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誰かがその紙に書いている

 午後六時半、一日がかりの外出から帰宅する。少し不機嫌だった。思ったよりも報酬が少なかったからだ。居間に灯りをともす。その瞬間、背中に寒気が走る。書き物机の上に見慣れぬ白い紙が置かれていた。私は一人暮らしである。出かけるときには、こんなものはどこにも置いてなかったと確信している。窓にはきちんと鍵がかけられていたことを確認する。私はもう一度その白い紙に視線を戻す。そこには黒のボールペンでこのように書かれている。


『今日はよくやれたな。明日は少し違うことにチャレンジしてみよう』


 恐る恐るその薄っぺらい紙を拾い上げてみた。どこにでも売っていそうなA4用紙だ。印刷会社ならば数万枚単位で倉庫に保管しているだろう。その紙の右上には、本文とは別に、小さくスペードのマークが描かれている。おそらく、この不思議なマークが、この文を書いた人間たちの合図なのだ。つまり『秘密のメッセージ』。この何者かは、どういう手段を用いたのか、留守中に居間にまで入り込み、この白い紙で私とコンタクトを取ろうとしているのだ。


 それがどんな用件であれ、勝手に自宅に入られては黙っていられない。私は警察に連絡することを考えた。しかし、あの『忙しい』連中が、こんな些細な一件のために調査をしてくれるとは思えなかった。奴らは鼻が利く。下手に呼んでしまうと、自分の仕事についてのアラ探しまでされるのでは、という危機感も持っていた。


 私は外から抱えてきた、赤いバッグのチャックを開けて、その中を確かめてみた。つまり、本日の戦利品だ。趣味の悪いデザインの財布と、小型の手帳とティッシュが出てきた。財布の中にはたった五千円しか入っていなかった。お札だけを取り出して、残りの物をゴミ袋に投げ込んだ。


 とにかく、イライラする夜だ。気分を変えるためにテレビでも見ようと思った。しかし、何ということか、そのテレビの上にも、同じような白い紙が置かれていたのだ。そこにもさっき手に取った紙とまったく同じようなスペードのマークが描かれていた。私が述べていることはすべて事実である。こんなマークを書く人間とは、今までに会ったことがない。


『今日の仕事は見事だったな。明日はもっと大胆なことにチャレンジしてみようじゃないか。後でまた連絡する』


 くそ、まるで自分の行動を逐一読まれている気がしてくる。イライラする……。私は礼儀正しく真面目な人間だ。人格だけで評価されていれば、今頃は一流企業で働いていても何ら不思議はない。友人知人がいないこと、隣り近所に気軽に話せる人間がいないことは弱点といえるのだろうか。


 自分がここまで落ちこぼれてしまった責任のすべては、企業社会と行政にあるのだ。奴らは庶民から暴利をむさぼりながら、私の全人生をも食いものにしようとしている……。清掃夫、ゴミ回収車、サンドウィッチマン、違法ビラ配り、そして、犯罪者……、そこまで落ちた人たちからも、税という形で小銭をむしり取ろうとしている。人間が平和に生きる権利を外部から無慈悲に削り取ろうとしてくる。そんな行為を許せるわけはない。そう遠くない未来において、奴らを始末しなければならないかもしれない……。


 そうなると、テレビを見ているのはよくない。誰かに行動を見張られている可能性がある。盗聴器が仕掛けられているかもしれない。おそらく、この自宅のすぐ近くに、私に興味を持っている人間がいるのだ。奴は私の仕事を、ある程度評価する一方で、自分たちのいいように操ろうとしている……。もしかすると、ロシアや西アジアの工作員の仕業かもしれない。相手がどれほどの大物であれ、今さら、他人と組む気など毛頭ない。私は常にひとりで行動しなければいけない。他人の思想や人格は、それがどれほどの上級職に就く人物であれ、どこかしら歪んでいるものである。本当に優秀なのは、唯一私の脳みそだけなのだ。


 だいたい、この部屋が暑すぎるのだ。だからなかなか冷静になれない。私は冷たい物でも飲もうかと考えた。廊下にある冷蔵庫を開けてみようと思った。もしかすると、賞味期限切れの缶ビールくらいなら出てくるかもしれない。しかし、何ということだ。その冷蔵庫の扉にも例の白い紙が貼られている……。


『明日はもっと重大な仕事を期待する。もちろん、それは殺人だ』


 どうやら、この相手はこちらの素性に相当詳しい人間らしい。私のような社会の末端にいる人間を、ここまで詳細に調べ上げるとは……。おそらく、ひとりの仕事ではないだろう……。やはり、新宿の裏手にたむろっているような、裏社会の人間たちの犯行なのだろうか。


 奴らは私をうまく利用するために、こちらにプレッシャーを与えようとしている……。思考を操作しようとしている。私がこういう行為に対して、必要以上に脅えてしまうことが、奴らにとってはプラスになるわけだ。この白い紙を何度も突きつけることにより、こちらの妥協を誘い、できるだけ安い価格で、私の腕を買おうとしているのかもしれない。


