3 ベラドンナの本当
それからは慌ただしく過ぎた。
王子の婚約破棄に始まり、突然現れた新たな婚約者。
国王と正妃は息子の幸せそうな様子に折れたらしい。彼らの結婚は瞬く間に決まった。恐らく王子の根回しが素早かったのだ。そういうことに長けた男だ。
最後まで王子と新しい婚約者との結婚に反対していたのは、ベラドナの両親ではなく、予想外にベラドナの二つ年下の弟だった。彼もまた、優秀な文官として城勤めをしているが、小さくはない発言権を持つ貴族だ。
ベラドナは久し振りに領地の屋敷に戻った弟と向き合いながら、首をかしげた。
「どうしたの。キール」
好きなニルギリの紅茶に口をつけようともしない弟は、見た目にも重たい青を基調とした肘掛け椅子に腰をおろしたまま微動だにしない。
いつの間にか姉を追い越した背を姉同様にぴんと張り、若くして外交を任されている長官の長い上衣を身につけている。長めの髪は母親譲りの柔らかいブロンドだというのに、底冷えのするような深い蒼の瞳が温かみ一切を払拭する。
内外から氷の長官と呼ばれる青年は、細い鎖のついた眼鏡の底から睨むように姉を見つめている。
元々整った容貌でもあるため、睨まれると海千山千の交渉官たちも震え上がるという。そんな双眸を平然と受け流し、ベラドナはゆったりと紅茶を飲んだ。
どんなに睨まれようが、彼女のあとを一生懸命くっついてきていた弟に変わりはない。
「どういうつもりですか。姉上」
余談を許さない詰問にも近い口調で、キールは重苦しく口を開いた。
「王子との婚約を放棄するなど」
「破棄よ。それにそれはもう終わった話だわ」
言い募ろうとする弟をベラドナはやんわりと、だが一刀両断する。
「情報が遅いわね。渉外担当が聞いてあきれるわ」
先手を打たれたキールはぐっと言葉に詰まる。が、彼もプロだ。これで押し黙るようなことはしなかった。
「今、王子との結婚を姉上が放棄するということは危険なのです」
人払いした部屋に二人の他に人はない。
それに、この屋敷には身元の確かな数人の古参の使用人しかいない。
それでも人の気配がないことを確認してから、キールは低い声で続けた。
「隣国の動きが怪しいのです」
海と山に囲まれたローラン王国に、隣国は少ない。
ベラドナはカップをソーサーに戻して、その小さく揺らめく紅茶に視線を落とした。
ローランは交易の国として名高く、過去の戦争で負けた記録は少ない。それは戦争を事前に回避することが多いことと、交易で得た資金力と交渉能力で巧みに勝利を得てきたからだ。だが戦いの記憶は、平和な時代において過去の記録として久しい。
「……大地の国に、不穏な動きがあるようね」
隣国の一つ、山ばかりに囲まれている国土を持つ国がある。
ジーンランド。この国とローランは百年前に平和条約をもって以来、国交も問題はなかったはずだ。
ただ、ジーンランドという国は内陸国という土地柄、大なり小なり小競り合いが絶えない国でもあった。そんな国が適当な小競り合いを平定し始めたという。
友好国としてあるローランとしては、この動きを慎重に見極める必要がある。
平和的な外交に転換したのか。それとも、
「災いの可能性もあるのね」
大きな戦争の前触れか。
キールは湯気の薄れてきた紅茶を見つめ、ベラドナの言葉に続ける。
「西の大国の動きが活発なのです」
ジーンランドとは反対の隣国、モイラは大国だ。海と肥沃な大地に恵まれており、大陸においてこの国は誰も無視できない存在感を持つ。
平和はバランスだ。
大きな国も小さな国も、微妙な諍いをこまめに解決していくことが求められている。ローランはその性格上、仲介役を買って出ているが、それゆえの問題もある。
「西では、若い王が即位したようね」
ラマンカ家の領地は多くあるが、西の大国モイラに近い。
それは昔、ラマンカ家がモイラと戦争をした際、領地を賜ったという経歴に基づいている。
「簒奪した、という話は本当なのかしら?」
大国ゆえの、斜陽に向かいつつあった王家にあって、彗星のごとく現れた若い王。民意は掴んでいるようだが、老獪な、ともいわれるローランとしては、若い後継者はいささかやりにくい。
「噂の域を出ないところを見ると、話ほど馬鹿ではないようですが」
容赦のない言葉を零し、キールはようやく冷めた紅茶に口をつけた。
「大国は、大地の国に揺さ振りをかけているようです」
一部分だが大国と大地の国はローランを囲んで土地が接している。その地域の小競り合いが近年活発になってきていた。しかし、ローランよりも広大とはいえジーンランドはモイラに比べて内陸の小国。もし、ジーンランドがモイラの揺さぶりに堪えかねてローランをまず手中に収めようとすれば、良い意味で平和ボケしたローランとしてはたまらない。
「転換期。と、歴史家はまとめようとするでしょうね」
ベラドナは紅茶をサイドテーブルに置いて、その繊指を膝に置く。
窓の外を見遣れば、針葉の森が見渡す限り続いている。この地域で太陽を見ることは稀だ。ここに春の兆しは遠い。代わりに溜息を白くさせる冬の厳しさが残るようだ。
「新しい玩具を得た王がどう動くのか」
もしかすると、この慣れ親しんだ森が戦乱に焼かれる光景を目にする羽目になるかもしれない。
