第52話 ー カレンの心配
私がA級冒険者として駆けていたころ――ひとりの青年に出会った。
聡明で思慮深く、物腰はどこか貴族めいている。
ただのD級冒険者にすぎない青年――名をサリウスという――を、私は偶然ダンジョンで救い上げた。
彼は深く一礼し、上品な言葉で礼を述べると、自然な仕草で私の手の甲へ口づけた。
吸い込まれそうな瞳。
わずかに頼りなげな眉。
なのに拙い冗談を口にする時だけ、どういうわけか胸を張る。
生まれて初めて、異性を「可愛い」と思った。
それからは、気づけば私の方が世話を焼いていた。
剣の構え、踏み替え、間合いの詰め方。
ダンジョンの歩き方、戻り方、休み方。
教えるたび、彼は素直に呑み込み、照れ笑いを浮かべる。
帰路、〈ルーベントの門〉で夕陽を細めて見返す横顔を見た瞬間――
心臓が強く跳ね、頬が熱を帯びた。
瞳がわずかに開き、その光景を一枚の絵のように脳裏へ焼き付ける。
あぁ、恋に落ちる、とはこのことか。
◆
ーー《ルーベントダンジョン 第13層》
瘴気のたゆたう〈蟲の道〉を、私はひとりで進む。
壁を震わせる羽音。キラービーだ。
「……面倒ですね。」
群れるキラービーは針に猛毒を宿す。
一刻も早く深層へ向かいたい。
私は振り切ると決め、曲折する通路を駆けた。
追いすがる翅のざわめきが遠のき、また近づく。
その時――前方から小さな話し声が漏れてきた。
「っ」
この先にパーティーがいる。
槍を携えた青年、剣を握る女の子、身の丈ほどの杖を抱く魔術師の少女。
あまりにも歳が若い。
どうして中層に――そう思った次の瞬間、私は息を呑む。
私の“娘”と大差ない年頃の子たちに、魔物を押しつけるような真似が、できるはずもない。
背で風が逆立つ。群れが迫る気配。
「あぁ、巻き込んでしまいます。」
私はそう呟いた。
◆
フジタカ君――槍を立てたその青年が、まっすぐに言った。
「一緒に行くか?」
本来なら即答で断るべきだった。
私は急いでいる。
竜を狩りに行かねばならない。
見知らぬ子どもたちの面倒を見ている暇など、ないはずだった。
――それなのに、気づけば私は頷いていた。
理由はひとつ。心配だったのだ。
中層は、熟練でも一つのミスであっけなく命が途切れる場所。
そんな場所に、経験の浅い若者たちを置き去りにはできない。
それは彼らが“死ぬ”という選択肢を、黙って肯うのと同じだったから。
娘を持つ母として、それだけは容認できなかった。
◆
心配は、たやすく現実になった。
私たちの前に、アシッド・センティピードが身をくねらせて立ちはだかる。
中層でも屈指の強敵。
本来なら熟練のC級小隊で挑む相手だ。
横目に彼らの動きを測る。
実力は――ようやくC級の敷居に触れたかどうか。
この怪物には、まだ早い。
それでも私は胸の奥で小さく息を吐いた。
あぁ、よかった。私が、ここにいる。
十五年前までA級として名を連ねていた私なら、ひと捻りで終わるはずの獲物。
――そう“思っていた”。
◆
センティピードが体節を押し付けるように暴れ、通路が鳴動する。
急がないと、子たちが呑まれる。
「……っ」
踏み出した瞬間、現実が冷たく突き刺さる。
身体が、十五年前のようには前へ出ない。
かつて一刀で断てたはずの甲殻が、重い。
間合いが、遠い。
「ッ!?」
百脚の一本が私の足首をさらい、体勢が崩れる。
視界が傾き、剣と盾の間に隙が生まれた。
まずい――
その刹那、意外なことが起こる。
狙いは私だとばかり思っていた巨体が、唐突に進路を変え、フジタカ君へ牙を向けたのだ。
私と彼の間に、叩きつけられた身節が「壁」となって落ちる。
視界が断たれ、酸の匂いが濃くなる。
「シシャアァァッ!」
双顎が静かに開く。
石が焼ける、チリ……という音だけがやけに大きく響いた。
「ははっ、これは不味いな。」
肉の壁越しに、彼の乾いた声が届く。
――立て、間に合え。
私は歯を噛み、崩れた重心を無理に起こす。
盾の革紐を引き絞る。
あの子が死ぬ。そんな未来だけは、許せない。
次の瞬間、空気が裂けた。
「ーー《ディラトン》ッ!!」
鋼槍が風よりも速く走り、分厚い甲殻を穿つ。
衝撃が通路を抜け、身節に亀裂が奔った。
私はそこへ迷いなく踏み込み、盾の面で亀裂を叩き割る。
「……はぁ、はぁ。」
崩れ落ちる巨体。
背後で若い歓声が弾けるのを聞きながら、私は喉の奥で笑った。
――見くびっていたのは、どうやら私の方だ。
彼らは、思っていたよりずっと立派だ。