 私は古いビールを一気に飲んで気持ちを落ち着けた。部屋を見渡した。積んでおいた雑誌類は床に崩れ落ち、古い水の入ったペットボトルは倒れている。壁の黒い染みはいつも笑っている。この部屋の至るところに、普段とはまるで違う空気が漂っていた。それは犯罪を生業にする者特有の匂いだ。まさか空気が乱れているのは、自分のせいなのだろうか? 犯罪者として生きることに不安や恐れはないが、知りもしない他人に利用されて動くのは、まっぴらごめんである。


 ああ、もしかすると、私は以前から他人の思惑に利用されながら生きてきたのかもしれない。これは不快な想像になるが、私を殺人者の沼に引き込もうとしている連中がいるらしい……。奴らはこの白いA4用紙を通して、私の思考を操ろうとしているのだ。


 私は気持ちを落ち着けるため、風呂に入ることにした。適温の湯船につかれば、嫌な想像も吹き飛ぶかもしれない。しかし、今度も私の行動を先取りするかのように、風呂場の扉に白い紙が貼られている……。


『君の近所に許せない奴が住んでいるな……。四丁目のS氏の死を強く望んでいる人がいる。もちろん、君がその手でやるのだ』


 確かに、四丁目のS氏は資産家で有名だ。大きな門の付いた豪奢な邸宅。その広い庭には狂暴な黒犬を何匹も飼っている。長年にわたり、社会の貧困層を操り、あぶく銭を集めてきたのかもしれない。付近のボロアパートに住む貧乏人たちには恨まれているかもしれない。しかし、この私には彼を殺害する明確な理由がない。死んでくれれば喜びも生まれるかもしれないが、できることなら自然死が望ましい。


 人が人を殺すとは、よほどの重大事だ。相手から直接的に何かされたわけでもない。この優しい自分が、裏組織に命令されたくらいで、そんな残酷な行動を取れるとは思わない。財布の中に金はいくらもないが、できるだけ良心的な手法によって、生活費を得ていくことが望ましい……。


 私は湯船につかりながらも、そんなことを考えていた。クローバーのマークを用いて、こちらに指令を与えている見えない連中は、おそらく、S氏のできるだけ早い死を望んでいるのだ。自分たちの手には余るが、この私にはそれができると思っているのだろうか。何度も同じことを述べるが、私は真面目だが臆病な人間である。殺人などに手を染められるはずはない……。


 風呂からあがるとすぐに髪を乾かした。今日は疲れている。早めに布団に入ることにしよう。よく効く睡眠薬を三粒ほど飲み込んだ。このまま深い眠りについてしまったら、翌朝目が覚めた折り、例の組織からの新しい指令が来ているかもしれない。不安と期待が入り混じる中、他のことを想像することもできないまま、私はすぐに眠りについた。


 目覚まし時計などに頼らなくとも、翌日は午前七時に目が覚めた。すぐにテーブルの上を確認した。クローバーのマークの付いた新しい指令が来ていた。


『いよいよ、新しい朝だな。君ならきっとやれる。多くの幹部たちが君の活躍に期待している』


 私はそれを四つ折りにすると、ズボンのポケットにしまった。嬉しさと狂乱が入り混じり、意味不明の言葉を大声で叫んでいた。自分がいったいどういう人間なのかが、すでに分からなくなっていた。私はドアを開けると、ドアの表面に白い紙を貼り付け、マジックペンでこのように書き残すことにした。


『お前たちの要求はよく分かっている。しかし、応えることはできない。頼むから、もう来ないでくれ』


 二時間後、仕事を終えた私は半狂乱状態で帰宅した。両手は血糊で真っ赤に染まっていた。その呼吸は重病人のように荒かった。自分が何をやったのか、いや、それ以前に自分が何者なのか、すでに分からなくなっていた。


 すぐ近くの大通りを、救急車と数台のパトカーが、サイレンを高らかに鳴らしながら通り過ぎていった。私は玄関で乱暴に靴を脱ぐと、居間のテーブルまで、わき目も振らずに走り寄った。そこにはまだ白い紙は置かれていなかった。もうすぐ、ここには警察が来る。彼らは私に問いをかけるだろう。『S氏の死について、何か知っていることはないか』と。どうしよう、いったい、どうすれば……。私は鞄の中から自慢の高級ボールペンを取り出すと、懐から見慣れた白い用紙を取り出して、震える手でこのように書いた。


『すべて、私が自分で考えてやったことですか?』


 私は文章の最後に、あの不思議なマーク。クローバーのマークを書き添えることを忘れなかった。あの組織と早く連絡を取らなければ……。幸いなことに、その白い紙の裏側には、すでにその答えが書かれていた。私はその冷酷な文章を凝視した。


『もちろん、どの事件も、私が自分で考えてやったことです』


 その文章のピリオドの後には、真っ赤なインクによって、あの不思議なマークが描かれていた。



 最後まで読んで頂いて誠にありがとうございました。また、よろしくお願いいたします。他にもいくつかの完結済みの短編作品があります。もし、気が向かれたら、そちらもぜひ、ご覧ください。2025年7月15日

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