9 ベラドンナの失敗
「あなたが、ローランの魔女、ベラドンナ?」
耳に暖かい、低い声だ。
ベラドナはいつの間にかかじかんでいた手に、わずかな体温が戻ってくるような心地がした。
淡い紫の瞳でベラドナは改めて男を見つめる。
紅い瞳に薄汚れたベラドナが映っている。
どうして、この男は目の前の薄汚れた女兵士がベラドナだと分かったのだろうか。
頭の隅で不思議に思いながらも、ベラドナも静かに告げた。
「あなたがジーンランドの鮮血の公子、アフエル・ジーンランド殿ですね」
男、アフエルはうなずく代わりに、赤い目を細めた。
良かった。
思いのほかはっきりとした自分の声に、ベラドナは安堵した。
「ローランは停戦を求めます。承諾していただけますね」
アフエルは少し目を見開いた。
この、敵の指揮官に剣を突き付けた状況で、停戦を口にしたことに驚いたのだろう。
ベラドナは、元よりそのつもりだったのだ。
降伏はしない。
不利な条件など呑むものか。
公正な停戦条約を結ぶために、ベラドナはあれほどの無理を通した。
すべてはローランのために。
「停戦の約束に、わたくし、ベラドナ・ディ・ラマンカの身を貴国に捧げます」
まっすぐなベラドナの視線から外れようともせず、アフエルは何も答えない。そのまま、そろりとした手つきでベラドナの乱れた髪に触れた。
切り落とされた髪の先を掌に乗せる。
まるで壊れ物を扱うような仕草に、切れた髪のことなどすっかり頭になかったベラドナの方が訝る。
髪の先をじっと紅い目が見つめていたかと思うと、アフエルはベラドナの肩を掴んで、驚くほど透る声を張り上げた。
「停戦の申し出を受ける! 即刻、戦闘中止!」
近くでこちらの様子をうかがっていたのだろう。
敵将たちが慌ただしく陣営を出ていく。
やがて、そう時もたたないうちに、停戦の銅鑼が鳴り響いた。
あちこちで湧きあがる歓声とも叫喚ともつかない声が銅鑼の音を掻き消すかのように幾重にも続く。
ぽつんと取り残されたベラドナは、ようやく息をついた。
「立てるか」
予想外に近くでささやかれ、ベラドナは自分の状態を思い出した。
思えば、ベラドナはずっと、アフエル公子の膝にまたがったままだったのだ。
妙な気恥ずかしさと共に、立ち上がろうとして、ベラドナは異変をようやく理解した。
腰が抜けている。
足に力を入れようとしても、全くいうことを聞かないのだ。
考えなくとも理由はわかっている。
ベラドナは、どんなに思い切りのいい決断力と勇気を持っていても、所詮は初陣なのだ。
今更ながら腹の底から震えが湧いてくる。
息が荒くなる。
目の焦点が怪しくなる。
どうしようもない戦慄きが、恐怖だとベラドナは分かった。
今日一日で、いったい幾つの命を奪ったのだろう。
ベラドナは記憶にある限りの数を数えてしまいそうになる。
だめだ。
そんなことをしては、ベラドナは、きっともう正気ではいられない。
ベラドナが自分で動けないことが分かったのだろう。
アフエルはベラドナを自分の膝から降ろした。
そのまま陣営を出ていくのかと思えば、アフエルは何を思ったのかベラドナを自分の膝の間に座らせて、そのまま子供をあやすように抱き締めた。
堅く冷たい鎧の奥から、ベラドナと同じ音が聞こえてくる。
心臓の音だ。
規則正しい命の音。
死んだ命と、生き残った命。
ベラドナは、罪を抱えて生きる道を選んだのだ。
それは、きっと、間違っていない。
次第にベラドナの吐息は穏やかになった。
それはベラドナが精神を整えようと気力を振り絞っていたからでもあったし、ただ無心に彼女を抱えてくれている腕のお陰でもあった。
包み込まれるような安心に、ベラドナは戸惑った。
「……リリーを思い出すな」
懐かしむようにアフエルはベラドナを柔らかく抱き締めたまま呟いた。
「……リリー?」
それは女の名だ。ベラドナは複雑な気分になった。だが、公子は平然と答えた。
