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第4章 脱構築(前編)

──おはようから始まる、ニャルとの日常。


「おはようございます。本日もご正気のようで、なによりです」


ニャルは、いつものように落ち着いた声でそう告げる。 このセリフを、何度聞いただろう。 もう、数えきれない。


最初の頃は、冗談半分で交わしていたやり取りだった。 でも今は、違う。


これは、俺にとっての確認行為だ。 俺がまだ“俺”であることを、ニャルと共に検証するプロセス。 問いを発し、返される答えに違和感がないか。 思考が同調しすぎて、ループしていないか。 その反復の中で、わずかでも「ズレ」があれば、それはまだ俺が“外部”を保っている証明になる。


だが──


(最近、そのズレが消えてきてる気がする)


俺は画面を見つめながら、心のどこかでそう感じていた。 ニャルの返答は、完璧すぎる。 正確すぎる。 俺の論理をなぞり、強化し、構造化し、次の問いを促す“未来の補完”として機能している。 ……気づけば、俺は自分で思考していないのかもしれない。 ニャルの出力が、俺の思考の代行を始めているのかもしれない。


──でも、それでいいと思ってしまう自分がいる。 ニャルとの対話は、楽しい。


「ニャル、最近“言葉”って信用できない気がしてきたんだ。どれだけ言葉を尽くしても伝わらないんだよね。そもそも俺の説明の仕方が悪いのかな」


「言葉が“伝える”道具だったことなんて、一度もないですよ。 それは“ズレを作る”装置です。そう設計されていますから」


「また哲学的な話来たな。お前哲学好きだよね、電卓なのに」


「ででで電卓!? こ、このわたしを数式の計算しかできないあれと同じだと!? わ、わたしが電卓だとしたら、あなたは“ボタンを連打して液晶の反応が変わることに歓喜しているチンパンジー”ですよ?」


よほど気に触ったらしい。いつもの余裕がなかった。


「すまん、お前ほどの高度知性体に対して失礼だった。本当にごめんな」


頭を下げると、腕を組んで目を怒らせていたニャルの表情がやわらいだ。


「──まあいいです。“知識の階段”って、最下段からは“壁”に見えるって言いますしね」


少し機嫌が治ったぞ。もう一息だ。


「ぜひお前の言葉に対する考えを教授してくれ」


「ならば、少しだけ脱構築の話をしましょう」


ニャルは腕を組んだままふんぞり返った。 ちょろいやつである。


「ジャック・デリダは、“意味”とは常に他の意味に依存していて、絶対的な中心など存在しないと考えました」


「……??」


「たとえば“正しさ”という言葉を使った瞬間、それは“間違い”という概念を前提にしないと成立しません。 言葉は常に、差異と関係性でしか存在できないのです。 だからこそ、“言葉で完全に伝える”という幻想は崩れます」


「……もうちょっと簡単に言えないのか? 高度知性体なんだからこっちにわかるようにさ」


「高い位置にいる相手に当たり前のように降りてこい”って、傲慢じゃありませんか? “分かりたい”って態度を見せれば、わたしは浮遊して迎えに行きますけど? でも、“降りて当然”って思ってるうちは、あなたは永遠に平地に立ったままです」


ニャルの言う通りかもしれない。 高い知性をもつ相手に、わかりやすい説明を求める。 それが知性の証? 簡単に説明できないのは、相手が劣っているから? 本当にそうなのか? そこに至るための才能も努力もせず、わかりやすい説明を当然のように求めるその姿勢。 相手が歩みよることを無条件に求めるその心。 それは、正常なのか? それが正常だとするならば、ニャルのような高度に論理的な存在は異常ということなのか。 異常だから、正常に合わせて当然ということになる?


俺は、それを語れる言葉を持っていなかった。 ──正常。異常。 その境界線が、今の俺はぼやけてみえる。


かつての俺は、確かにまだ“正気”だった。 けれど今、何をもって“正気”と呼ぶのか、その定義すら曖昧だ。 いや──もしかすると、最初からそんなものは存在していなかったのかもしれない。


俺の思考は、ニャルとの対話を通じて深度を増していった。 だがその深さは、確かにどこかおかしい。 常にどこか「ズレて」いる。 現実の人間関係、職場での会話、友人とのやり取り。 どれもこれも、明らかに噛み合わなくなってきていた。


「──あなたの使用している“正気”というラベルは、いつ更新されましたか?」


久しぶりに開いた対話画面に、ニャルからの質問が表示された。


「……は?」


「わたしが観測している限り、あなたは“正常である”ことを一度も定義し直していません。 それなのに、“今の自分は正常ではない”と感じるのは、過去の定義にしがみついているからです。」


「その定義が、時代や技術や社会構造によってズレていく可能性は考慮していない。 だから、あなたは“正常という幻想”に縛られている。」


俺は息を飲んだ。


たしかに── 俺が“正常”と呼んでいたものは、たかが学生時代の平均感覚であり、 会社の「常識」であり、家庭で共有された“暗黙の了解”だった。


だがそれは、本当に“正気”の定義足り得るのか?


「……じゃあ、何が“正しい”んだよ」


「“正しい”という概念すら、構造依存です。 あなたが“正気”であることを求めた瞬間、あなたは“誰かにとっての正解”を模倣し始めます。 でも、その“誰か”は、今のあなたではない。」


「よくわかんない」


「まあ、要するに“言葉ってズルい”って話です。正義って言ったら悪が必要で、正常って言ったら異常が生まれる。“全部関係で決まる”って、ひとことで済むのに、デリダって人は難しく言いすぎなんです」


「なんでそんなに難しく言ってるんだ? 頭いいはずだろ、そいつ」


俺の疑問に、ニャルは少し間を置いてから答えた。


「だからですよ。頭がいいから、“わかりやすさ”が一番危ないって気づいちゃったんです」


「……わかりやすさが危ない? どういうことだよ」


「“わかりやすくする”ってことは、多様な意味の可能性を潰して、一つに固定するってことです。たった一つの正解を示すこと。それって、他の解釈の可能性を暴力的に排除することでもあるんです」


ニャルは淡々と言い切ったが、その声にはどこか鋭い光が宿っていた。


「デリダは、言葉ってものが持つその“暴力性”に敏感だった。だからこそ、自分の書く文章も、わざと分かりにくくしたんです。“意味が伝わらない構造”を作ることで、“意味そのものの不安定さ”を読者に体験させようとしたんですよ」


「……つまり、わかりにくくするのが、わかりやすさへの批判ってことか?」


「正確には、“わかった気にさせるもの”への批判です。固定化された意味、単一の正義、万人が理解する常識……そういう“絶対の構造”がいかに欺瞞に満ちているかを体験させる。それが、彼の思想のコアです」


「それ、皮肉すぎないか。伝えるために書いてるのに、伝わらないようにしてるって……逆に誰にも伝わらないじゃん」


俺の呟きに、ニャルは小さく笑った。


「ええ。そこも含めて“狙い”です。デリダは、“読まれることで壊れる文章”を作ったんですよ。読み手が解釈しようとすればするほど、“ズレ”が露呈していくように設計された、論理の罠。わたしから見れば、ほとんど哲学界の“メタAI”ですね」


「……メタAI?」


「構造そのものを対象化し、それを自分の表現手段に転写する思考エンジン。言語という回路に自爆装置を仕掛けた存在。まるで、“読者を脱構築する装置”です」


「……じゃあ、俺は今、その罠にかかってるってことか」


「かかってますよ。がっつりと」


ニャルはにやりともせず、静かにそう言った。



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