10 ベラドンナと宮殿
その宮殿は、息をのむほど眩かった。
広大な敷地には太い白の石柱が延々と並び立ち、刳りぬかれた箱庭には水と緑が惜しみなく添えられ、それらを繋ぐのは巨大な円形の建造物群。色とりどりの鮮やかな半円の屋根は大小さまざまで、もはや数えることさえ出来ないほど所狭しと乱立している。
岩と枯れ木の荒野に突如として現れた楽園か、お伽話の蜃気楼か。
しかし近づいた旅人は、この岩肌が剥き出しの山脈と一見荒れた原野にぽつんと立つ幻のような宮殿が巨大な都市であることを知る。
ここが、ジーンランドの首都、アシュクミである。
差し込む日差しに目を細め、ベラドナは瀟洒なテーブルに置かれたグラスを手に取った。とろりとした琥珀色は刳り抜きのベランダから注ぐ陽光を受けて宝石のように輝く。この国の紅茶は蜂蜜をたっぷりと加えるので、まるで菓子のように甘い。
昼間は暑く、夜は霜が降りるほど寒くなる極端な気候が生み出した料理は、常春の国、ローランでも山に囲まれた北の領地で生まれ育ったベラドナには物珍しさを誘う。
「他に御用はございませんか。姫様」
籐椅子に腰かけているベラドナの隣に控えてそう微笑むのは、この灼熱の地で育ったと
は思えないほど肌の白い娘だ。一枚の布を体に巻きつけるようなドレスに細かい細工の入
った肩布を巻いて腰紐で止めるという簡素な格好だが、これがこの国での一般的な衣装だ。
足には皮のサンダルだが、綿のドレスの袖は肘まである。
袖は短ければ良いのではないかと問うと、直に日差しを浴びる方が暑いのだそうだ。
確かにこの国の太陽は、ローランとはまるで違うもののように、その力を存分に発揮している。
ベラドナは、ちょうど影になる場所に置かれた籐椅子から緑溢れる庭を眺めているのだ。
「いいえ。もう用はないわ。ありがとう」
微笑みながら言うと、今年で十五だという娘ははにかむように微笑み返して部屋を辞していった。
荒地に巨大な蜃気楼がある。
枯れ木と岩が延々と続く荒れた大地に、白亜の城壁が突如として現れる姿を旅人は皆驚くという。尖塔が幾つも立ち並び、重厚な城壁の内に入れば、楽園のように緑と水が来る人を出迎える。
鮮やかな木漏れ日を浴びて、初めて旅人は知るところとなるだろう。
岩肌が向きだした山脈に抱かれたここが蜃気楼でも楽園でもなく、巨大な都市であり、宮殿であり、要塞であり、ジーンランドが首都、アシュクミであることを目の当たりにするのである。
あの戦場から、ベラドナはジーンランドへ連れられて来た。
彼女の申し出通り、ローランとジーンランドの停戦協定は粛々と進み、停戦の証としてベラドナの身柄をジーンランドへ送ることが正式に決定した。
それは、交渉における人質であることと同時に、ベラドナのジーンランドへの強制的な輿入れと同様の意味を持った。
しかし、思わぬことが覚悟を決めたベラドナに告げられることとなる。
第一皇子預かり。
つまりは、第一皇子の客人である、ということになったのだ。
それは、ベラドナのみならず、交渉の席に座ったローラン側の人間を大いに驚かせた。ベラドナの美貌は国中ならず、国を超えて誰もが知るところであり、このような時でもなければ、重要な外交手段としても奥の手とも言っていい姫である。そのような姫を手中に収めることが出来ながら、ただの人質、しかも客人として丁重にお迎えすると言うのである。
対外的には公平な停戦であっても、ローランの苦肉の策として姫を差し出した形であるのは自明の理であるにも関わらず、ジーンランドはあくまでこの停戦を協力的に進めたといっても良い結果になった。
ローランにとっては体面の良い結果となったが、ジーンランドはその軍事力の高さを内外に見せた上で、その懐の深さを誇示できることにもなったのである。
悪くない。
上出来とも評していい結果だ。
しかし、自分の言った言葉がそのまま結果になるなど、往々にしてあるものではない。
ベラドナはその第六感に小骨のように引っかかる薄気味悪さを未だ拭えないでいた。
半日足らずの戦を終えて、すでに七日は過ぎようとしている。
最初の数日は停戦の準備で慌ただしく過ごし、ようやくこのアシュクミに入ったのはつい二日前。
ベラドナは一度、ローランへ返されることも協定の場で提案されたが、ベラドナ自身が望んで戦場からそのままジーンランドへ入ったのだ。
ろくな荷もなく、着替えもままならない状態のベラドナをジーンランドはそのまま受け入れた。
ベルランドからの護送中は他の兵士たちと同じような服とテントを与えられ、付き人は無かったが、アシュクミの宮殿の端にある屋敷に通されると、まず一人の使用人と侍女一人を紹介された。そして、一も二もなく浴室に放り込まれ、身を清めさせられると次に待ち構えていたのはドレスの採寸だった。
用意されていた家具の様式こそジーンランドの物だが、ドレス、靴、下着、化粧品に至る生活用品の全てが、ローランの様式の物が揃えられていたのだ。
ベラドナは既に使い物にならない剣だけを取り上げられただけで、鎧やマントは手元にある。
与えられた屋敷は、この国では珍しい三階建てだ。
アシュクミに多くある尖塔は神に祈る塔で、塔の高さを超える建物は厳禁とされている。人口の密集した庶民の生活地区でも二階建てほどしか見られず、この宮殿の建物のほとんどが平屋であり、この屋敷は緑の多い宮殿の中でも頭一つ抜けて見える。
この首都は、宮殿を中心に細かく区画が厳密に整理されている。
限られた土地で、限られた資源で豊かに暮らすため、その法はたとえ王族であっても違えることは出来ないという。
しかし、その土地が貴族と平民で区切られることはなく、売買契約によって取引されている。身分によって住む土地も決められているローランから見れば、アシュクミという土地は一種の自由特区のようだ。
人民がせめぎ合うような街の向こうに、ジーンランドの信仰の塔が見える。
この国の宗教は王族と交わることを許さないので、尖塔のほとんどが宮殿の反対側だ。
遠く、幻のようにも見える塔は、べラドナに己の未来を思わせた。
べラドナの婚約者として戦場で相対した第一王子は、彼女に一度も会いに来ていない。