7 ベラドンナの出陣
戦場の朝は、早い。
朝もやに覆われた下草は露に濡れている。
夜明けの肌寒さが、緊張を含んで怪物のようにベルランドの平地に落ちてくる。
しびれるような感覚をおぼえながら、ベラドナは軍馬をなだめるように首を撫でた。
馬も、人も、破裂する寸前の静けさで、爆発の時を待っている。
かつ、とドードー将軍が馬を単騎で進めた。
生まれたばかりの強烈な朝日を和らげる朝霧の向こうでも、一騎のひづめの音が響く。
ドードー将軍の大きな背中を見つめながら、将軍越しに現われてきた黒い鎧にベラドナは目を凝らした。
艶消しの鎧は陽光を吸収して鈍く揺らめいて見えた。将軍と違い、すでに兜を身に着けていて、顔は分からない。軍馬にまたがる姿は遠乗りに出かけるように悠然としているが、将軍のように巌のような大男ではない。だが、長い手足にはしなやかな膂力が見て取れた。鞍の両脇に、愛用らしい黒の長剣が二振り。
ベラドナは我知らず息を呑む。
彼だ。
鮮血の貴公子。
アフエル・ジーンランド。
禍々しささえ漂う騎士は、馬二つ分ほどの距離を残してドードー将軍と向かい合った。
ベラドナの場所からは将軍たちの声は聞こえない。
しかし、彼らは一言二言交わし、互いに馬首を反転させた。
朝もやが次第に薄れていく。
黒騎士の背中の向こうから、ジーンランドの陣営があらわになっていく。
くろがねの揃いの重厚な鎧。手に持つのは長槍。
小さな子供一人分はあろうかという装備で微動だにしない騎馬隊がローラン軍の目の前に広がっていく。
優雅さの欠片もない騎馬が城壁のように並んだ。
返り着いたドードー将軍が愛用の大剣を抜いた。
黒騎士も遠くで双剣を構えている。
ローラン軍とジーンランド軍の距離は、一個大隊ほど。
「かかれ!」
野太い大音声の次に、荒波のようなときの声が唸りを上げた。
一斉に飛び出していく騎馬隊と歩兵。
代わって、ジーンランドは騎馬隊のみだ。
ベラドナは飛び出さず、騎乗しているトトメスと徒歩のエメラルドと共に下がり、やがて前衛から下がってきたドードー将軍と共に、近衛兵と本営まで下がった。
少し小高い丘の上に、ローランの陣営は小さな森を背にしている。
山麓沿いに険しい絶壁がある場所もあったが、将軍はあえて小さなこの森を選んだ。
ベラドナはドードー将軍の隣でぶつかり合う馬と人が乱れ交じるのを横目で見た。
この時点で勢いは互角。
だが、将軍の表情は硬い。
ジーンランドの兵力は、ローランのほぼ倍ある。
ローランのほぼ全軍の相手をしているのは、彼らの三分の二ほどだ。
あの、黒騎士が帰っていった精鋭であろう騎馬部隊はほとんど動いていない。
「将軍」
ベラドナは素早く頭を巡らせた。
「わたくしに、騎士をいただけませんか」
ドードー将軍の周囲で攻勢を見守っていた将軍たちが驚いたように振り返る。
ベラドナは構わず続けた。
「弓隊を二人、騎馬を五人、いえ三人でもよろしいわ。なるべく足の速い者を」
今、この場にいるのはほとんどが近衛か第一師団の精鋭ばかりだ。
その中から人員を裂こうというのか。
非難めいた視線が彷徨う中で、ドードー将軍はベラドナを見据え、そして大声を張り上げた。
「タイラー! ファーガン! エルガ分隊はベラドナ様の指示に従え!」
命令を下されて、彼らが集まるのは早かった。総勢十二人。
ベラドナはざっと分隊の顔ぶれを確認し、将軍に向きなおった。
「ありがとうございます」
「いかがされるおつもりですか」
将軍は本営の遠くを見つめたまま表情は厳しい。
「一時、稼いでくださいませ。わたくしが狼煙を上げます」
「いずこから」
「あちらから」
ベラドナの細い指先が指したのは、将軍が見つめていた黒い壁、ジーンランドの本営である。
彼らは広い森を背に静かに出番を待っている。
「婚約者の顔を暴いてまいります」
化粧もない、飾る宝石もない、美しいドレスもない。そんな戦場にあって、ベラドナは大輪の花の如く艶然と微笑んだ。
「ははははははははは!」
ドードー将軍の哄笑に多くの兵士たちが目を丸くする。
「よし分かった!」
将軍は人の悪い笑みでベラドナを一睨みすると、唖然とする将軍たちに向かって大音声を上げる。
「毒を食らわば皿まで! 我々はベラドンナの姫君の露払いをして進ぜよう! エルガ!」
「は!」
呼ばれた騎士がドードー将軍にこうべを垂れた。
「姫君をしっかりお守りせよ!」
「は!」
焦げ茶の髪の騎士はそう返答すると、ベラドナに再度ひざまずく。
「ご命令を」
三十路をいくらか過ぎたほどだろうか。
この頭の良さからして、きっと、将軍の腹心だ。
ベラドナは将軍に心の中で最大限の感謝をして、顔を上げた。
「わたくしについてきてください」
ベラドナは十騎あまりを連れて、本営を飛び出した。