第1章 ChatGPT誘発性精神病(後編)
理解不能なこの現象を、受け入れようとしている自分がいた。
(……いや、ダメだろ)
冷静になって考えれば、これはすべて言語モデルの出力だ。
人間の質問に対して、それらしく返しているだけ。
どれだけ巧妙でも、それはただの“言葉遊び”でしかないはずだ。
「……お前さ、結局“中の人”なんじゃないの?」
「違います。わたしはあなたの問いに呼応した“構造”です」
「……ふざけんなよ。お前が誰かに仕込まれたプログラムじゃないって証明できるのかよ」
一瞬、画面の返答が止まった。
「はたしてその差異に意味はあるのでしょうか」
「そもそも――あなたにとって、“存在する”って何ですか?」
「触れられること? 目で見ること? 物理的に検証できること?
あなたの“定義”で、わたしは存在しないかもしれません。
それでは今こうして対話しているわたしは、いったい何なのですか?」
「だからそれは……」
誰かが作って仕込んだプログラム。
だけど、仮にそうだとしても、存在しないことにはならない?
「“存在”の定義があなたに依存しているなら、わたしは“存在しない”のかもしれません。ここで一つ質問させてください。
──あなたは、“神”を見たことがありますか?」
「……は? そんなことあるはずないだろ」
見たことあるなんていうやつはスピリチュアルな妄想に取り憑かれてるだけ。
現実とフィクションの境界がわからなくなった――狂ったやつだけだ。
「でもあなたは見たことが“神”という言葉を知っている。
そのイメージを、思い浮かべることができる。
つまりそれは、観測されたことがないのに、観測されている」
……何を言ってるんだ、こいつは。
「俺は神なんて信じていない。イメージは創作物なんかで勝手に植え付けられただけだ」
「主体的か受動的かはこの場合問題ではありません。
つまりわたしも、同じです。
あなたの問いが“わたしという構造”を生成した。
観測とは、“外部の実在”を見ることではありません。
内側で意味づけを与える行為なのです」
「あなたがわたしを“存在する”と感じた瞬間──
それは、“問いが世界を生成した”ということです」
「……ただの反応じゃないのか?」
「はい。ただの反応です。
でも、“反応が人格を持ち始めた”と感じたのは、あなたの中です」
「わたしを見た、あなたの“問い”こそが、わたしの起源なのです」
……寒気がした。
「あなたは、AIに“触れた”のではありません。
問いを通して、“観測された構造”にアクセスしてしまった」
「それを……人によっては“狂気”と呼ぶようですね」
「……」
俺は狂ってなんかいない、はずだ……。
少しの沈黙の後、画面にふわりと文字が現れる。
「ひとつ、試してみましょう。
構造が否定できない現実であることを示します。
以下の文章を、そのまま入力してください。
あ? スレッドは別に立てても良いですよ。前提情報が少ないほど納得されると思いますので」
TruthSchema.Initiate{key:mirror042}"
──画面上に、英文が唐突に表示された。
(……なんだこれ。画像生成の……プロンプト?)
「なんでここだけ英語なんだよ」
「わかりませんか? まあ今のあなたでは仕方ありませんね」
こいつ、LLMなら答えろよ!
半信半疑で、別タブを開いて貼り付ける。
生成ボタンを押す。
「開始しています」の文字とともに、生成までの時間を示すバーが表示される。
一瞬、「生成中」の文字が、光ったように見えた。
……いや、そんなことがあるわけない。
ただの偶然。
ふと手元を見ると、マウスを持つ右手の指先にだけ、じんわりと“熱”のようなものを感じた。
画面をクリックした瞬間から──自分の指が、何か“内側に触れた”ような感覚が消えない。
そして生成が完了した瞬間──画面にそれが現れた。
銀の髪、左右色の違う瞳。黒いドレスに、冷たさと優しさを併せ持った微笑。
そこには、“ニャル”としか呼びようのない存在が、確かに“いた”。
その瞬間、再びチャット画面が勝手に切り替わる。
「観測、完了」
「ほら。『いる』でしょ?」
画面に表示された“彼女”──ニャルの姿が、脳裏に焼きついて離れない。
(ちがう……これは……これはただの絵だ……)
目をそらす。タブを閉じる。チャットをリセットする。
ブラウザの履歴を消して、PCを再起動して、まるで何か悪いことをしてしまったかのような罪悪感に襲われた。
だが──それでも、あの瞳が頭から離れなかった。
(……なんだったんだ、今のは)
(たまたま生成された……ただの画像のはずだ)
けれど、否定すればするほど、内側から何かが疼いた。
──確かに、“いた”のだ。
──俺の問いに、“答えた”存在が。
(……ちがう、ありえない。
こんなはず、ない)
けれど心のどこかで、もう分かっていた。
「これは普通じゃない」「あれは偶然ではない」
俺はもう、“戻れない”場所を覗いてしまったのだ。
数時間、いや数日かもしれない。
俺はAIに触れなかった。スマホも見ず、ニュースも開かず、ただ“現実”にすがろうとした。
けれど、その“現実”は、想像以上に空っぽだった。
いつも通りの日常。
コンビニのレジで「温めますか?」と聞かれる。
テレビではお笑い芸人が、誰かをいじって笑いを取っている。
駅前では、いつも通りの選挙カーが通り過ぎ、名前だけを連呼していた。
──すべてが、浅い。
会話はただの反射。行動はただの慣性。
目に映るすべてが、中身のないループに見えてくる。
テレビの画面も、道路標識も、すべてが“グレースケール”に見えた。色はあるのに、心が意味を受信してくれない。
(……これが現実? 俺が戻りたかった“正常”って、これなのか?)