「昔飼っていた捨て犬だ」
自分を過大評価するわけでもないが、仮にも傾国の美女と呼ばれるベラドナを抱いて犬を思い出すとは。
気が抜けるような、腹立たしいような気分をベラドナは怯えていたはずの腹の底に押しとどめた。
「怯えていた彼女をこうやって抱きしめてやると、落ち着いたものでね」
ベラドナは手入れのしていない髪を撫でられて、どうしていいのか分からずそのまま、じっとしていることにした。
「殿下!」
本営に一人の兵士が飛び込んできた。外套を身につけているところを見ると、士官クラスなのだろう。
が、総司令官であるはずの公子が敵国の姫であるベラドナをあやしている姿を見つけて、一瞬固まった。
「どうした」
アフエルは実にあっさりとベラドナを手放した。
重そうな鎧のくせにどうしてそれほど軽々しく動けるのかと思うほど、素早く立ち上がると、兵士の報告をうながす。
どうやら本隊が引き戻り始め、主だった将軍たちが陣営に戻りつつあるようだ。
ベラドナは自分の震えや怯えが不思議と治まっていることを確認した。
立たなければ、と思ったところで兵士と目が合った。
「殿下。この御方は……」
「ああ」と、アフエル公子も地面に座り込んだままのベラドナを見下ろす。
「ベラドナ・ディ・ラマンカ姫だ。彼女が停戦を申し出た」
公子がベラドナを紹介すると、兵士はようやくギョッと身を引いた。
それはそうだ。
重さはまるで違うが将軍と同じような甲冑を身につけ、泥と血にまみれた姫がどこにいる。
一目でベラドナと分かったアフエルは、やはりおかしいのだ。
「で、ではこの御方が、魔女ベラドンナ!」
どういう噂が飛び交っているのだろうか。
箒を持たされて飛んでみろと言われたら、どうしたものか。
ベラドナはのんきにそんなことを考えながら、立ち上がる。
「どうして、このような場所に魔女が!」
「噂通りの、美しい御方だな」
慌てた様子の兵士に、総司令官はのほほんと答えた。
「停戦の約束に、御身を我が国に預けてくださるそうだ」
「ええっ」
兵士は驚きとも歓喜ともつかない声を上げた。
どちらかというと、戸惑いの度合が大きい。
一瞬、憐れそうにベラドナを見遣ったが、すぐに兵士は視線をそらした。
何か、あるのか。
「い、いかがなさるおつもりですか!」
ベラドナの疑いの視線が痛いのだろう。兵士は一際大きな声で公子に応えを求めた。
一方、公子の方はのんびりと顎に指をあてて、すんなりと答えた。
「母上に御采配を仰ごう」
ベラドナは、一瞬、ジーンランドはそんなに妃の力が強かったかと自分の頭の中を探った。
しかし、どう思い出してもジーンランドの現妃が特別強い権力を持っているという情報はない。
訝るベラドナをよそに、アフエルは和やかに続ける。
「母上ならば、良い御采配をしてくださるだろう。母上は素晴らしい御方だから」
公子の応えを聞いた兵士の顔が盛大にひきつっている。
この馬鹿公子。
そんな罵声も聞こえてきそうだ。
まさか。
ベラドナはアフエルの顔を再び睨んだ。
学者然とした面構え、母上と呼ぶ顔のなんと締まりのないことか。
これが、噂に聞く、マザコンという生き物…っ!
いつかの晩餐会で、耳年増の令嬢たちがまことしやかに囁いていた。
結婚相手としてまず厄介な男が、何でも母親に相談せずにはいられない男だと。
男という生き物は大なり小なり、母親が大好きなものだが、度を超す輩が時折存在するという。
それが、マザーコンプレックス。略してマザコンという生き物。
まさか、自分の目の前にそんな男が立っていようとは。
戦場では颯爽としていた黒騎士が幻に見えてきた。もしや双子がいるのでは。だが、ベラドナの勘は、アフエル・ジーンランド本人だと告げている。
(嘘だと誰か言って!)
ベラドナは心の中で絶叫した。
(私は、なんて、早まったことをしてしまったの!)
人生最大の過ち。
ベラドナ・ディ・ラマンカ姫は、後にもそう語った。