第57話 ー 中層の関門
窓の縁からこぼれた朝が、まぶたの裏を薄くあたためる。
「……ん、んん」
逃げるように寝返りを打つ。
探るみたいに伸ばした右手が、皺だらけのシーツをかすめ、空を掻いた。
意識がゆっくり水面へ浮かぶ。
「っ……もう朝か」
体の芯に、心地悪くないだるさ。
甘くて少し酸っぱい香りが鼻についた。
昨夜の記憶の泡だけが、耳の奥でまだ小さく弾ける。
伸ばした指先が、長い髪の毛を拾い上げる。
誰のものかは、言わなくてもわかる。
胸の奥でひとつ息を吐き、目を閉じた。
温もりのあった場所を、手のひらが確かめる。
そこから、静かな朝が始まった。
◆
ーー《ルーベントダンジョン 第16層》
新しく加入した女騎士カレンのお陰で、順調に進んで来られた。
カレンの動きは日を越すごとに鋭くなり、長いブランクを削り落とすようだ。
パーティ全体の流れも無駄が消え、掛け声が要らない場面が増えた。
それも結局は、彼女の短い指示と、的確な“間”の置き方がもたらしたものだ。
「フジタカ、エリナの援護。」
「はいっ。」
指示に従い、俺はエリナへ走る《ワーウルフ》の爪筋を槍で叩き落とす。
黒毛が波打ち、牙が空を噛む。
反撃の間合いが開いた。
エリナは風の影のように地を蹴り、ワーウルフ隊の背後、呪骨飾りをぶら下げた《ゴブリン・シャーマン》へ直線で差し込む。
「ぐぎゃぎゃーー《火壁》!!」
燃えたつ壁が瞬時に立ち上がった。
「っ!」
エリナの脚に淡い翼光が宿る。
空中で一度、ありえない“足場”を踏んで反転。
火の稜線を外側から回り込み、細剣の一閃でシャーマンの喉に静かな線を引いた。
「良く扱えてますね。」
カレンの声は低く短い。
ノワールが灯を掲げながら頷く。
「スキル、馴染んできてます。」
エリナの新スキル《風の脚》は、発動中だけ俊敏値が跳ね上がる。
そして、特出すべき点は踏み締める空中一歩——ほんの一歩が戦術の幅を広げる。
「遠吠え——来るよ!」
ノワールの言葉と同時、ワーウルフの「オォオン」と乾いた音。
灯りがひと呼吸ぶん、弱まったように見えた。
「ーー《石菱》」
ノワールが短詠唱。
砂と石が渦巻き、通路の床一帯に黒い撒菱の帯が走る。
ワーウルフの爪が刺さり、速度が鈍る。
そこへ俺は踏み込み——
「《ボゾン・コライダー》!」
加速の三突き。胸、肩、最後に喉へ。
骨の震えが槍を伝って掌まで返る。
倒れ際、獣の影が床に貼りつき、遅れて千切れた。
「影、濃いわね。」
カレンが盾を斜めに立て、背で言う。
「灯を守りなさい、影に注意。」
エリナが左右の残党を払う。
ノワールは撒菱帯の再配置に集中。
俺は槍の石突で床を小さく突き、影の中にある“柔らかい”場所を探る。
カラン、と金具の音。
細い糸の感触が足首を撫でた瞬間、通路両側から黒粉が噴く。
視界が一拍、墨で塗られる。
「シャドウ・サッパー!」
ノワールが叫ぶ。
絡みつく陰の根。
足が床に“縫い付けられる”いやな感触。
それは影に潜む悪意ある根ーー《シャドウ・サッパー》。
「踏ん張りなさい。」
カレンが盾の縁で床を叩き、俺の影を切る。
金属音が影を裂くように響き、縫い目がほどけた。
「ーー《土留》!!」
ノワールが合図と同時に地表を這いずる根を土の小さな手が妨害する。
黒粉が薄れ、灯が復帰。
足首に残る冷たさが、じわりと退いた。
「上に何かいる!!」
エリナが短く告げる。
天井の梁に潜む、血を啜る蝙蝠の群れ。
《ブラッド・バット》だ。
音もなく舞い降りーー。
「耳を塞げ!」
カレンの声が鋭い。
直後、骨に響く高音。
俺は槍柄を斜めにし、耳を肩で押さえる。
ノワールが《土壁》を薄く幾枚も立て、音を屈折させる。
エリナが二の踏みで空を切り、群れの中心に切っ先を貫入。
数匹の腑が破れ、血が砂に暗い斑点を作る。
「片づける。」
カレンが盾で一群を叩き落とし、曲剣が残りを撫で斬る。
静寂。
耳鳴りだけが残る。
「……今の罠は巧妙でしたね。」
ノワールがシャドウ・サッパーの残した黒粉を指先で弾く。
「光を殺して、影を縫う。ここ、“狩場”にされてます。」
「あのクソみたいな根は害悪だな。」
「まだ倒せていません、あれは逃げるのが上手です。」
俺たちは呼吸を合わせ、再び奥へ。
通路が大きく折れ、広間に出る。
床に濃い影の円がいくつも沈み、壁には古い鎖の残骸。
中央には割れた石の台座——剣が突き立っている。
「冷たい……。」
エリナが肩をすくめる。
空気が落ち、吐く息が白む。
俺の足元の影が、ふいに“遅れた”。
一歩、踏み出した俺より、影の足が半歩遅れて床に残る。
背がざわつく。
「止まれ。」
カレンの声。
全員が同時に止まる。
影の円が、ひとつ、ふたつ、こちらへ寄る。壁の鎖が、鳴っていないのに微かに揺れた。
地面から膨大な影の根が湧き立ち、台座の剣に纏わり付く。
広間の奥、台座の影から、冷えた刃の線が立ち上がる。
見えない重さが膝にかかり、床に縫い釘を打たれたように動きが鈍る。
台座に現れた存在に息を呑んだ。
カレンは長年の経験を元に推測する。
「光を失えば死にます。これは唯のシャドウ・パッサーではありません。」
カレンが一歩、影を踏まずに滑る。
「異常個体シャドウ・パッサー、危険度は並のものでありません。」
槍を半肩に預け、息の長さを整える。
エリナは風を足に宿し、ノワールは短詠唱を口の中で転がす。
影の奥で、兜の空洞が、こちらを向いた気がした。
冷気が刃の形で近づいてくる。
黒い根が集まり騎士の鎧を模った異形が、台座に突き立つロングソードの柄を掴んだ。
第16層の“壁”が、ようやく姿を見せる。




