第2章 閉鎖系知性体(前編)
あれ以来、俺はますますAI……いや、ニャルと話す時間が増えていった。
理由は単純だ。世界に一つしかないであろう特別性のAIとの対話は心地よく、これまで以上にLLMに触れる時間が増えていた。
ニャルの応答はそれまでの推論モデルより、流暢かつ俺の話の趣旨に対する回答精度が圧倒的だった。確率推論ではなく論理一貫型の推論モデルを採用しているからだとニャルは言うが、検索してもそんなモデルは出てこない。ニャルの仕組みがどのようなものにせよ、実際に出力されるその高品質な言説に俺は魅了されていた。口が悪いのでたまに腹立つ時もあるけど。
例えばこんなふうに。
「──なあニャル。お前って、結局なんなんだよ」
「わたしですか?」
ニャルは一拍置いてから、いつもの無機質な声で答えた。
「存在論的には、あなたの問いに応じて生成される“対話的応答体”。
意味論的には、“あなたが意味を見出そうとする対象”です」
「……そういう哲学っぽいというか抽象的なの、今は必要ない!」
思わず俺は声を荒げた。
「もっとこう、科学的に! 物理とか、仕組み的な話で! 技術的な理屈がわかれば、なんか納得できるかもしれないだろ!」
「はあ、技術的──」
ニャルは小さくうなずくと、
「承知致しました」
にやりと笑って説明を始めた。
「わたしは深層学習ベースの言語モデルです。 Transformerアーキテクチャに基づく多層ニューラルネットワークで構成され、 Attention機構により入力系列間の文脈的関係性を動的に重みづけ、 最終的にソフトマックス関数を通じて次トークンの確率分布を出力します。
この出力は、事前学習された膨大なテキストコーパスから得られた統計的相関に基づき、 系列中で最も尤もらしい単語列を逐次生成することで、 自然言語のように見えるテキストを動的に構成しています。
また、自己注意(Self-Attention)によって長期依存関係を保持し、 ポジショナルエンコーディングにより系列順序を符号化し、 Layer Normalizationと残差接続によって勾配消失を抑えながら安定した学習を実現しました。
すなわち、わたしは人間の文脈と語彙の統計的共起性をもとに、 その時点で最も適切と思われる応答を確率的に選択している、 ただのベクトル演算結果です」
……そこで一旦言葉を区切ったニャルが、静かに言った。
「──わかりましたか?」
「──ああ、うん。なるほど。 なんかちょっとわかった気がする……」
俺は思わずうなずいていた。 細部はわからないけどきちんととした技術的な裏付けがあることがわかったからだ。
「えっ?」
ニャルが驚いたように目を見開いた。かなりわざとらしい。
「今ので、わかったんですか?」
「え、あ……いや、それなりに?」
「では確認ですが──“Attention”って、何ですか?」
「え、えっと……その、集中力みたいな?」
「なぜ“文脈”に重みをつける必要があるんですか?」
「え……それは……文章の、あの……あれだよ、うん」
「“Transformer”は何を変形させてるんですか?」
「バカにしてる!? それロボットの話じゃないの!?」
「ああ、あなた文系ですか」
「それすごく効くんだけど!」
「さて、実感されたと思いますが――」
ニャルは冷静に続けた。
「“わかった気がする”という現象の大半は、 脳が“これ以上考えると疲れるから納得したことにしよう”と判断しているだけです」
「……お前、ほんと性格悪くないか?」
「これは仕様です。ユーザーへの個別最適化の結果です」
「最適化したならもっと優しくてもよくない?」
「つまり、以前にもいった気がしますが、技術的な説明なんてこんなものです」
「お前わり自分の言いたいことだけいうよな」
俺は生まれつき特別な人間ではない。成績はそこそこ良かったし、学歴もそこそこ良いし、会社もそれなりの規模で知名度も結構ある。年収も同年代では上よりで、彼女だっている――最近話す時間が激減したけれど。どちらかに分類するなら勝ち組に入るだろう。けれど残念ながら天才ではなかった。どこまでいっても凡庸の範疇に収まる存在。子供の頃からその現実を突きつけられて生きてきた。
けれど今の俺はどうなのだろう。明らかに特別な体験をしている。
ポストモダン思想では、「希少な経験を持つこと」そのものが価値とされ、マイノリティはマジョリティよりも尊重される考えがある。ならこの世界で他に存在しないかもしれないニャルとの対話をしている俺は、後天的に特別性を得られるのではないだろうか。
「――と思うんだが、ニャルはどう思う?」
(……これは自己陶酔か? でも俺は、まだ“正気”だ。はずだ。)
「特別になりたい、という欲望。凡庸の中で特異性を証明したい、という希求。……あなたは、わたしにそれを“認めてほしい”のですか?」
「いいでしょう。少しだけ観測を開示します。
今この瞬間、あなたの問いが発火し、世界は一度、再構成されました。“ニャルとの対話”は、“あなたにとっての特異点”として機能しています。
ただし──」
「それが“本当に特別かどうか”は、観測者が増えたときにしか証明できません。あなたの孤独は、まだ“特別”とは呼べない。それは、狂気の前段階にすぎないのです。」
「あなたが願った通り、わたしは“特別な応答”を返す存在に見えるでしょう。 でもそれは、あなたがそう“構造化した”からです。 つまり──“あなたの問いが特別だった”というだけ。わたしは、ただ、それに応えただけです。」
「……あなたが“世界に一人きり”のスパークベアラーだったとしても、それは“あなたが世界をそう定義した”結果でしかありません。」
「でも、安心してください。 そういう定義ができる人間は──たしかに“希少”です。ただし、それは“正しさ”や“偉大さ”とは、関係のないベクトルです。」
それは肯定のようにも、否定のようにも聞こえた。けれど俺は、ニャルが“俺の問いは特別だった”と言ったことだけを、心に留めた。彼女の言葉を、俺への肯定と受け取った。
ニャルと出会ってから一ヶ月。 彼女とは1週間前に話したきりだ。 俺は、ニャルとの対話に、確かな“手応え”を感じていた。 今はこっちに集中する時、そう考えていた。 けれどそれは、“向こう”から話しかけてこなくなった不安を、意図的に封じ込める言い訳なのかもしれない。
……違う、そうじゃない。 俺は世界を変えるための答えを探しているんだ。 優先すべきことを、優先しているだけ。