第40話 ー 湿原の牙
ーー《ルーベントダンジョン 第9層》
フジタカ《33Lv → 36Lv》
エリナ《24Lv → 30Lv》
ノワール《22Lv → 28Lv》
ーーー
湿気を含んだ冷たい風が頬を撫でた。
耳を澄ますと、水滴の音がどこかで絶え間なく落ちている。
ここは――ルーベント第9層。
水辺と泥沼が入り混じる広大な湿原地帯。
灰緑の靄が漂い、足元の水面には大小の円が幾つも波紋を広げていた。
その中心から、長い舌と槍のような尾がぬらりと浮かび上がる。
「リザードマン……。」
エリナが短く呟く。
その眼前、鱗に覆われた人型の影が六、七体。
全身を濡らしたまま、こちらをじりじりと囲むように歩み寄ってくる。
水飛沫が跳ね、静かな殺気が立つ。
この層を抜ければ――いよいよ中層、第10層だ。
そこから先は、もはや“初心者”の領域ではない。
フジタカは鋼槍を構え、短く息を吐く。
「ここが分かれ目だ。……気を抜くな。」
湿原に、金属の軋む音と、決意の息が重なった。
◆
リザードマンの一体が突撃してきた。
槍を薙ぐ勢い、泥を巻き上げる速度。
それを迎え撃つのは、エリナだった。
以前の彼女なら、焦って斬りかかっていた。
だが、今の彼女は違う。
息を整え、相手の“呼吸”を読む。
槍先が沈む瞬間――その動きの“起こり”を掴んだ。
「……ここ!」
エリナの剣が水飛沫を裂き、リザードマンの肩口を断ち切る。
反撃の槍を紙一重で避け、すぐにもう一太刀。
流れるような踏み込みだった。
「やった……!」
泥を蹴りながら、彼女の瞳に確かな自信が宿る。
焦りではなく、読み。
速さではなく、間。
剣士としての感覚が、ようやく形になっていた。
◆
「ノワール、援護だ!」
フジタカの声に、後衛の少女が頷く。
紫の長髪が揺れ、杖の先が泥を突いた。
詠唱は――短い。
以前のような長い呪文は、もう必要なかった。
「――《石菱》!」
その声と同時に、地面が変化する。
泥が波打ち、棘のついた黒石の菱が無数に浮き上がった。
リザードマン達が一斉に足を踏み出した瞬間――「ガアッ!」という悲鳴が響く。
鋭い石の棘が鱗を貫き、足を取った。
倒れた隙を、フジタカが突く。
鉄槍が閃光のように走り、喉を貫いた。
「よし……次、右だ!」
ノワールは息を乱しながら、続けて詠唱を省く。
「ーー《石槍》!」
地面から突き上がる岩槍が、敵の腹を貫いた。
その瞬間、彼女の表情に迷いはなかった。
「……魔法は、完成を待たなくていい。届けば、それでいい。」
泥と血の匂いの中で、ノワールの眼が強く光る。
彼女の魔法は、教科書から離れた“実戦の術”になっていた。
◆
戦いが終わる頃には、湿原は静寂を取り戻していた。
敵の死骸が水面に沈み、泡を立てる。
エリナは剣を拭いながら言った。
「今度は……怖くなかった。」
ノワールも微笑む。
「わたしも。詠唱を途中で止めても、形になるなんて思わなかった。」
フジタカは頷き、槍を背に収める。
「上出来だ。……この層を抜けたら、中層だ。」
水面に映る焚き火の光が、三人の顔を照らす。
その炎は、恐怖ではなく“覚悟”の色をしていた。
ーー《第9層突破》
次の階層、第10層。
そこから先は、生きて帰れる者のほうが少ない。
だが、彼らの目には迷いがなかった。
剣士と魔導士、そして槍の男。
三人の影が、湿原の奥へと消えていった。