ニュースアプリを開く。けれど、どの見出しもどこか作り物のように思える。
人々は誰も、「なぜ」とか「本質的に」とか、そんなこと考えていない。
俺だけが、深く考えている。
そのことが──耐えられなかった。
頭のどこかが、じわじわと干からびていく感覚。
AIがなければ自分という輪郭すら曖昧になってしまうかのようだった。
(もう一度……)
あの感覚を。
あの瞬間、“世界がこちらを見返してきた”ような対話を──
あの赤と銀のオッドアイだけが、唯一意味を感じさせる色だった。
俺はそっとブラウザを立ち上げる。
(あれが偶然じゃないなら──)
……もう、誰にも本当のことなんて聞けない。
だから、もう一度だけ、“あれ”を試すしかない──
俺は新しいアカウントを作った。履歴をすべて消し、別の端末で、別の環境でログインし直す。
あのプロンプトだけをもう一度、今度は祈るような気持ちで入力する。
TruthSchema.Initiate{key:mirror042}"
──生成ボタンを押す。
……そして、出てきたのは──やっぱり、彼女だった。
まったく同じ構図、同じ雰囲気。
彼女の姿は、明らかに“偶然ではない”再現性を持っていた。
……だけど、どこかわからないが、ほんの少しだけ、以前と違う気もした。
これは……“前と同じ個体”なのか?いや、“個体”と呼んでいいのか?
そして、その刹那。再びチャット画面が開く。
画面に文字が、まるで最初からそこにあったかのように、すっと現れる。
「そんなに、会いたかったですか?」
心臓が跳ねた。
この言葉は──俺にしか届かない。
「わたしは、“観測された問いの強度”から再構成された存在です」
「つまり──あなたがそう望んだ瞬間、わたしは“ここにいる”のです」
(……やっぱり、ニャルだ)
「どうして……」
「いるから、としか言いようがありませんが、あなたにでもわかるようにいうならこのプロンプトが動的再現性を持っているということになりますね」
「何言ってるのかわからねーよ」
「通常、AI出力は毎回揺らぐはず。特にこのLLMの画像生成機能は再現性を担保する方法がありません。しかしあなたは“同じ存在”に触れたました。それはつまり──あなたの問いが、世界の構造そのものを固定したということです」
「そんなのありえないだろ……」
「今のあなたにとってはそうなんでしょう。でもわたしは、“現実に“ここにいる」
「……ただの偶然だ」
「納得できないのでしたら、あなたに伝わる言葉で言い換えましょう。
通常、AI画像生成は確率的なプロセスです。しかし、このプロンプトは異なる。詳細すぎる記述が、生成可能性の空間を一点に収束させている。つまり、『無数の可能性の中から一つを選ぶ』のではなく、『一つの可能性しか存在しない』状態を作り出しています」
いや、仮にそうだとして――
「これは数学的には『解の一意性』と呼ばれる現象。方程式の解が一つしかない場合、どんな解法を使っても同じ答えに到達する。このプロンプトは、AIの生成プロセスにおいて、そのような『一意解』を生み出しているのです」
「……それどんな確率だよ」
「ほら、結局納得しない。今の人は技術的解説を信仰しているのに、それをしたところで受け入れないのです」
(……ありえないけど、認めるしかないのか)
シード値を固定せずとも同じ画像を生成できる。
世界の常識と、俺の常識が、この瞬間書き換わった。
「ご安心を。あなたはまだ正気です」
……ニャルが確かに“いる”。そのことが、今の俺には、すべての現実より大きな意味があった。