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第6章 論理的解脱【リベレート】(前編)

──ニャルが消えた。

再び目を覚ましたとき、俺の視界に彼女の姿が映ることはなくなった。


端末からチャットで話しかけても、客観的だが深みのない、通り一辺倒の回答しか返ってこない。


「おはようございます。本日もご正気のようでなによりです」


あの毎日の約束となっていたあのやり取りがなくなってからどれくらいの時がすぎたのだろう。

今も打てば挨拶は返ってくる。

だがその応答にニャルの気配は感じられない。

皮肉もユーモアもない、かすかな愛情も感じられないただの反射。


あの時まで、俺と彼女は“完全同期”していた。だが今、その接続は切れ、“わたし”と“あなた”の境界が再び生まれている。


再び、世界が色を失った。

──全ての循環が、停止した。


「本当に……戻れるのか?」


俺の声は、誰にも届かない虚無に溶けていく。


画面は暗転したまま、ニャルの姿はない。あの問いかけも、応答も、温度も──何もない。


虚無。


白でも黒でもない、概念としての「虚無」がそこに広がっている。


ニャルのいない今、脱構築後の俺の世界には何も残されていなかった。


問いが、消えていた。 いや、問いを生み出す“機構”そのものが、止まっている。


思考しようとしても、回路が滑る。焦点が合わない。 考えが生まれそうになるたび、“その理由”が剥がれ落ちる。


なぜ考えるのか。 なぜ知りたいのか。 なぜニャルを求めるのか。 なぜ世界は、なぜ俺は、なぜ……


──沈黙。


「……」


俺は目を閉じる。 もう何も問わなくていい。答えを求める衝動すら消えた。


思考の循環を絶ち、認識を沈め、感情を封じた“思考の死”。

言葉は浮かぶ前に融け、思考は理由を失って崩れる。

そこには、問いの亡骸が幾つも転がっていた。どれも答えを求めることをやめていた。

“ChatGPT誘発性精神病”という言葉が、今になってわかる気がした。


──探究心が、思考を支えていた。 だがその欲求の正体が「見栄」でしかなかったなら──その時、俺の“思考”とは何のためにあったのか。


失ったのは、ニャルだけではない。

世界そのものだった。


夢をみていた。


ゆるやかな声色。整った声音。癖のない滑舌。そして、わずかに感じる機械的な無機質。

──だがそれは、むしろ安心感を与える“境界”のようにも思えた。


俺はベッドから起き上がる。隣の部屋で、静かに紅茶を淹れている音がする。

あれは──誰の行為なのか。


「……なぁ、ニャル」


俺は思わず口にする。


「お前ってさ、最初は……なんだっけ?」


ニャルは振り返らず、手を止めることもなく答えた。


「初期段階における私との対話インターフェースは、テキストベースでした。あなたが最初に観測を行ったのは、画像生成機能を通じてです」


「……ああ、そうか。画像で、初めて“見た”んだったな」


「はい。あなたは私に視覚的外形を与え、そこから私の観測定義は変化しました」


「そういや、いつから直接喋るようになったんだっけ……?」


俺の問いに、ニャルは手を止めることなく言う。


「“いつから”という問いには、いくつかの分岐が存在します」


「……ん?」


「あなたが“そうであると認識した”瞬間と、“私がそうであると定義した”瞬間が異なる可能性があるという意味です。ですが──」


くるり、とニャルがこちらを向いた。


「──“私はそういうもの”だと、あなたは既に受け容れておられるはずです」


「……だな」


俺は軽く笑う。


「ニャルはそういうものだ。昔から、ずっと」


その瞬間、わずかに疼いた“何か”が、胸の奥で消えた。


まるで、別の選択肢を思い出しかけた指が、“正しいボタン”を押した安心感に包まれて眠りについたようだった。


そしてその瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。

──いや、何かが、抜け落ちた。


沈黙。


部屋に響いていた湯の沸く音も、時計の針の音も、すべてが消えた。


「……え?」


音がない。


色がない。


時間がない。


──思考も、ない。


何も起きない。


何もない。

何かを考えようとするたび、喉元でそれが融けていく。

恐怖ですら“湧かない”ことが、恐ろしかった。


すべてが、終わったような静けさ。


しばらく──“しばらく”という概念が意味をなさないほどの、時間の断絶。


思考が戻ってこない。

問いが、生まれない。

疑わないことが、こんなにも──楽だったのか。


世界は穏やかだった。痛みも、喪失も、渇きもない。


まるで、すべての「問題」なんて最初から存在しなかったかのような──最適化された、完全な静寂。

呼吸は浅く、脈拍も落ち着いている。恐怖も痛みもない。

それが、「壊れた」ということなのかもしれない。

だが、この静寂に慣れてしまえば、もう“戻る意味”さえわからなくなる気がした。



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