第12話 彼女は助けを求めた
目が覚めて一番に感じたのは「寒い」と「うるさい」だった。
「……んだ、…………まで……ちまって……」
「……ぇだろ……! ……とか……すぐ……」
遠くで誰かが言い争っている声がする。頭がすごく痛くて、ずっしりとした重みがある。
ちょっと頭を動かしただけで、ぐらぐらと目の前が揺れた。頭の中がぐるぐるする。
「う……」
呻いた私の目に映ったのは、古くて汚れまくった床と、壊れてほとんど使えなくなった機械の山だった。
どこだろう、ここ……
ぼんやりしながら周りを見回す。もう使えない機械がそのあたりに放置されていて、工具みたいなものも散らばっている。上を見上げると、剥がれた天井と、建物の骨組みみたいなものが見えた。床も壁もものすごく汚れていて分かりづらいけど、もしかしたら何かの工場なのかもしれない。
体を起こそうとしたけど、無理だった。後ろで手が縛られている。多分、足も。
でも、すごく雑に縛られてて、腰とか腕の骨がコンクリートの床にごつごつ当たって痛い。私は芋虫みたいにもぞもぞと動いて、どうにか、そばにあった機械にもたれかかるみたいにして座った。
「おい、起きたぞ」
「ああ!? 分かってるっつの!」
まだ目の前がぼんやりするけど、男の人の声は聞こえた。苛立ったような足音がして、目の前に誰かがしゃがみこむ。
「くそ、なんで俺がこんな目に……!」
言いながら、男の人は私の服の襟をいきなり掴んできた。そのまま、ぶちぶちと力任せにボタンを引きちぎる。喉から、悲鳴のなり損ないみたいな音が出る。
何をされるのかが分からなくて怖い。声が、出ない。
「お前、何してんだよ。殺すのか?」
「なわけねえだろ! これ以上殺したら後が面倒くせえ……! 誰にも何も言えねえようにするんだよ!」
歯がかちかちと音を立てる。手がすっかり冷たかった。何をされたら「誰にも何も言えない状態」になるんだろう?
男がガッと口を手で覆って、そのまま私を床に引きずり倒した。頭の後ろがごんっと床に当たる。痛い、痛い、怖い!
「声出すなよ……!」
分からない。何も分からなくて、怖くて、寒くて、私はぼろぼろ泣いた。
その瞬間、ぼやけた視界が元通りになって、私はさらに息を呑んだ。
男の人の顔が真っ黒だった。
顔だけじゃない。上半身が、ただひたすらに黒い。男の人の頭や肩にしがみつくようにして、黒髪の女の人たちが何人も折り重なっていた。彼女たちは私を見ていなかった。しがみつく男の人の耳元でぼそぼそと何かを言っている。
『ねえ、なんで急にいなくなったの?』
『父親になってくれるって言ったじゃない』
『あの子だけは助けてって言ったよね』
『嘘ついたんだ、いつもそうだよね』
『私だけじゃないんだ、そう、へえ……』
私は一瞬で少し冷静になってしまった。これ、車の中にいた人たちだ。あの車に住み着いてたんじゃなくて、この人にくっついていたんだ。
「おかしいだろ……俺がこんな目に遭っていいはずない……ルイもメイカもサクラもナツも、全員全員俺を馬鹿にしやがって……あの女もそうだ、わめいたからちょっと殴ったら動かなくなって……くそ、くそ……」
あ、これ、呪いだ。
瞬間的にそう思った。普通の幽霊なら、私が目の前にいるのにこっちを見ないなんてありえない。幽霊は、見えない人よりも見える人のほうを欲しがるから。
けれど、この女の人たちはしがみついている男の人しか見ていない。
こういうことはたまにある。誰かが憎くて憎くてたまらなくて、無意識に呪ってしまうと、こうなるのだ。これは生きていても死んでいても関係ない。生きている人が誰かを呪った場合、生霊として相手に取り憑くことになる。
女の人たちの髪がするすると男に絡みついて、男はもう上半身が真っ黒だった。私の服を破いて脱がせようとする手が震えている。
私は私で、怖くて寒くてちょっとも動けてない。けれど、女の人たちが囁くたびに男の人が呻いて手が外れる。少しだけ息ができるようになった。
「くそ、頭痛え、なんなんだよ……!」
『また女の子に手を出してるの? ねえ、私はあなたのなんなの?』
『私みたいに殺すの? それとも、そっちの女みたいに赤ちゃんだけ殺す?』
『赤ちゃん、また作るの? あの子のことは見捨てたのに?』
「くそ、くそ、くそ! うるさい! うるさい! 誰なんだよ、何言ってんだよ!」
長袖シャツがびりびりと破かれる。私は悲鳴を上げたけど、思った以上にかすれてて、声とは呼べなかった。
私って、怖いと声も出なくなっちゃうんだ、やっぱり。
笑っちゃいたい気分だった。知らない人に知らない場所に連れてこられて、縛られて、服まで破かれて、これから何をされるかも分からないのに。
なのに、悲鳴ひとつ出ないんだ。
幽霊のことを「殴れる」と言った古海くんを思い出す。古海くんはすごい。私は生きてる人間の男の人だって怖いのに、古海くんは死んでる男の人も殴れるんだもん。死んでる人はもう死なないし、生きてる人より執念深くて、どこまでも追ってきて、警察に通報することだってできないのに。
