第17話 兄は弟を守るもの
そのときだった。
私たちと触手の間に滑りこむようにして、大きな影が降ってきた。
どんっ! と地面が震える。衝撃に驚いて悲鳴を上げ、私は古海くんと一緒に尻もちをついた。
ぱちぱち、と瞬いて、呆然とそれを見上げる。
最初に目に入ったのは、広い背中だった。
「何を、しているんですか、こんな子供相手に」
外国人特有の、少しだけ訛りが入った日本語。わずかに震える声は低い。怒りを丁寧に上から押さえつけているような声だった。
誰、だろう。
最初は、響さんが助けに来てくれたのかと思った。けど、その人は全然知らない人だった。浅黒い肌に、ずっしりとした大きさのナイフを持っている。ナイフは触手と一緒に地面に突き立てられていて、その人自身も触手を踏みつけにしていた。
触手がぶちぶちと引きちぎれる音がする。おじいさんが「ギャッ!」と声を上げた。
「イサーン兄!」
古海くんが声を上げた。
男の人がくるりと振り返る。ひどく冷たい顔をしていたその人は、私がびくっと肩を揺らしたのを見て、驚いたように目を見開いた。
「ああ、だっ、大丈夫!? ええと、蓮くんのお友達かな……?」
急にわたわたし始めたその人は、さっき触手をナイフで切り裂いたとは思えないくらい幼く見えた。頬にそばかすがあって、喋るたびに少し動く。
私はぽかんと口を開けた。だ、誰……?
「それどころじゃないんだ、イサーン兄……!」
古海くんが体を起こして、顔をしかめる。
「その触手、触らないで……! 多分、しびれて動けなくなる!」
イサーン兄、と呼ばれたその人は、一瞬ですっと真顔になった。
「分かった」
そして懐から何か分厚い手袋みたいなものを取り出してはめると、私に向かってにこっと笑った。
「大丈夫だから、そこにいてね。すぐ終わらせるから」
「お、終わらせるって……」
言葉は続かなかった。彼の背後から、触手が鞭のような動きで迫る。
「あっ、危な……!」
私が何かを言う暇もなかった。
彼の目が光る。刹那、彼は目にも止まらぬ速さで振り向くと、躊躇なくその触手を掴んだ。古海くんが崩れ落ちたときのことを思い出して息を飲む。けれど、彼は動きを鈍らせることもなく、ナイフを下から上へと振り上げる。
すぱんっと触手が切り取られた。おじいさんが悲鳴を上げる。
そのまま、彼はおじいさんに向かって一気に走り出す。慌てたのかまた触手を伸ばしてきたけれど、顔に向かってきたそれを、彼は身を低くして避けた。
その後も、向かってくる触手を時には飛び退き、足で蹴り落とし、掴んで切り裂き、確実におじいさんの元へと向かっている。
すごい。同じ人間とは思えない。
それくらい、その人は身軽だった。響さんと同じくらいの背丈があって、響さんよりもややがっしりとした体格をしているのに、全然重みを感じさせない。羽でも生えているんじゃないかと思うくらいの速さで動く。
あっという間に、その人はおじいさんの元へとたどり着いた。目の前に飛んできた触手の塊を、上半身のみの最小限の動きで避ける。そのままひとまとめにした触手を素早く掴んで、おじいさんの動きを止めた。
「できれば事情をお聞きしたかったんですが……蓮くんたちの安全のためです。すみません」
息も切らさずに言い切ると、触手を引っ張られて動けないおじいさんの腹に、すさまじい勢いで拳を叩き込んだ。奇妙な呻き声と一緒に、どさりと倒れる音がする。
「ふー……」
その人は注意深く息を吐いて、おじいさんを見つめていた。私はほっとして、ようやく肩から力を抜く。
良かった。多分、気絶したんだ。
おそろしい波が去っていくような心地がした。今さらだけど、心臓の音が耳の奥で強く鳴っている気さえする。
本当に怖かった。あれは一体なんだったんだろう?
というか、この人は誰なんだろう?
