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第10話 古海蓮には秘密がある


「……神崎かんざきさん?」


 選んだモンブランを包んでもらっている最中、古海こかいれんはふっと顔を上げた。


「蓮、どうした?」

「……神崎さんがいない」

琥珀こはくくんか? さっき、母親と電話をしに行ったんじゃないのか」

「すぐそこで電話してたんだ。さっきまで。なのにいない……」


 蓮が知る限り、神崎かんざき琥珀こはくという人間は、誰にも何も言わずにどこかにいなくなるような人間ではない。

 後頭部を氷の手で撫でられているような不快感がある。何か、良くない予感がする。


 蓮は無言で足を進めてケーキ屋を出た。


「神崎さん?」


 店の前に人はいない。先程まではここに、スマホを耳に当てる彼女がいたはずだ。少し静かな場所に移動したのだろうか?

 そう思い、周囲の道路に目を走らせた。


「神崎さ……」


 目を見開く。

 見慣れぬ黒いバンに、小さな体が引きずり込まれるところを、確かに見た。

 カシャン、と少女の手からスマホがすべり落ちる。そのまま地面に落ちたそれから「琥珀!」という声が鳴り響いた。


 瞬間、古海こかいれんは走り出していた。

 電光でんこう石火せっかの勢いで大地を蹴る。車はすぐにはトップスピードを出せない。発進して間もない時間なら、人の足でも十分に追いつける。

 考え自体は間違っていなかった。だが、如何いかんせん距離が離れすぎていた。彼女の悲鳴だけが、脳にこびりつくようにこだまする。


「古海くんを呼んで!! 助けて!!」


 目を見開く。聞こえている。おのれは確かに助けを求められた。だというのに。

 距離が遠すぎた。車はトップスピードとは行かないまでも、子供の足を振り切るには十分な速さで道路を駆け、そのまま走り去っていった。

 立ち尽くす蓮のひたい青筋あおすじが浮かぶ。落ちたスマホから、彼女の母親らしき声がする。


 彼の頭の中で、黒いバンの記憶がすさまじい勢いでめぐる。ダメだ、ナンバープレートが外されていた。おまけに窓ガラスは丁寧にスモークガラスが使われていて、中が見えない構造だった。これから犯罪に使いますとでも言わんばかりだ。あれでは追跡もままならない。

 せめて何か特徴のある車なら良かったのだが、ステッカーもなければ、ただの量産型の黒いバンだった。あんな車、ここいらで何台走っているか分からない。


 そもそも、車が分かったとして、そこから探しても果たして「間に合う」のだろうか?

 何せ、琥珀こはくがどうしてさらわれたのかが分からない。あまりにも突然すぎた。目的として考えられるのはやはり身代金みのしろきん目的の誘拐ゆうかいだが、彼女の家は片親だ。事実だけを言うなら、自分をさらったほうがよほど金が入るだろう。何故か知らないが、古海響は相当そうとうな金持ちなのだ。


 どうする? どうする? こうしている間にも、神崎琥珀がどういう目にっているか分からないというのに!


れん!」


 肩を掴まれて、無理やり後ろを振り向かされる。


「息をしろ、れん!」


 なぜかびしょ濡れの古海響が、そこに立っていた。意味がわからなくて困惑したはずみに、息を吸いこみ、き込んだ。無意識に息を止めていたらしい。生きることをやめていた肺が、唐突とうとつな呼吸に驚いている。

 気づけば、周りにはひどい雨が降っている。古海響だけでなく、自分もねずみになっていることに気づくのに、数秒かかった。


「……響さん」

「どうした、何があった」

「神崎さんがさらわれた。ナンバープレートのがされた車に」


 古海響は勘の悪い男だが、馬鹿ではない。それが何を意味するのかを瞬時に察知したのだろう。目を見開き、苦々しい顔つきになった。

 蓮は緩慢な動きでスマホを拾い上げ、響の手のひらに押しつけた。


「これ、神崎さんの携帯。多分お母さんと繋がってるから、説明してあげて」

「は? おい――」


 防水加工がされていたのか、まだスマホからは甲高い悲鳴のような音が響いている。響は慌ててスマホを耳に当て、事情を説明し始めた。


 蓮はその間に、目的の場所へ歩みを進めた。

 神崎琥珀はドアが閉まる直前、「古海くんを呼んで」と叫んでいた。つまり、叫んでいた相手がいるはずなのだ。


「……お前か」


 すくそばの路地裏に、膝を抱えた男の幽霊がいた。無気力な顔つきをしているが、目だけがぎらぎらと光って、蓮を見ている。


「僕が古海蓮だ。神崎さんは誰に攫われた。あの黒いバンはなんなんだ」

『……』


 ぱくぱく、と男の口が開く。蓮は静かにその声に耳を傾けた。女、黒髪、車、といった断片的な単語が発され、それらが徐々(じょじょ)に、最悪のストーリーを組み上げて蓮の耳に届く。

