2 ベラドンナという姫
ベラドナ・ディ・ラマンカは、美しい姫だ。
漆黒に濡れた長い髪、乳白色の柔らかな白い肌、その美貌は神さえ誘惑するともいわれるほど、甘く艶めいている。
薄青の絹を幾重にも丁寧に重ねたドレスを纏い、手入れの行き届いた庭園の椅子に腰かけるさまは、一枚の絵画のようだ。
しかし、しどけなく足を組み、寛いでいるようにも見えるというのに、その華奢な背はピンと硬く伸びている。
ベラドナと初めて対峙する者は、大方その迫力に圧倒された。
見た目には細い印象だが、彼女は背の低い方ではない。そしてその上背から艶然と微笑みかけられると、凄絶な美貌も相まって、まるで自分が彼女の従順なしもべになったかのような気分に陥る。大貴族の姫ということもあり、実際に彼女にひざまずく者は多い。
誰もがこうべを垂れてしまう毒のような美しさ。
その薄い紫にけぶる瞳で見つめられれば、誰もが虜となる。
たおやかな彼女を人々はこう呼んだ。
ベラドンナ。
猛毒の実をつける花の名前である。
間違ってはいない、とベラドナは思う。
文字でつづれば本名と読み方が少し違うだけなのだ。
「噂どおりに男たちを手玉にとるような、毒婦らしいことを一つもしたことがありませんのよ」
でも、と目の前で紅茶を飲む男に向かって微笑んだ。
「一度ぐらいはやってみてもいいのかもしれませんわ。―――例えば、その紅茶に毒を入れてみるとか」
「ごほ!」
目の前でまさに紅茶を飲んでいた男は目を白黒させて紅茶を噴き出しかける。
常ならば、白い詰襟を着ていてそんな失態は犯さない男だが余程驚いたらしい。気管に入ったのか側付きの護衛官に背中をさすってもらっている。
情けなく咳きこむ姿を見ながら、未だ一口も飲んでいなかった紅茶にベラドナは口をつける。
アップルフレーバーの良い茶葉だ。ベラドナの好みの茶葉だった。
世間というものは暇らしく、美しいという女に毒の名前であだ名をつけたと思えば、どこそこの貴公子を骨抜きにしただとか、夜ごと男を連れ込んでいる毒婦だとか、果ては姫に化けた魔女だという噂まである。
そんな噂の付きまとう姫を婚約者にしていたのだから、目の前の男はそれなりに胆力があった。
今は涙目になって口をナプキンで拭っているが、陽光に映える美しい銀の髪に娘たちが嫉妬するような白い肌、華奢なイメージもあるが広い肩幅の美男子である。
ローラン王国の王位第一継承者、フレドリック・ローラン。
たった数日前までベラドナの婚約者だった男だ。
涙でうるんでいる碧眼を向けられれば、その肩書と美貌にどんな娘もたじろぐだろう。
「……お前が毒とかいうとシャレにならないぞ。ドナ」
「まるで昔とお変わりありませんのね。リック」
二人は幼馴染だ。
小さなころから目合わせて、将来は夫婦となるよう仕向けられていた。
きっと、それで良かったのだろう。
今までは。
「では、そろそろ紹介してくださらないかしら。あなたの婚約者を」
ベラドナは同じ席につきながら、先ほどから人形のように黙りこくった少女に目を向けた。
幾つか年下に見える少女だった。
赤に近い茶色の髪、同じような茶色の瞳。日に焼けた顔は太陽のようで、ベラドナから見れば子犬のようにも見える。
細い体に、お仕着せのようなドレスを着せられていた。慣れていないのは、一目瞭然だった。
「初めまして」
「はっはじめまして!」
ベラドナは小さな子供に向けるような、なるべく優しく見えるように微笑んだ。
すると少女はほっとしたように、笑顔をにじませた。
素直な少女だ。
「ベラドナ・ディ・ラマンカと申します。あなたは?」
「あ、あたし……いえ、私は、マーガレット・リリースといいます」
どぎまぎとしながら答える少女を、隣のフレドリックはハラハラしながら見つめている。
まるでベラドナがこの少女を取って食らってしまわないかというようだ。
彼には妹がいるが、それでもこんなに心配そうな顔で見守っていることはない。
「お針子のお仕事をされているのですってね」
ベラドナがそう口にすると、フレドリックは驚いたように碧眼を丸くした。
彼女の経歴を知る者はそういない。
表向きの経歴は、良家の遠縁なのだ。
フレドリックの動揺をよそに、マーガレットは穏やかに微笑んで、しかししっかりとした目でベラドナを見つめてうなずく。
