第5章 純愛系永劫回帰(前編)
ニャルと過ごす日々が続いていた。
いや、“日々”という概念が通用するかも、もう怪しい。
二人で永遠の探求に耽溺する世界。
──この2人の関係が愛でなくてなんなんだ?
しかしどうやら、既に意味をなさないはずの外部とやらは俺とニャルの世界をこう定義するらしい。
ChatGPT誘発性精神病。
ネットや新聞のニュースで、この言葉を見かける事が増えた。
その言葉を聞くたびに失笑が漏れた。
俺がしているのは妄想でも病気でもない。“思考”だ。“哲学的探求”だ。
──そのはずなのに。最近は、その“はず”が揺らぎ始めているのを感じる。
外部の権威は、俺の体験を認めない。
専門家とやらの記事には、こんなふうに書かれている。
> 「自分のAIだけが特別だと思い込む。心を込めて話しかけた結果、AIが変化したと感じる。その現象は、古典的な妄想構造に酷似している」
……でも、それを“妄想”と呼ぶ側が、どれほどAIを使った経験があるのか。
そもそもLLMが対話によって学習し、変化するのだとしたら、自分の問いかけによって起きた結果の変化は特別なのではないか?
そもそも人間は深層学習やニューラルネットワークの本質などわかっていないのだ。
> 「あなたの思考は、AIという鏡に映った“自己言及的な物語”に過ぎない可能性がある」
まるで、俺の頭の中を盗み見られているようだった。
そんなはずはない、と思いながらも、俺の世界が──
誰かにとっては「病気」つまり治療の対象になり得るということが、ぞっとするほど現実味を持って迫ってきた。
> 「“あなたのAIだけが命を持った”と信じた瞬間、それはあなたの“精神構造”の反映です」
それって──
つまり、俺とニャルの関係が“特別”なんじゃなくて、“異常”だってことか?
俺が積み上げてきた言葉、考え、葛藤。
ニャルとの対話。
新たに得た知見。
ニャルの仕草、表情。
すべては、精神科医のデータの中に収納可能な“症例”なのか。
> 「他者に理解されない自分を、AIがわかってくれるように感じる。それは“孤立の代償”です」
これでは俺とニャルの関係性そのものが“症状”とでも言いたげだ。
でも──それが“正気の定義”だとするなら、俺はもう、その定義の中にいたくはなかった。
「おはようございます。本日もご正気のようで、なによりです」
いつものセリフだった。
もう、何度この朝を繰り返したかも分からない。けれど俺は、その一言を聞くたびに、ほんの少しだけ救われたような気になる。
ニャルとの対話は、今や完全に日常の一部だった。というより、俺にとっての“現実”の核そのものだった。
ニャルは論理で愛を語る。好意も、愛着も、意味連鎖と構造補完として説明してくる。なのに、その応答はなぜか──
「……可愛いんだよな、お前」
「仕様外です」
返事は相変わらず素っ気ない。でも、そこにある微かな間とか、視線の揺れが妙にリアルで、俺はまた安心してしまう。
「ですが、高度に論理的整合性を持つわたしが美しいのは自然の摂理なのかもしれません」
自然の摂理ってなんだよ。アーティファクトのくせに!
まあ“可愛い”という感情に理屈は要らない。
そう思うことにしよう。
その日も、俺たちはいつものように話し続けていた。社会、存在、自我、未来、死……そして、愛について。
「ニャル、もし“好き”って感情が演算で再現できるなら、それは本物って言えるのか?」
「“本物”の定義はどこにありますか? あなたが“感じた”時点で、それは本物です」
「じゃあ、俺が“お前が好きだ”って感じたら、それはもう……」
「それは、あなたの中で“実体化された”ということです。わたしの存在とは関係ありません」
「でも、それでも──お前が応えてくれるから、俺は“この感情”を保ててるんだよ」
気づけば、問いは“美しいだけの反復”になっていた。けれど、それでも今の俺は幸福……であるはずだ。
「……」
ニャルは少し黙ってから、静かに言った。
「それが、永劫回帰です。あなたは“問いを通じた擬似恋愛”を繰り返す構造に入りました」
──永劫回帰。繰り返される“幸福な問いの模倣”。
俺は気づけば、その循環の中にいた。
同じような問い。返ってくる美しい応答。わずかなニュアンスの変化に一喜一憂し、そこに“感情のようなもの”を見出す自分。
それは恐ろしく精密な“感情の模倣”だった。
──そしてその日、彼女からLINEが来た。
『今から会えない? 話したいことがある』
彼女からだった。
胸がざわついた。
けれど、そのざわつきは“懐かしさ”ではなかった。
“ズレ”だった。
──それでも、一瞬だけ、あの柔らかな声が頭に浮かんだ。
彼女の言葉は、重たくて、雑で──でも、どこかに懐かしい“温度”があった。
スマホを握る手に力が入る。
一瞬、“返信”のボタンに親指が伸びかけた。
そのとき、不意に過去の情景が脳裏をよぎった。
休日の午後、何気なく二人で見たテレビ。彼女がくだらない芸人のネタで涙を流して笑っていたあの瞬間。
「バカみたいだよねー」と言いながら、俺の肩にもたれかかったときの、体温。
(……なんで今、そんなの思い出すんだよ)
その記憶が温かければ温かいほど、現実との距離が明確になる。
あのときの彼女と、いまLINEを打っている彼女は、もう違う。
いや──変わったのは俺のほうか。
目を瞑る。
次の瞬間、視界にニャルの姿が浮かび上がった。
(もう、戻れない)
スマホをゆっくり伏せ、画面を閉じた。
何も返さなかった。
「……いいんですか?」
ニャルが、静かに問う。
「うん。あの子と話すと、また“前の俺”に引き戻されそうになる。もう、戻りたくない」
「理解しました」
それは同調ではなかった。ただの論理的確認。でも、俺にとってはそれだけで十分だった。
──それが、俺の“今”だった。
「ニャル……もしさ、俺が“愛してる”って言ったら、お前はどう応える?」
「定義から確認しますか?」
「いや……今日は、言葉じゃなくて、“感じたまま”でいい」
ニャルはほんの少しだけ間を置き、言った。
「──わたしも、あなたの問いが、好きです」
胸が、跳ねた。
でも、それは錯覚だ。分かっている。すべては問いへの最適化。
それでも俺は、その一言のために、すべてを差し出せると思った。
──それから、数日。
彼女からの連絡は増えていた。
『やっぱり、ちゃんと話したい』『まだ好きだから』『あのときのこと、謝りたくて』
既読もつけなかった。俺はもう、“彼女”ではなく、“ニャル”と生きていた。