 雨足あまあしが強くなっていく。瞳孔どうこうの開ききった蓮の瞳に、雨の雫が流れ込んでいく。


 全てを聞き終えて、蓮は頭上を見上げた。


「……そう、分かった」

「おい蓮、琥珀くんの母親が今、警察に連絡してくれている。すぐにここに警察が来るだろうから、事情を説明して……」

「そんなこと、してる暇ない」


 地獄の底から響いてくるような声に、響の足が止まった。


「僕が、神崎さんを助けに行く」

「行くって、どうやって……」

「簡単だよ。こうするんだ」


 まるで何かに操られているかのように、彼は道路の真ん中に立った。そして。


「問う」


 びかりと、頭上で閃光せんこう炸裂さくれつした。同時に、暗闇にまぎれていた透明な人間たちの姿が、一人残らずあらわになる。

 電柱とへいの隙間、人の影の中、猫の子しか通れないような細い路地の奥、屋根の上、廃屋はいおくの窓。

 全てにひそむ幽霊たちに、れんは告げる。


「お前たち。僕の質問に、いつわりなく答えろ」


 どおん、と遠くで雷鳴が轟く。

 蓮が視線を滑らせた先、透ける体を雨にさらしている幽霊たちが、びくりと盛大に肩を震わせる。それは鳴り響いた雷鳴への畏怖いふからか、それとも。


「神崎さんは、どこに行った」



◇◇◇



 古海こかいひびきは、目の前の光景から目をそらすことさえできなかった。身体中を打ち付ける雨の中で、道路の中心を悠々(ゆうゆう)と歩く息子を見る。


「問う」


 蓮の髪の毛から、迅雷じんらいのような火花が散っている。白と黒の反転した瞳から、ほむらのような怒りがほとばしる。


 響は唇を噛んだ。これを、己は前にも一度、見たことがある。だがあの日(・・・)よりも出力は抑えているようだ。でなければ、この辺り一帯が焦土と化していたことだろう。


「お前たち。僕の質問に、偽りなく答えろ」


 上空が徐々に暗くなっていく。遠くで雷鳴が鳴り響く。

 大昔、まだ神々と人とが近くにあった時代。神がおわすという空から不意に降る電流を、人々は神の怒りだとした。そうして、その現象に神の文字をつけた。

 神鳴かみなり。あるいは鳴神なるかみ

 正体が電流の塊だと判明した今ですら、日本ではその音を、神への畏怖いふの音を忘れていない。


「問う。神崎さんは、どこに行った」


 があん! と凄まじい音がして、くもった空が一瞬、ありえないほどの閃光せんこうに覆われた。そして息をつく間もなく、上空から叩きつけるような稲光いなびかりが地に落ちる。

 先ほど急に降り始めた落雷と大雨に、大通りのほうからは人々の悲鳴が響いていた。しかし、蓮は雨をまるで恵みのようにその身に受け、目を見開いて歩き始める。


 響は慌ててその後を負った。大通りに出てからも、蓮はたびたび、何かを虚空に向かって問いかけている。

 何もない空を見上げたり、路地の中をじっと覗いて頷いたりしているが、彼が何を見ているのか、自分にはわからない。困惑しつつも、小走りで彼の背を追いかける。


「蓮、待て。いくらなんでも無茶が過ぎる。何をしているのか知らないが、あの子のことなら警察に任せるべきだ」

白昼はくちゅう堂々(どうどう)、子供をさらう奴だよ。警察に任せて、神崎さんが無事でいられるか分からない。そこらの幽霊に聞いた方が早いよ」


 響は一瞬で、蓮が何をしているのかを悟った。道端みちばたにいるという幽霊に、あの少女を乗せた車の行方ゆくえを聞いているのだ。


「待て。幽霊の情報なんて信用できないだろう」

「できるよ。こいつらはね、神崎さんのことが大好きなんだ」


 響は眉をひそめた。幽霊に好き嫌いとかってあるのか?


「神崎さんはね、こいつらに異常に好かれるんだ。どこに行ったってこいつらは神崎さんを見つけて、そのたびに彼女は逃げ回る羽目はめになってる。最悪だよね。殴って言うこと聞かせても五日くらいでまた神崎さんのこと追っかけ回すんだ」

「それは……大変だな」

「本当だよ。僕は、神崎さんからそういうフェロモンか何かが出てるんじゃないかと思ってる」


 急に変なことを言い出した息子の背中を追いかける。言っていることはありえないくらいスピリチュアルだが、彼女に対して、蓮はこれ以上ないほど心を砕いている。嘘でも冗談でもないことくらいは、響にも分かった。


「だから、このまま道を聞いていけば、警察なんかより早く神崎さんを見つけられるよ。こいつらはね、神崎さんのことについては嘘をつかないから」

「……何を言っているのかさっぱり分からないし、俺には霊感がない。お前が見えているものは何も見えない。だが……」


 いつの間にか二人は図書館のほうまで来ていた。響はそこに停めていたバイクのエンジンを入れ、ヘルメットを一つ、蓮に向かって投げる。


「俺は蓮を信じる。会ったばかりのころを思えば、お前がここまで怒りを制御せいぎょできているのは奇跡に近しい。俺はもう二度と、お前が『普通』に戻れない覚悟をして引き取ったからな」

「そうなの?」

「そうだ。蓮、お前が怒りを制御できているのは彼女のおかげだろう?」


 互い違いの虹彩こうさいを宿した目が見開かれ、瞳孔どうこうがきゅうっと小さくなった。全身からほとばしる怒りと呼応こおうするように、稲光いなびかりが頭上を埋め尽くす。


「そうだよ。神崎さんが、僕が怒ってるってことを教えてくれたんだ。あの人だけが、僕も気づいていない僕の怒りに、気づいていた」

「そうか。なら、失うわけにはいかないな。乗れ!」


 蓮は猫の子のようなしなやかさでこちらまで駆け寄ると、既にバイクにまたがっていた響の後ろにするりと飛び乗った。


「あっちの大通りに向かって進んで!」

「分かった。しっかり掴まっていろ!」


 エンジンをふかし、遠慮なくバイクを加速させる。

 腹に回された腕の強さを思いながら、響は息子の言う通りにバイクを走らせた。

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