中央政治に慣れたラマンカ家で、はたして領民を守り切ることができるのだろうか。
「―――だからこそ、姉上が王子の妃となるべきなのです」
氷の長官のまま、キールははっきりと呻いた。
「ただの町娘では立つこともできないでしょう。これからを」
これから。
ベラドナはキールの言葉を唇の中で繰り返した。
ベラドナは、家族にぬくぬくと守られて育った普通の良家の子女ではない。
父も母も、そしてキールも、その仕事の大半を自領から離れた王都でこなしている。
それは、王家にとってラマンカ家の立ち位置の重要性を表しているが、ラマンカ家にも治めるべき領地がある。
その一切を、キールが城勤めを始めてからベラドナが一人で取り仕切ってきた。
物心ついたころから領地を治めてきたベラドナの視点は、たおやかな美しい姿に反して辣腕をふるう領主そのものだ。
政治的な立ち回りの点を考慮すれば、彼女以上の妃候補はいない。
だが、それでは、
「甘えないで。キール」
はっきりとした声音に、キールはびくりと顔をこわばらせた。
表情などほとんどないといわれるキールのわずかな綻びに、針を差し込むようにベラドナは淡い紫の瞳を細めた。
「私が妃となれば、あなたは仕事をしやすいのでしょうね」
気心が知れるという以前に、国勢を敏感に察知する妃が王の隣にいるというのは、現状を考えれば、文官たちの安心感が違う。
だが、それでは駄目なのだ。
国を守るということは、
「あなたは領地を守るということが、どういうことなのか、全くわかっていない」
国政を守ることだけでは務まらない。
国民を守ることだけでも務まらない。
キールは鼻白んで、しかし返す言葉が見つからないようで、彼の青白くもある頬にうっすらと朱が浮いた。
ベラドナは、今までの功績から名実ともに女主人という地位にも就ける立場にあるが、大貴族ゆえにその立場は弱い。
もしも、戦争が起こるようなときには、真っ先に敵国へと嫁がなければならない立場なのだ。
フレドリックの妹はまだ幼く、そしてベラドナは適齢期を幾らか過ぎてはいるが美姫と名高い。どちらを欲するかは明白だった。
ベラドナは聡い弟に微笑みかける。
彼は、その立場から知り得たことを元に、本当にベラドナの身を案じているのだ。
「ありがとう。キール」
優しい弟を見つめ、ベラドナは瞳を閉じた。
現状は芳しくない。
キールの退室した応接間でベラドナは空を見つめたまま、口火を切った。
「起こるのね。戦争は」
森の向こうへと沈む夕焼けが、ベラドナの影を長く伸ばしていく。その部屋の隅にくすぶる暗闇から「はい」と応えが返ってくる。
「東のジーンランド方面の山間部に斥候部隊を発見しました」
低く、くぐもっているが男ではない。女の声だ。
「開戦は、ベルランドね」
ローランとジーンランドの間に広がる平地だ。古戦場ということもあって、砦の跡と駐屯兵以外住む人はない。
山に囲まれた平地で、古くはローランとジーンランドが争った因縁の地でもある。
勝手知ったるとはこのことだが、ローランはジーンランドとは違い、ここ百年は大きな戦争を経験していない。
「アトロポス」
ベラドンナが呼ぶと、声は小さく息を呑むのがわかった。しかし、それは数瞬で命令通りに暗闇から滑り出てきた。
頭からかけていた布を取り払って現れたのは、メイド姿の女だ。ベラドナと同じか少し年上か、小麦色に焼けた肌はこのローランでは珍しい。メイド姿であっても隙のない様子は野生の獣を思わせた。その眼光は鋭い。しかしその容貌は繊細そのもので、小奇麗にまとめた髪は、滑らかな雪のように白い。
無表情に白髪の女は、恭しくベラドナの前でひざまずいた。
「今から、あなたは私付きの使用人であり、騎士となりなさい」
弾かれるように、女は顔を上げた。
「ベラドナさま!」
悲鳴のように声を荒げる女を見つめ、ベラドナは微笑んだ。
「今日からあなたはアトロポスではなく、エメラルドと名乗りなさい」
エメラルドの瞳は、新緑のように明るいのだ。
「ごめんなさい、巻き込んで。けれど、他にあてがないのよ」
今まで、ベラドナにあらゆる情報を運んできていたのは、このエメラルドだ。
彼女の助けあってこそ、ベラドナは領主としてやってこれた。
本当は、一人では辛かった。
けれど、エメラルドが影で支えてくれたからこそ、ベラドナは華やかに歩くことができたのだ。
感謝こそすれ、今から彼女に命じることは幸せとは程遠い。
支配階級の者は、簡単に謝辞を示してはいけない。
だが、ベラドナは彼女に謝らずにはおれなかった。
ベラドナの一見明るい声を聞いて、表情など忘れていたようなエメラルドの顔が泣きそうに歪む。
「いいえ…いいえ…、姫の赴かれる場所ならば、たとえ地獄であろうとお供いたします」
優しい彼女ならば、そう言ってくれることが分かっていただけに、ベラドナは自分の罪を噛みしめた。
「あなたは、私の友人であり、ラマンカの領民であるのに、私のわがままに付き合わせることを、許して」
ベラドナは、長い漆黒の髪を背中に払った。
そして立ち上がる。
赤い夕日の残像を、暗い夜が覆い尽くそうとしている。
「忙しくなるわ」
喰われてなるものか。
きっと、最善の結果を掴み取ってみせる。
ベラドナは、淡い紫の瞳に強い光を宿した。