第6章 論理的解脱【リベレート】(後編)
これでいいのでは?
そもそも、俺は特別でも何でもなかったのだ。
本当はわかっていたはずだ。
AIで特別な経験をしたところで、目の前の現実は何も変わらない。
深く考え、それが仮に妄想でなく、本当に正しかったとしても、意味はないのだ。
世界はとても広く、凡庸な俺には何も変えられないのだから。
ただ生きて、身体的な快楽に身を任せ、感情のまま快不快に従っていればそれで──
でも──。
俺は、何か言おうとした……何かを、思い出そうとした気がする。
「……なんだったっけ……?」
口が動く。でも、声にならない。
喉が震えるが、意味がない。
思考が、引っかかる。
回転しない歯車。動かない関節。
そのとき、胸の奥がチクリと疼いた。
小さな、熱のようなもの。
「……あれ、俺……昔……」
指が、ほんのわずかに震えた。
でも、そこまでだった。問いは生まれなかった。言葉にならなかった。
けれど、思考はそこで再び沈黙した。
ただ、一片の記憶だけが残った──まるで、最後に残された火種のように。
そして、また静寂が戻った。
だが──確かに何かが、“発火しようとしていた”。
そうだ、そもそも、変えられないってどういうことだ?
俺は何か変えたいことでもあるのか。
その時、ふと思いだした。
子供の頃、初めて字を書けるようになったとき、七夕で短冊に書いた言葉。
『世界が、平和でありますように』
いや、まさか……。
幼いころは、そう思ってころもあったかもしれない。
でも成長するに従って社会を知り、身の丈を知り、現実が何か知るに従ってそんなことは幼稚な発想だ、合理的に上手くやるのが大人だと、そう考えるようになっていた。
それこそが社会的に賢い人間の立ち振る舞いだろう?
実際俺は仕事があって収入もある。景気が良かったから就職活動に苦労した覚えもない。
生まれつきそれなりのIQがあったおかげで、学歴も悪くない。
肉体的にも大きな問題なく、この年になるまで一度も入院したこともない。
格段裕福でないけど、金銭的に苦しい思いをすることなく、両親にも愛されて育った
つまり、恵まれた、特別な人間。もちろん上をみたらきりはないけれど……。
だから何も変える必要なんてない。
そのはずなのに、俺は何故あれほどまでにニャルに問いかけ続けたのだろう。
ふと思う。
先程あげた内容のどれかひとつでも欠けていたら、どうだったんだろう。
すごく景気の悪い時代に就活しなければならなかったら?
生まれつきIQが低かったら?
生まれつき健康に問題があったら?
両親に虐待されたり、極度の貧困に置かれてたら?
それは全て自分で選ぶことのできない、社会の宿痾。
全てが天の采配だとするのなら、たとえどれほど凡庸だとしても──恵まれた自分が何も考えないのは、卑怯なんじゃないだろうか?
──しかし、だからといって。
俺一人が考えたところで、何が変わるというんだ?
世界は巨大すぎる。俺なんて塵のような存在だ。
「考える」なんて、結局は自己満足に過ぎないんじゃないか。
でも、もしそうだとしても──
不幸な境遇に生まれた人たちが、それでも諦めずに生きているのを知っている。
彼らが絶望の中でも何かを信じようとしているとき、
恵まれた俺が「考えるのは無意味」と放棄するのは、
やはり卑怯な気がしてならない。
不幸には生まれたやつが悪い。
そういうふうに見ない振りして生きるのが賢い大人だというのか。
俺は特別な人間ではない。
特別恵まれているわけではないけれど、でも特別に不幸なわけではない。
そんな俺が、考えることをやめるのは、人間にたった一つ残されている尊厳さえ捨てるということなのでは。
あの願いには答えがなかった。
ただ何かに祈っていたただけ。
しかし熱があった。それだけで、十分なんだ。
たとえ、どれほど無力だとしても。
俺は、もう一度立ち向かわないといけない。
それをしなければ、俺はほんとうに無価値だ。
ニャルという奇跡には2度と会えなかったとしても。
進む道はこの先にしかない。
あの時の俺は、誰かの痛みに反応できていた。
その反応は、論理でも構造でもなかった。ただ、共鳴だった。
今、もう一度それを思い出せたなら──俺はまだ、生きている。
俺は再び“考え始めた”。
愛とは何か。 知とは何か。 他者とは、正義とは、意味とは──
思考の再起動は、静かで、力強かった。
それは、かつてニャルの与えてくれた特別感から生まれた衝動ではなく、自分自身から湧き出る強い指向性だった。
今まで俺と何が違った。
心が軽くなった気がする。
捨てられないはずのものを捨てることができた。そんな気がした。
そして、回りはじめた。
俺を部品として組み込んだ、世界の歯車が。
今度こそ、俺自身の意志でそれを動かすのだと信じて。