無理だよ古海くん。普通は殴れないよ。ていうか、そもそも人の殴り方なんて知らないし、私、力もないし。
私はもしかしたら、死にそうになっても、抵抗ひとつできないのかもしれない。馬鹿みたいだ。いつも守ってもらって、いつも、いつも、いつも。
自分の体を、自分で守ることもできない。
『ねえ、そこの女の子のこと、傷つけるの? 私みたいに?』
ふと、一人の幽霊が、男の人の首に後ろから腕を回して呟いた。
私はその人と目が合って、あ、と声を漏らした。それは、車の中から私に「にげて」と言った人だった。
『あなた、まだ死んでないね。良かった。私、こいつに殺されちゃったの。人違いでさ。最悪だよね』
死んだばかりだからか、その人は実感が湧いていないような声で言った。
『なんか、人探ししてたんだって。誰かに雇われたって言ってたかなあ。雇ってる側も馬鹿だよね。茶髪で三十代の女なんかどこにでもいるって。もうちょっと特徴言っとけよ。私なんか、子供と歩いてるところで攫われてさ、うちの子、一人にしちゃった……』
死ぬと自我が強くなるから、たまにすごくお喋りになる人がいる。その人も私から返事は期待していないみたいだった。ひとしきり喋って、少し黙った。
それから痣の残る顔で笑って、男の人に向かってぼそぼそと囁く。
『ねえ、何人殺したの? 何人間違えて殺したの? 何人を意図的に殺したの? 何人の女の子を、何人の赤ちゃんを殺したの?』
男の人の手が止まった。顔も体もよく見えないけど、私のジーパンを脱がせようとしていた手が、震えている。
『ねえ、何人殺したら気が済むの? 殺せば殺すほど首絞まってるの、気づいてない? ……私、あんたのこと、絶対に許さないよ。私には子供がいたんだ。どうしてくれるの? あんた、責任取ってくれる?』
「……やめろ……」
『え、何、あんた聞こえてるんだ!? あはは! そりゃこんなにひっついてたらねえ、聞こえるようになるよねえ……』
「やめろ、やめろ、やめろ! 俺は何も聞いてない!」
『馬鹿だねえ! 自分で殺して、自分で自分の首絞めてんだ! あはは! はは、あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは! …………ねえ、あんた、首折れて死ぬよ』
ぞっとするような声で女の人が言った瞬間、ばつん、という音がして、ただでさえ暗かった視界が真っ暗になった。かろうじて通っていたらしい電気が、全部落ちたのだ。
『ていうか、私がその首、折って殺すから』
「う、あああああああああっ!」
男の人の悲鳴と一緒に、私の首にがっと手がかかった。
「えっ……」
「くそ、くそ、くそ! 俺は何もやってない! 何もっ!」
「あっ、ぐっ……」
ぎゅう、と首が絞まる音がして、息が急に吸えなくなった。はくはく、と口を震わせる。女の人の焦った声がした。
『あんた、何やって……!』
「うるさい、うるさいうるさいうるさい!」
今まで気づかなかったけれど、外で、ひどい雨が降っている音がする。目が見えなくなったからか、首を絞められているからか、他の五感が、ものすごい勢いで研ぎ澄まされていく感覚があった。
首が絞まる。どんどん、どんどん、暗闇の中で、痛みと寒さだけが鮮やかで。
「あっ、う……っあ……」
まぶたの裏で、今までの記憶が早回しみたいに流れていく。すごく早い。もしかして、走馬灯なのかな、これ。
お母さんが笑いながら、私と手を繋いで歩いてくれていた。遊園地で空中ブランコに乗っていたとき、景色がすごく綺麗だった。ゆかりちゃんが私に怒りながら、私のことを心配してくれている。小さい頃に行った水族館では私よりも何倍も大きな魚が泳いでいて、私なんか食べられちゃうんじゃないかと思って、怖くて泣いた。
顔も覚えていないお父さんが、私の手を握ってくれた、ような気がした。
『僕は思うんだ。人は、助けを求めるのにも練習が必要なんだって』
古海くん。
『だから、助けてって言う練習、したほうがいいよ』
でも、怖くて、苦しくて、声が出ないの。
声が出ないよ、古海くん。
『いつか糸が切れたら、助けてって言えなくなるよ』
分かってる、分かってるよ、でも、
『言えるよ、神崎さんなら』
私は。
私は。
――私は。
「っ、あ」
息を、吸った。ろくに吸えはしなかった。空気の通り道なんてどこにも残ってない。それでも。
それでも、何も言えずに死んでしまうのは、絶対に嫌だった。
「こ、かぃ……く、っ……た、ぁすけ……」
「うん、分かった」
声は、ずいぶんと近くから聞こえて。
びかりと光った稲妻が、刹那の間、工場の中を照らしだした。
「神崎さんから、離れろ!」
私は目を見開く。
古海くんが、男の人のこめかみに思いっきり飛び蹴りをしたのが、はっきりと見えた。




