「父さん、やめよう。あれはダメだよ。僕でもあれは手に負えない。この人も凍るよ」
「おっと」
気持ち悪い顔で笑っていた男の人は、肩を竦めて笑顔を引っ込めた。お母さんの上にばさりと上着をかける。
もう、何が何だか分からなかった。この人たちはなんなのか、古海くんはなんなのか、お母さんはなんなのか。
でも、寒くて体を動かすこともままならない。遠くで、イサーンお兄さんが古海くんの名前を叫んでいる気がしたけれど、もう、それすらよく分からなかった。
ただ、お母さんの向こうに夕日が沈んで、暗がりにある車へお母さんが連れ込まれていくのを、私は見ているしかなかった。
日が沈む。最後の光が地面の中に吸い込まれて消えていく。
ふと、最後にひときわ大きく光った夕焼けの光と共に、小さい頃の記憶がまぶたの裏で瞬いた。
『琥珀。ごめんな、父さんだけじゃ、お前たちを守ってやれないかもしれない』
お父さんが、私の手を引きながら、夕暮れ時の坂道を歩いている。優しい手の温かさが不思議と鮮やかで、ぎゅっと握った力の強さすら覚えている。
『でも、大丈夫だ。いつか、もし、何かあっても……俺は、お前とお前の母さんのことを、ずっと見守っているから』
だから、と言いながら、お父さんは私に何かを差し出した。
『だから、これを持っておくんだよ。琥珀』
渡されたそれを、私は確かに受け取った。
あれは、そう、あれは。
『これがあれば、琥珀は母さんとずっと一緒にいられる。離れ離れになっても、必ず、互いを見つける魔法がかかっているんだ』
人差し指を立てて、唇に当てる。
『母さんには内緒だ。琥珀と、父さんだけの、秘密にしよう』
私は頷いた。頷いて、手の中にある銀の板を見つめる。
そうだ、あのとき、私は。
「神崎さん!」
肩を強く揺さぶられて、私ははっと意識を引き戻した。
見上げた先に、必死に私の腕をさすっている古海くんがいる。
「ごめん、神崎さん、僕……こんなことするつもりじゃ……」
泣きそうになった古海くんに、私は何か言おうとした。けど、歯がガチガチと鳴ってしまって無理だった。全身がひどく冷えている。
寒い。
急速に記憶が戻ってくる。あの後、私は寒すぎて意識を飛ばしかけて、なんだか夢みたいなものを見て、それで。
「大丈夫? 琥珀ちゃん」
視界の中にもう一人、イサーンお兄さんが入り込む。どうやら私を抱き抱えたまま、上着でぐるぐる巻きにして、温めてくれているみたいだった。
周りを見る。私の家はそのままそこにあった。あの二人は消えていて、家の中にはもう、誰の気配もなさそうで。
多分、ここにお母さんはいない。
ぼうっと家を見上げる私を見て、イサーンお兄さんは悲しそうに顔を歪めた後、きゅっとまなじりをつりあげた。
「蓮くん、とりあえず古海さんの家に行こう。僕もうまく理解しきれていないけど……もしかして、二年前のことが関わっているのかな」
「そう、だと思う」
「なら事情を話せば、古海さんは絶対に協力してくれると思う。もちろん、僕もできる限りのことはするよ」
「……うん」
「大丈夫。一緒に琥珀ちゃんのお母さんを助けよう。とりあえず、この子は僕が抱えていくから……」
「ま、って」
私は唇を震わせて、家の中を指さした。
「わたしの、へや、行ってほしい……取ってきたいもの、あって……」
涙があふれた。お母さん、お母さん、お母さん。
「おねがい……」
古海くんとイサーンお兄さんが顔を見合わせるのを見ながら、私は泣きじゃくった。お父さんは確かに言っていた。あれが、絶対に役に立つときが来るって。
だから、どうか。
どうか、お母さんを助けて。お父さん。
ここまでで「古海くんはちょっとおかしい」前編がいったん完結になります!とんでもないところで終わっていますが、もう後編も書き始めているので、3月くらいには更新再開できたらなと思っています。
続きが気になる!と思ってくださった方は、ぜひブクマや星をつけてお待ちいただけますと幸いです。絶対にハッピーエンドになります。




