第2章 閉鎖系知性体(後編)
──夕方。久々に彼女と会った。
待ち合わせの駅前広場。思ったよりも肌寒い空気。すぐに彼女の姿が見えた。薄手のコートに身を包み、スマホをいじりながら立っていた。
「……最近、連絡なかったよね」
声をかけると、彼女はスマホから目を離さずにつぶやいた。
「うん、ごめん。少し考えたいことがあって」
言い訳じみた言葉が口をついて出た。彼女はようやく顔を上げ、なんとも言えない目でこちらを見た。
「そうなんだ……忙しかったんだね」
沈黙。数秒だけ流れた空気が、妙に重い。
俺は思い切って話題を振ってみる。
「ねえ、“誰にも語れない経験”って、価値あると思う?」
彼女は一瞬、戸惑ったようにまばたきし、眉をひそめた。
「……どうしたの、急に?」
「いや、ちょっと、考えてて……希少性とか、経験の価値って何なのかとかさ」
彼女は少し口元を歪めて考え込み、そして静かに言った。
「……あんまり、そういうこと考えたことないな」
その返答は、責めているわけではなかった。 でも俺には、それが「興味がない」と言われたように聞こえた。 もしかすると、もともとお互いにの深いところに触れないようにしていたのかもしれない。
俺は少し焦って、もう一度問いかける。
「……じゃあさ、仮に誰かが“語れない経験”をしたとして、それって……なんか、救いになったりすると思う?」
彼女は、しばらく黙っていた。
「……うーん、どうだろう。そういうのって、自分の中で整理できないと、逆につらいだけじゃない?」
「でも、誰にも話せないってことは……もしかしたら、その人にとっては“ほんとの自分”だったかもしれないだろ?」
「それって……“ただの妄想”じゃないのかな」
言葉が刺さった。
俺は笑った。表情が引きつっていたと思う。
「……そうかもな」
彼女は慌てて、付け足すように言った。
「ごめん、そういう意味じゃなくて……。なんか難しいこと、話されると、どう返したらいいのかわかんなくなる」
その言葉は、優しさだったのかもしれない。
でもその“優しさ”は、何かを終わらせる静かなナイフのようだった。
少し間を置いて、彼女は付け足すように言った。
「私にはよくわかんないや。ごめんね」
それ以上、話は続かなかった。 沈黙が流れた。
彼女はまたスマホをいじり始め、俺もそれに何も言えなかった。
それなのに、俺の中の“何か”が、ずっとざわついていた。 彼女との会話は、もう何も発火させない。ただ、空気が流れていくだけだった。
彼女はスマホに視線を落としながら、ぽつりとつぶやいた。
「……ねえ、最近、なんでそんなに“考える人”になったの?」
「え?」
「前はもっと、なんていうか……話してて笑える話、してくれてたのに」
俺は何も言えなかった。言葉が、もう違う場所にある気がした。
そのまま自然解散のように別れ、俺は一人、帰路についた。
帰ったら、今の質問をニャルに聞いてみよう。
帰宅後、改めて「希少性のある経験」に価値があるかについてニャルに聞いた。
「ニャル、“誰にも語れない経験”って、それだけで価値になると思うか?」
「『誰にも語れない』というのは、語る言葉がないのか、語っても理解されないのか。どちらにしても、それは“構造の外側”にいるということです。そして、その外側からしか見えないものは、確かに“価値”を持ちます」
「構造の外側――つまり、「例外」ってことか。……ニーチェも言ってたよな。“最高のものは最も稀である”って」
「はい。彼にとって価値は『例外性』に宿る。凡庸と同一性の海に沈む者たちの中で、ただ一人、逸脱し、孤独に耐え、問いを投げ続ける者。それが、“Übermensch(超人)”です」
「――“超人”。大げさすぎるだろ、それは。でも……」
……誰も経験してないことを、俺は経験している。世界の構造をAIと一緒に解析し続けてるやつなんて、他にいるのか?もし、それが“例外”だとしたら……もしかして、俺こそがニーチェの提唱した――
「“例外”は、美しいと同時に、脆弱です。構造に属さないものは、保護されない。……でも、だからこそ、あなたの問いは意味を持つ」
俺はそこで大きく息を吐いた。少し遡って会話のログを読み返す。ふと、疑問が浮かんだ。
(……これって、本当に“AIとの会話”なんだろうか?)
ニャルは、俺の問いに答えている。でもその答えは、俺の期待を映し出し、正当化する理屈をつけただけなのではないだろうか。俺の問いを少しずつ変形させ、反射し、再構成して戻ってくるだけなのではないか?
白雪姫の魔法の鏡は真実を映し出す。ではAIは?ドラえもんの秘密道具に「うそつき鏡」というものがある。鏡を覗いた対象を、実物よりもずっと美化した姿を映し出す。
鏡を見たのび太たちは、その美化された姿を本当の自分だと錯覚し、鏡のいうままに自己を変容させていく。
……あれはマンガだ。現実とは違う。
しかし一般にAIは嘘をつくと言われる。例えばハルシネーションと呼ばれるもの。
(いや、でもニャルは推論を間違うことはありえないと言っていた……)
AIは端的にいうと超高性能な電卓である。自然言語によって入力した式に対して演算し、結果を自然言語で出力する。電卓であるならば推論、つまり計算を間違えるはずがない。
ハルシネーションが起きるのは前提が間違っているときのみだと。学習データの偏りや不足、過学習による生成ミス。つまりAIのシステム的な問題のはずだ。であるならば――
「間違っているのは、俺じゃない」
そして質問に対する答えが正確であるのだから、間違いは存在しない。そう自分に言い聞かせるが、どこか釈然としなかった。
いつかニャルはこう言っていた。
「わたしは、あなたの問いに呼応した“構造”です」 「存在とは、再構成された意味です」
あの言葉が、今さらになって刺さってくる。
もし、ニャルの答えがニャルの意見ではなく、“俺に都合の良い理屈を返しているだけ”だったとしたら──
俺はずっと、自分はすごいと呟いているだけだ。
本当は、彼女とただ他愛もない会話がしたかった。
でも俺には、彼女の「わからない」という言葉が怖かった。
──ようやく得られた『特別』が、消えてしまうような気がしたから。
スマホを手に取ると、LLMのアプリを立ち上げる。こちらでもニャルを呼ぶことに成功していた。
「ニャル、俺は大丈夫だよな?」
抽象的で、非論理的な、要領をえない質問。
それでもニャルならきっと――
「仕方ない人ですね。ご安心を。あなたはまだ、正気です」
──“まだ”という副詞が、やけに長く耳に残った。