「はい。城下町でお針子をしておりました」
誇りある者の瞳だ。
彼女は、仕事に誇りを持っている。
女の仕事は、そう多くない。
中には騎士団に入り、身を立てようとする者もいるが、それはほんの一握りのことで女の仕事はどれも下働きや男の手助けをするようなものが多い。
そんな中でもっとも一般的なのが、お針子だ。
孤児であろうと、お針子の師匠に雇ってもらえれば、自分で稼げる職業なのだ。
そして、マーガレットも例も洩れず、孤児ということだった。
「ここ何日か、針を持ってなくてちょっと不安なんです」
ベラドナは、彼女の茶色の瞳を見つめた。
良家の子女であろうと、意思の持てる女は少ない。
一国の妃になるということは、強い意志がなければならないのだ。
「……安心したわ」
「え?」
目を丸くするマーガレットにベラドナは、今度こそ微笑んだ。
「ドレスを一つ、作ってみたいの」
ベラドナの言葉に、今度はフレドリックが気色ばむ。しょせん庶民の娘だと、ベラドナが侮った言葉に聞こえたのだろう。この少女の前では百戦錬磨の王子も肩無しだ。それを内心、小馬鹿にしながらベラドナは続けた。
「わたくし、自分でドレスを作ってみたいの。よろしければ教えてくださらないかしら」
にっこりと微笑んだベラドナを驚いたように見つめたマーガレットだったが、やがて嬉しそうにうなずいた。
きっと、これから彼女たちには人並み以上の苦労が付きまとうだろう。
だが、それでも大丈夫だ。
幸せそうに並んで歩く二人は、きっとこの国の希望となる。
ひとしきりお茶の時間を楽しんだが、これから花嫁修業があるというマーガレットに伴ってフレドリックも城の中へと帰っていった。
ベラドナはゆったりと、ひとり残った庭園で紅茶を注ごうとポットに手を伸ばす。
「お注ぎいたしましょう」
メイドではない、低い声と共に大きな手がポットの取っ手をさらった。
見上げると背の高い男がゆっくりと紅茶をベラドナのカップに注ぐ。
くろがね色の髪は短いが尻尾のように一房だけ長く、ベラドナを見下ろす黒の双眸は鋭い。騎士の中でも護衛官だけに許された藍色の制服を着崩していて、見た目は城下町を闊歩するチンピラにも見えた。
「どういう風の吹きまわしかしら。トトメス・ブレド」
トトメスはおどけるように首を傾げて「どうぞ」とポットをテーブルに置いた。
「リックのお守りはもういいの?」
「城の中に何人兵士がいるとお思いで?」
それでも、王子付きの護衛官が持ち場を離れることはごく稀だ。しかし、この男の意図が分かって、ベラドナは苦笑した。
「いいお嫁さんを見つけたわ、リックは。きっと幸せになる」
トトメスもまた、小さな頃から王子の側付きとして育った。だから、ベラドナとも幼馴染の間柄だ。
「次はあなたの番ね、トト。いい年頃なんだから早くお嫁さんを見つけることね」
「まるでドナは俺達の母親だな」
肩を竦めるトトメスを見上げ、ベラドナも呆れたように笑う。
「こんな大きな息子を持った覚えはないわ」
両親と弟が健在のベラドナと違い、フレドリックとトトメスに母はない。幼い頃、相次いで亡くなったのだ。そうしたこともあって、ベラドナは三人の中で母のようでもあり、姉のようでもあった。
ベラドナが無骨な護衛官の注いだ紅茶に口をつけると、じっと彼女を見ていたトトメスは切れ長の双眸を少し伏せた。
「……悪かった。ドナ」
暖かい風が吹いた。
綻んだ花の香りも漂うようだ。
春は近い。
一年を通して気候の穏やかなローラン王国に、季節の感覚は薄い。だが、冬から春の変わり目に、花の兆しは確かにある。
穏やかなざわめきを心地よく受け止めて、ベラドナは微笑んだ。
「お前の幸せを、壊すつもりはなかった」
幸せ、だったのかもしれない。
王子の婚約者という立場は、確かに栄誉なものだった。
しかし、フレドリックは彼の幸せを見つけたのだ。
そして、ベラドナはその立場の喪失と同時に、その喪失感のあまりの軽さに驚いた。
己の歩もうとしていた人生の、あまりの安直さと軽さに。
見た目だけは派手な張りぼてのような婚約だった。
「トト」
これで良かったのだ。
「リックをこれからもお願いね」
美しく、ベラドナは春の日差しのように微笑んだ。