「ねえ、古海くん、あの……」
何から聞こうか迷って言葉に詰まった私の前で、古海くんが真っ青な顔で「ダメだ」と呟いた。私に縋るようにしてその場に立ったかと思うと、急に声を張り上げる。
「イサーン兄! よく見て! そいつはっ……」
え、と私が思った瞬間、おじいさんの目がカッと開いた。その腕が、まるで老人とは思えない速さでバネのように動く。
憎しみと怒りのこもった目は、イサーンと呼ばれた男の人に向いていた。
けれど、彼の目は変わらず凪いでいた。全てを予想していたような動きで、おじいさんの腕を素早く掴む。怒りに染まったおじいさんの目が見開かれたのと同時に、彼は動いていた。
気づけばおじいさんの脇腹には、四角くて黒色の何かが押しつけられていた。
ばりばりばり! と、何かがすさまじい勢いで弾けるような音がした。
瞬間、おじいさんの目がぐるんと回った。あっという間に白目をむいて、上半身を起こしかけた姿勢でびたりと固まる。
その指が不自然に痙攣していて気づいた。さっきの黒くて四角いものは、多分、スタンガンだ。スタンガンって、普通の人が持ってるものなんだっけ……?
「蓮くん」
すごく静かな声で、イサーンというらしい男の人が振り返る。
「この人、死んでるよね?」
私は思わず「えっ」と声を上げたけど、古海くんは冷静に「そうだね」なんて言っている。そうだねじゃないよ、古海くん。
男の人は首をかしげながら続ける。
「この人の瞳孔、開きっぱなしだった。手もすごく冷たかったし、そもそも筋肉のこわばり方が異常だ。明らかに死後硬直……え、なんで動いてたの?」
「分からないけど、多分、もう崩れるよ」
「え」
古海くんが言った通りだった。硬直していたおじいさんの指が、ぼろりと崩れた。
私は流石に喉の奥から情けない悲鳴を上げて、古海くんにしがみつく。古海くんも私にしがみついているので、なんか抱き合うみたいな姿勢になっちゃったけど、それどころじゃない。
ぼろぼろと、まるで砂で作った人形が壊れるみたいに、おじいさんの体がどんどん崩れていく。私は真っ青になりながらそれを見ていた。
すると、途中で体の中からずるりと、細長い触手のようなものが這い出てきた。私はさらに悲鳴をあげたけど、すかさず男の人が触手の上に足をだん! と叩きつけた。
何かが潰れるような音がして、静かになった。
「イサーン兄、流石」
古海くん、今それはちょっと違うと思う。
私と同じことを考えたのか、男の人も苦く笑った。
「蓮くん、こんなのは全然『流石』じゃないよ。僕からしたら、意味がわからないことだらけだし……これ潰しちゃってよかったのかな……」
「そいつ、多分寄生するタイプだから、放っておいたらイサーン兄に寄生してた可能性が高いよ」
「ええっ!? 怖いな……」
苦笑した男の人と、ばちっと視線が合う。途端に優しそうな目をして、男の人は私に向かって小さく微笑んだ。目の前にしゃがみこんで、私たちの手を取る。
「ごめんね、怖がらせて……初めまして。僕はイサーン・ハーディク。蓮くんの義兄です。君は蓮くんのお友達かな?」
ああ、やっぱりそうなんだ、と思った。古海くんは前に、自分には姉と兄がいると言っていた。この人がそうなんだろう。
私はなんとか頷いた。からからに乾いた口を動かす。
「神崎、琥珀です……」
「琥珀ちゃん。あのね、ああいうものは、無理に思い出さないほうがいいよ。子供は特に感受性が強いから……怖いものを見たときの傷も大きいんだ」
言って、ゆっくりと温かな手で私の手を包み込んだ。ごつごつしていて、ところどころにタコがあって、傷痕みたいなものも感じる。
けれど、温かい手だった。今までのあれこれを思い出して、思わず目にじわりと涙が浮かぶ。安心したら、怖さを思い出してしまった。
しかし、私はその瞬間にハッとした。
「あ、あの! 助けてください!」
「うん?」
「お、お母さんが、お母さんが……!」
どこからどう説明したものか分からない。何故か分からないけど、さっきのおじいさんは私のお母さんを探していたみたいなのだ。でもそもそも、狙われてる理由も分からないし、人違いかもしれない。
「イサーン兄、神崎さんのお母さんが危ない。そこで死んでる人が狙ってたんだ」
「えっ本当に!?」
秒で状況が説明されてしまい、私は咄嗟に頷いた。
「名前は言ってなかったから、あの、人違いかもしれないですけど……」
「いや、すぐに家に行こう。お母さんは今日、家にいるんだよね?」
私はこくこくと頷いた。今日は、お母さんは家で仕事をしているのだ。
「あ、あっちです!」
ここから家まではすぐだ。私は古海くんを支えながらなんとか走った。古海くんはずっと私の手を握ってくれていて、泣きそうになる。私は、ずっと守ってもらってばかりだ。何も返せていないのに、いつも頼ってしまう。
それでも今は、全力で走るくらいしか、できることがなかった。




