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第57話 ー 中層の関門


窓の縁からこぼれた朝が、まぶたの裏を薄くあたためる。


「……ん、んん」


逃げるように寝返りを打つ。


探るみたいに伸ばした右手が、皺だらけのシーツをかすめ、空を掻いた。


意識がゆっくり水面へ浮かぶ。


「っ……もう朝か」


体の芯に、心地悪くないだるさ。


甘くて少し酸っぱい香りが鼻についた。


昨夜の記憶の泡だけが、耳の奥でまだ小さく弾ける。


伸ばした指先が、長い髪の毛を拾い上げる。


誰のものかは、言わなくてもわかる。


胸の奥でひとつ息を吐き、目を閉じた。


温もりのあった場所を、手のひらが確かめる。


そこから、静かな朝が始まった。



ーー《ルーベントダンジョン 第16層》


新しく加入した女騎士カレンのお陰で、順調に進んで来られた。


カレンの動きは日を越すごとに鋭くなり、長いブランクを削り落とすようだ。


パーティ全体の流れも無駄が消え、掛け声が要らない場面が増えた。


それも結局は、彼女の短い指示と、的確な“間”の置き方がもたらしたものだ。


「フジタカ、エリナの援護。」


「はいっ。」


指示に従い、俺はエリナへ走る《ワーウルフ》の爪筋を槍で叩き落とす。


黒毛が波打ち、牙が空を噛む。


反撃の間合いが開いた。


エリナは風の影のように地を蹴り、ワーウルフ隊の背後、呪骨飾りをぶら下げた《ゴブリン・シャーマン》へ直線で差し込む。


「ぐぎゃぎゃーー《火壁》!!」


燃えたつ壁が瞬時に立ち上がった。


「っ!」


エリナの脚に淡い翼光が宿る。


空中で一度、ありえない“足場”を踏んで反転。


火の稜線を外側から回り込み、細剣の一閃でシャーマンの喉に静かな線を引いた。


「良く扱えてますね。」


カレンの声は低く短い。


ノワールが灯を掲げながら頷く。


「スキル、馴染んできてます。」


エリナの新スキル《風の脚》は、発動中だけ俊敏値が跳ね上がる。


そして、特出すべき点は踏み締める空中一歩——ほんの一歩が戦術の幅を広げる。


「遠吠え——来るよ!」


ノワールの言葉と同時、ワーウルフの「オォオン」と乾いた音。


灯りがひと呼吸ぶん、弱まったように見えた。


「ーー《石菱》」


ノワールが短詠唱。


砂と石が渦巻き、通路の床一帯に黒い撒菱の帯が走る。


ワーウルフの爪が刺さり、速度が鈍る。


そこへ俺は踏み込み——


「《ボゾン・コライダー》!」


加速の三突き。胸、肩、最後に喉へ。


骨の震えが槍を伝って掌まで返る。


倒れ際、獣の影が床に貼りつき、遅れて千切れた。


「影、濃いわね。」


カレンが盾を斜めに立て、背で言う。


「灯を守りなさい、影に注意。」


エリナが左右の残党を払う。


ノワールは撒菱帯の再配置に集中。


俺は槍の石突で床を小さく突き、影の中にある“柔らかい”場所を探る。


カラン、と金具の音。


細い糸の感触が足首を撫でた瞬間、通路両側から黒粉が噴く。


視界が一拍、墨で塗られる。


「シャドウ・サッパー!」


ノワールが叫ぶ。


絡みつく陰の根。


足が床に“縫い付けられる”いやな感触。


それは影に潜む悪意ある根ーー《シャドウ・サッパー》。


「踏ん張りなさい。」


カレンが盾の縁で床を叩き、俺の影を切る。


金属音が影を裂くように響き、縫い目がほどけた。


「ーー《土留》!!」


ノワールが合図と同時に地表を這いずる根を土の小さな手が妨害する。


黒粉が薄れ、灯が復帰。


足首に残る冷たさが、じわりと退いた。


「上に何かいる!!」


エリナが短く告げる。


天井の梁に潜む、血を啜る蝙蝠の群れ。


《ブラッド・バット》だ。


音もなく舞い降りーー。


「耳を塞げ!」


カレンの声が鋭い。


直後、骨に響く高音。


俺は槍柄を斜めにし、耳を肩で押さえる。


ノワールが《土壁》を薄く幾枚も立て、音を屈折させる。


エリナが二の踏みで空を切り、群れの中心に切っ先を貫入。


数匹の腑が破れ、血が砂に暗い斑点を作る。


「片づける。」


カレンが盾で一群を叩き落とし、曲剣が残りを撫で斬る。


静寂。


耳鳴りだけが残る。


「……今の罠は巧妙でしたね。」


ノワールがシャドウ・サッパーの残した黒粉を指先で弾く。


「光を殺して、影を縫う。ここ、“狩場”にされてます。」


「あのクソみたいな根は害悪だな。」


「まだ倒せていません、あれは逃げるのが上手です。」


俺たちは呼吸を合わせ、再び奥へ。


通路が大きく折れ、広間に出る。


床に濃い影の円がいくつも沈み、壁には古い鎖の残骸。


中央には割れた石の台座——剣が突き立っている。


「冷たい……。」


エリナが肩をすくめる。


空気が落ち、吐く息が白む。


俺の足元の影が、ふいに“遅れた”。


一歩、踏み出した俺より、影の足が半歩遅れて床に残る。


背がざわつく。


「止まれ。」


カレンの声。


全員が同時に止まる。


影の円が、ひとつ、ふたつ、こちらへ寄る。壁の鎖が、鳴っていないのに微かに揺れた。


地面から膨大な影の根が湧き立ち、台座の剣に纏わり付く。


広間の奥、台座の影から、冷えた刃の線が立ち上がる。


見えない重さが膝にかかり、床に縫い釘を打たれたように動きが鈍る。


台座に現れた存在に息を呑んだ。


カレンは長年の経験を元に推測する。


「光を失えば死にます。これは唯のシャドウ・パッサーではありません。」


カレンが一歩、影を踏まずに滑る。


「異常個体シャドウ・パッサー、危険度は並のものでありません。」


槍を半肩に預け、息の長さを整える。


エリナは風を足に宿し、ノワールは短詠唱を口の中で転がす。


影の奥で、兜の空洞が、こちらを向いた気がした。


冷気が刃の形で近づいてくる。


黒い根が集まり騎士の鎧を模った異形が、台座に突き立つロングソードの柄を掴んだ。


第16層の“壁”が、ようやく姿を見せる。




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